「 霧 」




 ──寒い…
 奈緒子は身を震わせ、その細い腕で、自分の肩を抱いた。
「上田〜、どこだぁ〜」
 出せる限りの大声で、あの男の名を呼ぶ。はぐれてからもう…1時間は経っているのでないだろうか。
「う〜、寒い」
 一層強く、自分を抱きしめた。
 ──寒い寒い寒い…
 あたりは一面、霧。真っ白い霧の中にいれば、もちろん体も冷えてくる。
「う〜え〜だ〜…」
 あの男も寒いのは苦手なはずだ、きっとどこかで震えて縮こまっているに違いない。
 ハァ…と、息をつく。すっかり冷えた体から出る、その息すら白い。
「どこにいんだよ、あの…馬鹿は」
 ジャリ…足元で、砂土が鳴る。
 こんなところ、来るんじゃなかったと呟きながら、奈緒子は歩き出した。


 それは、昨夜遅くの出来事。
「困りましたね…」
 いつものように、上田に半ば騙されて、奈緒子は上田と共に、妙な霊能力者と対決するべく、とある村にきていた。
 とりあえずはその霊能力者がインチキだと言う事がわかり、事件も解決した。そのまま帰路についたのだが、村を出た時間が遅かった為に、途中で休まざるを得なく、湖畔にある村に立ち寄る事になったのだった。
「どうか、しましたか?」
 さすがに事件がらみで訪れる村よりは発展していて、小洒落たペンションなどもあった。
「あ、これはこれは…山田様」
 上田と奈緒子が泊まる事になったのも、そんな小洒落たペンションで、オーナーは気の良さそうな中年男だった。
 様付けで呼ばれる事に慣れていない為か、どうもこんばんわ…などと小さく呟く奈緒子に、オーナーは何ともいえぬ笑みを向けた。
「何か、あったんですか?」
「いえね、どうやら湖畔の方に、霧が出そうだという予報が出たものでして」
「霧?」
「えぇ、それがちょっと…ね」
 言いよどむオーナーの様子に、奈緒子は首をかしげた。
「霧って、あの白っぽい、ガスみたいなヤツですよね?それでどうして困るんですか?」
 好奇心…からだった。あとで自分のこの好奇心を、憎く思ったものだ。
「それはそうなんですけどね、ここらでは昔から、湖畔に霧が出ると良くない事が起こると言われておりまして」
「そんなの、ただの迷信じゃないですか?」
 さらっと言ってのける奈緒子に、オーナーは苦笑いを浮かべ、続ける。
「迷信と、言い切れるのであれば良いのですが…」
「何か事件とか起きてるんですか?」
 オーナーはう゛〜んと唸る。
「余所者にはわからねぇべ」
 そんなオーナーと奈緒子を見比べながら、オーナーと話をしていた見知らぬ男性がもどかしそうに口を開いた。
「そりゃぁ、まぁ、そうですけど…」
 どんな場所でも、外界からきた人間を好ましく思わない者もいる…奈緒子はそれをふと、改めて感じて口をつぐんだ。
「まぁまぁ、ガンさんは頭が固いんだよ。このペンション村を作る事には、ガンさんだって反対しなかっただろう?」
「…いつまでも閉鎖的なぁのは、あかんべ」
 オーナーにとがめられ、ガンさんと呼ばれた男性はもそもそと答えた。
「で、あの…さっきの話の続きなんですけど」
 地元の人間のそういう気持ちも分からなくはないが、今の奈緒子にとっては先ほどの霧の話についての興味の方が強い。
「え?あ、あぁ…あの事件の事は、このガンさんの方が詳しいでしょう。私はちょっと仕事が残っておりまして」
 申し訳ないと続けながら、オーナーは奈緒子とガンさんを残し、その場を離れていった。
 ガンさんは最初は言い渋っていたが、しつこく食い下がる奈緒子に負けて、一部始終を話してくれた。

 数十年前の古い言い伝えから話してくれた。

 随分と昔の出来事だ。
 村一番の美しい娘が、ふらりと立ち寄った若い旅人と恋に落ち、毎夜この湖で逢瀬を交わしていたという。身も心も捧げ、娘はすっかりその男に心酔していたのだが、男は旅人。
 ある日、来た時と同じようにふらりと村を去ってしまった。男にとってはただの遊びに過ぎなかったのだ。
 娘は自分が遊ばれて捨てられたのだと気付くが、時すでに遅し。毎晩にも及んだ夜伽によって、娘は子を宿していたと言う。
 まだ堕胎の技術などないその時代、生み育てたいと娘は泣いて親に縋ったが、生まれた子はすぐに湖に落とされた。その事を知ってしまった娘は嘆き悲しみ、産後の弱った体で湖に子を探しに行き、そのまま命を落としたと。
 娘が旅の男と出逢ったのも、初めて結ばれたのも、男が出て行った時や娘が亡くなったのも全て、霧の濃い日の事だったらしい。

 村には娘と子の供養地蔵が建てられたが、大して効果はなかったらしい。それからはほとんど霧は出なかったのに、珍しく濃い霧が湖畔を覆ったある日、たまたまその日訪れた若い旅の男が、命を落とした。
 村の少年と共に湖へと赴き、戻ってきたのが少年だけで、翌朝湖からその男の遺体が引き上げられたらしい。
 少年に話を聞くと、男は霧の中で赤子を抱いた美しい娘に出会い、そのまま遠くに行ってしまったと言う事だった。
 最初はただの偶然だと思われていたが、数十年に数回の割合で霧が発生したその時、旅の男が偶然にもこの村を訪れると、決まってその翌朝には湖から遺体が引き上げられる事となったらしい…

「それ…本当ですか?」
 話を聞き終えて、奈緒子は訝しげにガンさんの顔を窺った。
「信じられねぇのも無理ぁない、俺だって信じちゃいなかったさ。けどな、27年前に、地方から遊びにきた俺の学生時代の友人が、霧の晩にふざけて湖に行ったきり、生きて戻ってこんかったんでぇ」
「えっ?!」
「嘘じゃぁねぇよ、俺は途中まで一緒だったんだが、途中で奴は、女がいると言って駆け出したんだ…」
 ガックリとうなだれるガンさんは、嘘をついてるようには見えなかった。
「そ…そうなんですか」
「あぁ、さっきシゲ…ここのオーナーに聞いたんだが、今日は若い男がここに泊まってるらしいな。あんたの連れかい?」
「え?あぁ、上田…さんの事ですね。まぁ一応は」
 聞かれた事に答えながら、奈緒子ははっとした。ガンさんは続ける。
「湖には絶対近寄るなと、あんたからも言っといた方がぁいい」
 それだけ言って、ガンさんはペンションを後にした。
「そ…そうなんだ」
 上田には、話さなければきっと興味なんで抱かずに、湖へは行かないだろうと思っていたのだが、それは無駄だった。
 これ以上の犠牲者を出したくないと思ったオーナーが、直接上田に湖には行かないようにと釘をさしてしまったのだ。
 俄然興味を抱いた上田は、夜じゃなければ大丈夫だと勝手に解釈し、空が白くかすんだ頃、無理やり奈緒子を起こして霧の残る湖へと向かってしまった。


「上田の馬鹿、恐がりですぐ気絶するくせに、どうして興味を持つんだよ…」
 くしゅん…と小さなくしゃみをし、辺りを見渡すが、霧は一向に晴れない。
「本当に死んじゃったら、どうするんだ?あの馬鹿」
 馬鹿を連発し、奈緒子は静かに、大きく息を吸った。
「上田ー!いるなら返事しろー!ってか、早く戻ってこーい!」
 出せる限りの声で叫ぶが、返事は全く返ってこない。
 こうも静かな場所で、おまけにあんな話まで聞かされて…超常現象を全くと言っていいほど完全否定している奈緒子ですら、少し恐くなる。
「上田ー!」
 名前を呼ぶ声は、どこか不安を帯びているように変化する。
「うえっにゃぁっ?!」
 再び名前を呼ぶ奈緒子だったが、突然何かに足を躓かせ、その場に前かがみに倒れこんだ。霧のせいで湿った草が茫々に生えているので、服が濡れてしまった。
「いったたたた…何だよ一体…」
 目を凝らし、驚く。奈緒子が足を躓かせたのは、ベストを着た背の高い男…上田だ。
「上田さんっ?!」
 上手い具合に固まって、白目を向いている。この状態はいつも見ている…
「き、気絶したのか…」
 心配して損したと続けながら、奈緒子は上田を軽く叩いた。一応脈を計ってみるが、心臓は正常に力強い鼓動を続けている。
「おいコラ、上田!起きろ!」
 バシバシ叩くが、なかなか目を覚まさない。小さくため息をついて、奈緒子は辺りを見渡した。助けを呼ぶべきか否か、迷う。
「え?」
 濃い霧の中で、フワリと何かが揺れる。
「だ、誰?」
 目を凝らす。はっとした…そこには長い黒髪の、目の冴えるような美しい娘が立っていたのだ。
「あなた…」
 寒さのせいもある。信じられないと、奈緒子はガタガタと小さく震えだした。その娘は、腕に赤子を抱いている。
「風邪をひくわ…」
 娘は奈緒子に近付くと、着物の懐から布を取り出し、奈緒子の濡れた頬を拭いた。奈緒子は娘の冷たい手に驚いたが、その場から動けないでいる。
「恐がらないで…」
 話に聞いていたより、娘は優しげに微笑み、その布を奈緒子の手に渡した。
「あ、あなた…は?」
「私は、ひより」
「き、霧の出る日に、村に訪れた旅の男を殺す、娘さん?」
 怯えながら訊ねる奈緒子の目をじっと見つめ、娘…ひよりは淋しそうに笑った。
「私はただ、ここから先は湖だと…危ないから、気を付けてと言おうと思って…」
 腕の中の赤子を優しく撫でながら、ひよりは言う。
「え?じゃぁ、今まで死んだ人達は…」
「私の姿に驚いて、湖に落ちてしまったの」
 言い伝えはいつだって、偶然と噂によって、捻じ曲げられるのだと奈緒子は思う。
「あ、なるほど…」
 ならば上田にしても説明はつく。
「その人も、危うく湖に落ちるところで…」
「あなたに驚いてその場で気絶したんですね」
 ひよりはクスリと、小さく声を立てて笑った。
「他所から来た人は、この村の事は何も知らないから…霧の出る日は危ないの。あの人も…危なく落ちるところだった」
「あの人…あなたを捨てて村を去った人の事?」
 奈緒子が訊ねると、ひよりは小さく頷いた。
「あの人は、旅人なの。私は捨てられた事を、恨んではいない…あの人は私に子供をくれたから」
 あぁこの人は、本当にその男の事を愛していたんだと、奈緒子はなぜか思った。
「あの…」
「もうすぐ霧が晴れるわ」
 奈緒子が何か言おうとしたその時、ひよりが口を開いた。
「霧の晴れたこの湖は、とても美しいの。それを見たら、村に戻るといいわ」
 にこりと微笑むひより…
「…ありがとう」
 先ほど言おうとした事を、口には出さず、奈緒子はお礼だけ言った。
「一人の人を愛し、その人の子供を産めると言う事は、素敵な事よ」
「えっ?」
 心を見透かされたような気がした。男の人を愛するのって、どういう気持ち?と聞こうとしていたから。
「ふふ、あなたにも、わかる時が来るわ。愛する人は、すぐ側にいるのだから」
 そう言ってひよりは立ち上がると、何も言わずに霧の向こうに歩いていき、その姿はすぐに見えなくなった。まるで霧の中に溶けるかのように。
 あれは、幽霊だと奈緒子は分かっていたが、不思議と恐くはなかった。手は驚くほど冷たかったが、仕草や笑顔は、とても温かく感じたから。
「そっか、旅の男達は皆、ビビリだったんだ」
 そして上田はそれ以上のビビリで、驚いて逃げるより先に気絶してしまったと言うわけだ。クスクスと笑いながら、奈緒子は上田の肩に触れた。
 しばらくすると、ひよりの言った通り、霧は晴れていき、美しい湖を目の当たりにした。本当に綺麗な景色で、一通り楽しんだ後、奈緒子は気絶したままの上田を引きずりながら村へと戻ったのだった。


「や、山田様!それに上田様!ご無事でしたか!!」
 ペンションにつくと、上田と奈緒子がいない事に気付き、捜索隊の準備をしていたオーナーが慌てて駆けてきた。
「上田様は…もしや、死…」
「気絶してるだけですよ」
 未だ気絶している上田をソファに横たわらせ、奈緒子は爽やかな笑顔をオーナーに向けた。
「じゃ、じゃぁやっぱりあれは迷信で…でも、今までの死者は一体…」
「その謎は解けましたよ」
「えぇっ?!」
 その場にガンさんもいて、驚きの声を上げた。
「私、霧が晴れるまでじっとしていたんですけど、あの湖の形って、グネグネしてますよね?」
「あ、あぁそうだが…」
 ガンさんが不思議そうに首をひねる。
「この村の方たちなら、地形も覚えてるから大丈夫かもしれませんが、何も知らない旅人が、何も見えない霧の中であそこを歩いたら…想像つきませんか?」
 奈緒子がそう言うと、そこにいる上田山田捜索隊の面々もアッと声を上げた。
「あの湖の周りにロープか柵でも張れば、もう誰も亡くなったりはしないと思いますよ」
 なるほど、そうかと皆が口々に言う中で、オーナーがそっと奈緒子に声をかけた。
「あなた達は、よく無事でしたね?」
「あぁ…あの人が、霧の中で木の影を人影と見間違えて気絶したので、そのまま霧が晴れるまで待っていたんです」
「なるほど、そうでしたか。いやぁ良かった、これでこのペンション村も、霧に怯える事はなくなりますよ」
 そういってオーナーは、宿泊代をただにしてくれた。

 その後目を覚ました上田は何も覚えておらず、宿泊代金を払ってきて上げますと言う奈緒子の言葉を素直に信じて金を渡し(当然奈緒子はソレをせしめた)、村を出る事となった。
「なぁYOU、俺は霧の中で、赤ん坊の泣き声を聞いたような気がしたんだが…」
 次郎号のハンドルを握り、上田は奈緒子に訊ねる。
「さぁ、風鳴りと聞き間違えたんじゃないですか?」
 助手席でそう言いながら、奈緒子はキュッと、ひよりがくれた布を握り締めた。
「そうか?そうだよな、風鳴りと霧が、あんまり心地良かったんで眠ってしまって、色々うろ覚えだ」
 はははと、自分を正当化しながら笑う上田の横顔を見ながら、奈緒子も笑う。
「でもまぁ、この世界にはきっと、不思議な事の一つや二つ、ありますよ」
「そうだな、生物の不思議、地球創造の不思議。人の感情やら何やら、解明できない事が一つや二つくらいあっても構わないだろう」
 上田にしては珍しくそんな事を言う。
「上田さんがそんな事言うなんて、珍しいですね」
「不思議な事がないと、世の中つまらないだろう」
「それもそうですね」
 上田とこうした遣り取りをするのは楽しいと感じ、奈緒子は窓の外へを目を向けた。


 あの人は、ただただ優しい人だったのだ…
「ひよりさん…か」
「ん?YOU、何か言ったか?」
「いいえ、何でもないです」
 霧の中で、本気で上田の事を心配していた事を思い出し、奈緒子はついぞ微笑む。
「そうか?」
 そんな奈緒子を不思議そうに横目で見ながら、上田は運転を続ける。
 ──「愛する人は、すぐ側にいる…」
 ひよりの言った事は、的を得ていると、奈緒子は微笑みを浮かべたまま上田の横顔を再び見つめた。
 不思議なあの出来事を、すんなりと受け入れる事が出来たのは、今までの事件とは違い、自分の気持ちを改めて認識するに至ったからかもしれない。
 上田は覚えていないから、アレは自分一人だけの秘密と言う事にしておこう。霧の中で淋しく笑う綺麗な幽霊と、霧が晴れた時に見た綺麗な湖の事は。


 その後、村では早急に湖を囲う柵が建てられ、濃い霧が出ても、旅人が命を落とす事はなくなったと言う。
 そして湖の片隅の、娘と赤子の供養地蔵の隣に、胸のない娘の地蔵が作られ置かれた事を、奈緒子が知る事はなかった…




 fin


ヘイホー(笑)
当サイトのカウンターの数値が10000HITした事を記念して、フリー配布なる物用の小説を執筆いたしました。
やぁ、長い長い(笑)こんなに長くなるとは思いませんでした。
宜しければお持ち帰りください(掲示板などでヒトコト仰っていただければ嬉しいです)
記念小説なのにTRICK物だと言う事は気にしないでください(笑)
しかし…ほのぼの甘いウエヤマにしようと思ったのに、ダムドファイル見ながら書いたせいか少しミステリーになってます(笑)

2004年3月16日(10000HITは3月8日でした)

※ フリー配布期間終了 ※
 
   


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