「 最後に 」


 カタカタカタ。どこかで何かの鳴る音が聞こえて、ふと目を覚ました。あれ?ここはどこだっけ?
「ん…?」
 昨日の事が思い出せない…
「あ…れ?」
 それどころか、昨日より前の事も思い出せない。
「え…?」
 自分の事すらも…

 最初に目に映ったのは、白い天井。それから白い壁、白いカーテン。
「ここ…どこ?」
 白い箱のような部屋。辺りに目をやって、枕元の棚の上に置かれたメモに気付いた。
「メモ?」
 手にとって、首をかしげる。
「すぐ戻る…?」
 ボールペンのようなもので書かれた、綺麗な字。
「誰の…字?」
 ぼんやりとその紙片を眺めていると、突然ガラッという音と共にドアが開いて誰かが入ってきた。それは、やけに背の高い、眼鏡をかけた男。
「…っつ、YOU!」
 ベッドの上で体を起こし、紙片を手にする彼女を見て、男は大きく目を見開き、それから声をあげた。
「YOU!気付いたんだな、大丈夫か?どこか痛かったりしないか?」
 駆け寄りながら、壊れ物にでも触れるかのような手振りで彼女の肩に手を当て、怒鳴りつけるような声をかける。
「え?あ、はい…痛いのは、多分ないです」
 自分の事を心配するその男が、彼女は誰か分からなかった。
「そう…か、良かった」
 ふっと、笑みをもらす。そんな男を見ながら、どうしようか思いつつ彼女はおどおどと口を開く。
「あ…の」
「ん?どうした、YOU。腹でも減ったのか?」
 安心しきった表情の男。
「いえ、あの…ゆーって、それ、私の名前ですか?」
 男の表情が、キョトンとしたものに変わった。
「は?」
「いえ、だから、私の事をゆーって呼ぶから…」
 そして、蒼褪める。
「ゆ…山田、どうした?大丈夫か?」
「やまだ?」
「YOUは、山田奈緒子だろ?何言ってるんだ?頭でも打ったのか?」
「やまだ、なおこ?」
 今度は彼女がキョトンとする番だった。

 彼女の姿を見つけたのは、他でもない、彼だった。彼女のバイト先の近くの歩道橋の下で、倒れている彼女を見つけた。
 慌てて駆け寄ると、意識はなく、ぐったりとしていた。何度名前を呼んでも反応はなく、そのまま近くの病院へと駆け込んだのだ。
「先生、彼女の容態は…」
 病院の医師は、穏やかな笑みを浮かべ、けれど真面目に答えた。
「全身に打撲の痕があります。歩道橋の下に倒れていたという事ですから、足を踏み外して階段から落ちたのではないですかね?」
 きっと、連日のハードなバイトで疲労がたまっていたのだろうと、彼は思った。

「先生!」
 奈緒子の部屋を飛び出して、上田は医師の部屋に駆け込んだ。
「ど、どうしました?」
「あいつが…山田が目を覚ましたんですが、様子がおかしいんですよ!」
 血相を変えて、医師を奈緒子の部屋へと引き摺るように連れて行く。
「山田さん、ご自分の事、分かりますか?」
 医師は静かに、奈緒子に問う。少し時間を置いてから、奈緒子は首を横に振った。
「全く?」
「はい」
 その様子を、少し離れた所から、上田は心配そうに見ている。
「んー…どこか痛いところはありますか?」
「えーと…」
 ぺたぺたと、自分の身体を確かめるようにさわり、奈緒子は顔をしかめた。
「何だか体中痛いです」
「そうですか、頭はどうです?」
「頭…」
 自分の手を頭に持っていき、ポンと抱えるように持つ。
「にゃっ…?!」
 眉を顰めながら、奇声。
「痛いですか?」
 医師の問いに、無言でコクコクと頷く。それを見て、医師はチラリと上田に目を遣った。
「頭を強く打ったのかもしれませんね」
 誰に、というでもなく、医師は口にする。その言葉で上田ははっとした。
「せ…先生?」
 窺うように声をかける上田を制し、医師は奈緒子に向って声をかけた。
「山田さん、大丈夫ですか?」
 その質問の意味が分からず、奈緒子は首をかしげる。
「何がですか?」
 医師の出した診断は、頭部に強い衝撃を受けた事からくる、記憶障害。自分の事も含め、自分を取り巻く全ての事を覚えていないのだ。大抵は、その事に対して不安を抱くのだが、当の本人は心配するほど不安がっていないようだ。
「何でもないですよ、大丈夫そうですね」
 穏やかに微笑みながら、医師は奈緒子の手を取り、脈を計ったり、打撲の治療をしたりして病室を後にした。
 病室には、上田と奈緒子。
「えーと…あの?」
 部屋の隅で固まっている上田に、奈緒子は声をかける。
「あ、なん…だ?」
「あなたは、私の知り合いなんですよね?」
「あ、あぁ、そうだ」
 奈緒子は、至って変わりなく続ける。
「私の名前なんですけど、さっき、何て言ってましたっけ?」
「…山田だよ、山田奈緒子」
「やまだ、なおこ」
「そうだ」
 自分の名前を繰り返す奈緒子に違和感を抱きながら、それでも記憶喪失なのだから仕方ないと、上田は深く息をつく。
「で、あなたの名前は何ですか?」
 上田は顔をしかめた。分かってはいるが、こうもあっけらかんと言われると、胸が痛む。
「俺は、上田だ。上田次郎」
「うえだ、じろう。上田さんですね」
「あぁ」
 倒れていた奈緒子を見つけて病院に連れ込んだのは、三日前。奈緒子は三日間、眠りつづけていたのだ。その事を不意に思い出し、上田は踵を返した。
「あれ?どこに行くんですか?」
 背中に奈緒子の声がぶつかる。
「…腹、減ってるだろ?近くにファミレスがあったから、テイクアウトで何か買ってくる」
 ボソリと呟くように言う。
「わぁ、上田さんって気が利きますね!実はさっきからお腹がペコペコで」
 その、やけに明るい声に、苛々しながら上田は部屋を出た。

 部屋には、奈緒子が一人取り残された。
「上田、さんか…」
 最初に病室に入ってきた時の、嬉しそうな表情を思い出す。心底心配して、そしてホッとしたのだろう…そんな彼の事を覚えていない自分が、少し疎ましかった。
「何で、覚えてないのかなぁ…」
 彼が戻ってきたら色々聞いてみようと、奈緒子は思った。
 ──ガララッ…しばらく物思いに耽っていると、病室の戸が開かれて、上田が戻ってきた。手には、大きな紙袋。
「あ、おかえりなさい」
 なんとなく、そう言ってしまう。
「…ただいま。ほら、飯」
「ありがとうございます」
 紙袋を受け取り、中に入っている箱を取り出す。いい匂い。
「いい匂い、美味しそう」
 嬉しそうに箱を開ける奈緒子を見て、その笑顔が、記憶を無くす前のそれと何ら変わりなく、上田は複雑そうに、それでも嬉しそうに笑みを返す。
「ほら、箸」
「ありがとうございます。上田さんも座って、一緒に食べましょう」
 奈緒子に箸を手渡してそう言われた時、何故か涙ぐみそうになった。変わらない笑顔で、ありえないような事を言うから…
「上田さん?」
「あ、いや、何でも無いんだ」
「そうですか?」
「あぁ…」
 ベッド脇のパイプ椅子に腰掛けて、奈緒子の膝の上に置かれた箱の中に手をつける。二人で一緒に、食べる。
「あ、美味しい」
「そうか」
 どうして彼女は、全てを忘れてしまったのに、こんなに平然としていられるのだろうか?それが上田には、不思議でならなかった。
「あ、ねぇ上田さん」
「ん?」
 箱の中の、ファミレスのテイクアウトの料理を口に運びながら、奈緒子は口を開く。むぐむぐと口の中身を飲み込みながら喋ろうとする奈緒子を見て、上田は笑った。
「何で笑うんですか?」
「え?あ…記憶なくても、やる事は変わらないと思ってな」
「へぇー」
「で、何だ?」
「あ、そうだ、聞きたい事があるんですけど」
「うん?」
 パク、と再び口に料理を運ぶ。無意識的に、会話の途中で食べ物を口に詰め込んでいる事に気付き、奈緒子は、結構自分はがめついんだなぁと思いながら笑った。
「何だ?どうした?」
「え?あぁ、気にしないでください。それで、聞きたい事があるんですけども…」
「うん、だから何だ?」
 穏やかな笑みを浮かべる上田を見て、ふと奈緒子は首をかしげる。
「どうした?」
「あ、すみません。ちょっと聞こうと思ってて…」
「それ、言うの三回目だぞ?」
「あ、本当だ。えへへへ」
「笑って誤魔化すなよ」
 白い壁、白い天井、白いカーテン。白い室内に、二人の笑い声。
「で?聞きたい事ってのはなんだ?」
 笑いながら上田が続けた。
「上田さんって、私の事、よく知ってるみたいなので、私の事を教えてもらおうと思って」
「YOUの…事を?」
「ええ」
 上田の次の言葉を待つ奈緒子。
「YOUは…」
 確かに、自分は彼女にとって割と身近な存在だから、色々と知っている。けれどそれを彼女自身に話すとなると…何だか妙な感じで、上田は箸を咥えたまま虚ろな目を向けた。
「上田さん?」
「…退院してから、ゆっくり話してやるよ」
 不安なのは、自分の方なのかもしれない。上田はそう言いながら、奈緒子の頭をポンッと、優しくなでて笑った。

 三日後、奈緒子は退院する事となった。
「大丈夫か?」
 病院を出て、階段を下りる奈緒子を上田が支える。
「大丈夫ですよ、病人なわけじゃないんですから」
「む、それもそうだが…」
 くすくすと笑う奈緒子の手を取り、車へと向う。次郎号の前で立ち止まり、上田はトランクを開けて荷物を乗せ始めた。
「あれ?これ、上田さんの車ですか?」
「ん?あ、あぁ」
 小さな、古い型のパプリカ。興味深そうに次郎号を観察する奈緒子を見て、上田は少し、寂しさを感じて目を伏せた。
「さ、行きましょう」
「ん、あぁ」
 奈緒子は助手席に、上田は運転席に。それは、普段と何ら変わりない事なのに、何だか妙な焦燥感すら感じる。
「えーと、で、どこへ行くんですか?」
「YOUの家に決まってるじゃないか」
「それ、どこですか?」
 会話の端々で、奈緒子が記憶喪失中だという事を思い出す。
「…池田荘」
 それ以上は言わない上田を不思議そうに見遣る奈緒子だが、それ以上は追及せずに、上田に従う。
「ほら、着いたぞ」
 数十分後、キッとタイヤを軋ませながら、次郎号は池田荘の前に停車した。
「ここが池田荘ですか?」
「あぁ」
 車を降りながら、奈緒子はその建物に目を遣った。一瞬眉を顰め、確認するようにその視線を上田に移す。
「どうした?」
「ぼろっ…」
 思わず出た一言なのだろう…上田はつい笑ってしまった。
「おい、YOU…そんな事を言ったら、大屋さんが気を悪くするぞ」
「それもそうですけど、私、こんなぼろいとこに住んでたんですか…」
 確かに古く、年季の入った建物ではあるが、奈緒子がそんな事を言うのは珍しい。
「YOU…記憶がないと思って言いたい放題だな」
「コリャ失敬」
「…違うだろっ」
 またも、えへへへへっ!と笑う奈緒子の横顔を呆れながら見て、上田は先へと進んだ。奈緒子が階段から落ちて入院した事は、大屋のハルへは連絡済だ。
 もちろん、記憶喪失だという事も。
「あんらぁ〜、山田じゃないのさぁ〜」
「へぁ?」
 奈緒子の部屋へと続く階段を上っていると、頭上から声が降ってきた。ウサギを抱えた、ハルだ。
「やぁ、大屋さん、どうもこんにちわ」
 少しは心配していたのだろう、元気そうな奈緒子を見て一瞬頬を緩ませて、上田の方をチラリと見遣った。
「上田センセィもぉ、大変ですわねぇ〜。いっつも山田の面倒みてぇ」
「はは、もう慣れてますから」
 上田とハルの遣り取りをしばらくは黙って聞いていた奈緒子だったが、ふとハルと目が合ってしまい、慌ててチョコンと頭を下げた。
「もう、大丈夫なのかぃ?」
「あ、はい。ご心配おかけしました」
 そんな奈緒子に、ハルは顔をしかめた。以前とは微妙に違うその態度に、ハルも違和感を感じているのだろう。
「ハルサン!オナベフイテルよ!」
 部屋の奥から男の声が聞こえ、何かを気にしていたハルだったが、上田に一礼してすぐに部屋の方へと行ってしまった。
「今の男の声って…」
「ん、ハルさんの夫の、ジャーミィくんだよ」
「じゃみー?」
「じゃ あ み い」
「外人さんですか?」
「バングラディシュから出稼ぎにきていて、YOUの隣の部屋に住んでたんだ」
 当たり前の事を説明するのは難しい…先が思いやられると、上田は眼鏡に付いたごみを拭きながら溜息をついた。
「凄い。年の差と国の壁、二つの障壁を乗り越えて結婚なんて…素敵ですね」
 にこっと、奈緒子は笑う。その所為で部屋を追い出されそうになった事もあるというのに…知らないというのはやはり幸せなのだと、何故か思った。
「…こっちがYOUの部屋だ」

 それは、全く覚えのない、知らない人の部屋のような気がした。
「うわー、ぐちゃぐちゃ…」
「いつもと変わらないだろ」
 上田の一言に微かに傷付きながら、靴を脱いで上がりこむ。足元に転がっている、青い塗料で塗られた発泡スチロールの玉を、何となく拾い上げて見る。
「何これ」
「ゾンビボール」
「ぞんび?この中にゾンビが入ってるんですか?」
 それは怖い、と続けながら上田を見ると、ひくひくと口元が震えているのに気が付いた。
「上田さん?」
「そんな中にそんなモノが入ってるわけないだろ…手品の道具だよ」
「てじな?」
 いちいち繰り返す奈緒子に、上田は再び深く息をついた。
「手品だよ。奇術、マジック。分かるか?YOUは、マジシャンなんだよ」
 半ば怒鳴りつけるように、奈緒子に言う。だが当の奈緒子はへぇーと、初めて見るかのように部屋の中のものを物色し始めた。
 仕掛けの施されたトランプ、コイン。フワフワした民族衣装のようなものや、チャイナドレス。目を向け手に取るたびに、上田にこれは何かと尋ね、上田はそれに淡々と答えた。
「上田さんって、凄いですね」
 不意に、奈緒子が上田に笑顔を向けて口を開いた。
「ん?何がだ?」
 一通り物色し、説明を受けた後、上田の淹れたお茶を飲みながら二人は小さなテーブルをはさんで座っていた。
「沢山の事を知ってるんですね」
「まぁな、日本科学技術大学の、次期名誉教授だからな。それに来年にはノーベル賞を貰う予定だ」
 クスッと、奈緒子は声を立てて笑った。自分の自慢話に花を咲かせていた上田は、何事かと眉を顰める。
「何だ?」
「そうじゃなくって、私の事。よく知ってるんですね」
 途端に、上田の顔が赤くなった。
「な、何を言ってるんだ、YOUは…」
「え?何で赤くなるんですか?」
 全て見透かしているかのようなその素振りに、何故か苛々する。
「お、俺は色々と忙しいんだ!今日はこれで帰る!」
 そう言いながら、上田は奈緒子に何かを言う間も与えずにさっさと部屋を出て行ってしまった。後には、奈緒子が一人、部屋の中。
「優しい人なんだ…おまけに照れ屋」
 ぐるりともう一度部屋を見渡してから、奈緒子はポツリと呟いた。見覚えのない部屋、見知らぬ小物。少しも不安を抱かない自分が、不思議だ。
「あーぁあっ!」
 バタン、と畳敷きの床に寝転がる。仰向けになって、天井を見ながらぼんやりと、思う。
 何も覚えていないという事、怖くないといえば嘘になる。けれど、不安はないのだ。これっぽっちも。なぜだろうか…
「ん?」
 奥の部屋にある何かに、窓から差し込む日の光が反射して光った。
「なんだろう…?」
 のっそりと起き上がり、奥の部屋に足を向ける。
「あ、これか…」
 手に取ったそれは、写真たて。小学生くらいの少女と、日本人離れした顔立ちの男性…
「…誰?」
 ふ…と、何かが頬を伝って落ちた。
「え?あ、あれ?涙?」
 はらはらと、音もなく零れ落ちていく。
「何で、泣いてるの?」

「よぉ」
 翌朝、誰かが奈緒子の部屋を訪ねてきた。もちろん、今の彼女にとっては見知らぬ人。
「えーと…」
「あぁ、大丈夫や。上田センセから事情は聞いとる」
 関西弁の、中年男性。やたらにひょろっとしている割に、目が異様にぎょろっとでかい。
「上田さんのお知り合いの方なんですか?」
「ホンマになんも覚えとらんのやなぁ…そや、上田センセの知り合いで、お前とも一応知り合いや」
 正直言って、怪しい事この上ない。訝しがる奈緒子に気付いたのか、彼はホォッと小さく息をついて懐から何かを取り出して見せた。
「怪しいモンやないから」
「あ、それ知ってる。警察手帳…」
 きょとんとした奈緒子に目をしばたいてから、矢部は笑った。
「そーいやぁ、ちゃんと見んの初めてやないんか?」
 ジッとその黒い、金バッジのついた手帳を見る奈緒子だったが、不意に視線を男の方に戻して何ともいえぬ笑みを浮かべた。
「私の知り合いでもあるんですよね、すみません、覚えてなくて」
 そう言いながら、視線は顔ではなく頭部…
「だーっ!どこ見とんじゃっ!」
 さっと頭部を押さえつけるが、今の奈緒子にはその行動すら奇怪だ。
「ソレ、触ってみてもいいですか」
 上田ではないが、知らないというのはたまに酷である…奈緒子はおもむろに手を伸ばして、矢部の頭部に触れようとした。
「やめんかっ!お前…知っててわざとやっとるんか?しまいにゃしばくぞ!」
 その手を振り払いながら、尚且つ矢部は軽く奈緒子の頭をはたいた。
「にゃっ?!」
「にゃって…」
 はたかれたところが丁度、まだ痛みの残る部分だったようで、痛みに顔をしかめ、しゃがみ込む。
「っつー…」
「あ、頭ぶつけてたんやな…すまんすまん、大丈夫か?」
 フルフルと無言で首を横に振る奈緒子を、何たか立たせて矢部は室内に上がった。
「そんなに強ぉ叩いたつもりはなかったんやけど…大丈夫か?」
「大丈夫なわけないじゃないですか、痛い…」
「すまんすまん」
 大袈裟なまでに痛がる奈緒子だったが、何度も申し訳なさそうに謝る矢部に、笑みを向けた。
「ん?」
「もう大丈夫です」
「そ…か」
「ええ」
 その後、少し話をした。どうやら今日、朝早くに上田が訪れようとしていたのだが、急に用事が入ってしまったとかで、記憶のない奈緒子を一人にしておくわけにも行かないという事で矢部に頼んだらしい。
「お前、上田センセにエラい迷惑かけとるな」
「そうですね、感謝してもしきれないほど」
 その奈緒子の言葉に、矢部は目を丸くした。
「どうかしましたか?」
「お前…記憶ないと素直やなぁ」
「え、そんなに私、素直じゃなかったんですか?」
 きょとんとしたままの奈緒子を見て、今度は笑う。
「お前、おもろいわ」
 手を伸ばして、半ば乱暴にくしゃくしゃと髪を撫でる。
「にゃ…」
 怪訝そうに表情をゆがめてから、奈緒子も笑った。この人も結構、いい人だ…なんて思いながら。
「ほな、オレ、そろそろ帰ろかな」
「え?帰っちゃうんですか?上田さんに頼まれたのに?」
「なんや、いてほしーんかいな?」
「や、別にそう言うわけでは…」
「どっちやねん」
 再び笑い合った後、矢部はおもむろに立ち上がった。結局帰るのだった。

 一週間。奈緒子が池田荘に戻ってから、一週間が過ぎようとしていた。その間、上田は毎日その部屋を訪れ、奈緒子の側にいた。
 奈緒子はそれを当たり前のように受け取り、自分の事を聞いたり、手品の練習をしたりしていた。
「あ、そうだ」
 トランプを切りながら、奈緒子が口を開く。あまりに唐突で、上田は呆気に取られたような表情をしていた。
「どうした?」
「上田さんに、言っておこうと思ってた事があるんですけど…」
「うん、何だ?」
 少し間を置いて、それでもなお言いよどむ。
「早く言えよ」
「ちゃんと、言っておこうかな〜と思ってて…」
 意味深に、奈緒子が笑む。
「だから、何なんだ?早く言えよ」
 クスクスと、奈緒子は急に笑い出した。
「おい、俺をからかってるのか?」
「とんでもない」
「じゃぁなんなんだよ」
 苛々している上田とは逆に、奈緒子はやわらかく微笑んで口を開いた。
「私、色々思い出せないし、上田さんが私にとってどういう人なのかも分からないけど、今はとても感謝してます」
「ん?」
 急に改まった事を言われ、戸惑う上田。
「記憶を無くす前は上田さんの事、どう思っていたのか分からないけど…」
 そんな上田をヨソに、奈緒子は続ける。
「私、上田さんの事、好きですよ」
 その一言を言った後、奈緒子は頬を赤らめて微笑んだ。言われた上田も、顔を赤くしている。
「YOU…」
「うわー、なんか恥ずかしい」
「俺も好きだよ、YOUの事が」
「え、本当ですか?」
「ああ、嘘言ってどうする」
「それもそうですね」
 ククッと、お互いに笑い合う。心が通じているような、そんな気すらしてくる。
「ねぇ上田さん」
「ん?何だ?」
 気恥ずかしそうな笑みを浮かべたままで、奈緒子は上田に声をかける。
「記憶が戻ったら、記憶がなかった頃の事って、どうなっちゃうんでしょうね」
 はっとする。
「上田さんにこうやって好きだと言った事とか、上田さんが私の事を好きだと言ってくれた事とか…どうなっちゃうんでしょう?」
 ほんの少し、不安そうな奈緒子。
「そう…だな」
 もしかしたらそれは、奈緒子が記憶喪失になったという事よりも辛い事かもしれない…上田は何となくそう思いながらも、それを口には出せずに、ただただ不安そうな今の奈緒子を見つめていた。
「上田さん?」
「俺が…」
「え?」
 不意に、上田が口を開く。
「大丈夫だよ、YOUが忘れても、俺が覚えているから」
 我ながら気障だ…と、苦笑いを浮かべながら、奈緒子の髪に触れた。
「そうですね」
 にこりと、奈緒子も微笑んだ。

 翌朝…何の変わりもない、極々普通の朝。
「う〜…んん」
 布団の中で寝返りをうち、ゆっくりと目を開いた。
「…ん?」
 横になったままの体勢でキョロキョロと辺りを見渡して、それからのっそりと起き上がる。
「あれ…?いつの間に帰ってきたんだろ…?」
 ぼけーっと、天井を見遣る。と、ガチャッという音と共に玄関の戸が開かれた。
「おう、YOU、起きてたのか」
「…上田、何で毎度毎度、勝手に入ってくるんだ?」
 深い溜息をついてから、奈緒子は口を開く。その様子に、上田は目を丸くした。
「YOU…なのか?」
「は?何わけのわからない事…頭でも打ったのか?上田」
 パッと、明らむ上田の表情に首をかしげながら、奈緒子は立ち上がって伸びをした。
「YOU!おはよう!」
 ガバッと、いきなり抱きつく。
「ちょっ?!な、何するんですか!!」
 あまりに突然の事で、奈緒子は咄嗟に上田のみぞおちに拳を放った。
「うぉっ…ゆ、YOUだ…な、ははは」
「なんなんですか、本当にもう…気持ち悪いぞ、上田!」
 奈緒子には、どうして上田がこんなに嬉しそうなのかさっぱり分からなかった。そう、奈緒子は、記憶を無くす前に戻っていたのだ。
「YOUはな、記憶喪失だったんだぞ」
「へー、そうですか」
「なんだよ、信じてないな?カレンダーを見てみろ、今日は何日だ?ん?」
 しつこく食い下がってくる上田に、奈緒子は仕方なくカレンダーの一部を指差した。
「ははは!ほらみろ!やっぱり覚えてないだろう?今日は…ここだ!」
 大人気ない…奈緒子はそう思う。上田はいやに楽しそうに、奈緒子が指差した箇所から十日後を指差して豪快に笑った。
「あぁ、そういえば…」
 豪快に笑う上田を見ていて、ふと思い出す。
「ん?」
「夢を見ましたよ、変な夢」
「ほぉ、どんな夢だ」
「上田さんが私に好きだって言ってる夢」
 からかう意味も込めて言ったのだが、当の上田は一瞬表情が固まって、それから窺うように尋ねた。
「それだけ…か?」
「ええ、それだけですよ」
「YOUは…俺に何か言ってなかったか?」
「言うわけないじゃないですか」
 そうか…と、上田は不満そうに顔を伏せた。
「なんですか?それってまるで、上田さんが私に何か言って欲しかったみたいじゃないですか」
「い、いや、覚えてないならいいんだ」
 少し、寂しいような、不思議な感情。
「変な上田、病院行った方がいいんじゃないですか?」
「ははは、YOUはそういえば、素直じゃなかったな」
「何を人聞きの悪い事を…」
 
 覚えていないというのなら、それはそれで構わない。俺が覚えているから…自分の言った言葉を噛み締めながら、上田は奈緒子の揺れる長い黒髪を見つめた。
「YOU」
「なんですか?」
 一週間と少し、ちょっと気持ちが悪いほど素直な奈緒子と過ごした日々は、まるで幻のようだ。
「腹減ってないか?焼肉でも食いに行くか」
「あ、いいですね。行きましょう、行きましょう!」
 あぁ、うん。この方が、少し居心地がいい…ご機嫌な様子で仕度をする奈緒子を見て、上田は微笑んだ。
 記憶があろうとなかろうと、好きなのは事実だ。覚えていないなら、これから言えばいい。そんな事を思いながら、片一方では記憶のなかった頃の奈緒子を思う。不安そうじゃなかったのは、もしかしたら知っていたからかもしれない。
 例え自分が全てを覚えていなかったとしても、自分の事を覚えていてくれる人がいれば、不安など感じる必要はないのだという事を…
 そんな事を思いながら、上田は車のキーを手にとって池田荘を後にした。その横には、変わらない奈緒子の姿。



 FIN


ハ、ハ、ハ、ハー(笑)
祝、サイト運営30000HIT。という事で、フリー配布の記念小説を書いたのです…けど、ちょっと長くなってしまいました。
書く度に長くなっていくような気がします。
長くなりすぎるのもまずいという事で多少省きましたが、これは欠かせませんよ。
矢部さんとの遣り取り(笑)
そんな訳で、皆様いつも足を運んでくださって、ありがとうございます。これからもお付き合いの程、よろしくお願いします。
ちなみにフリー配布ですので、お持ち帰りはご自由にどうぞ★出来れば報告してくださいね〜
テーブルごと持ってくのが楽だと思います、行間設定してるので(笑)
ソースを開いてみたら分かるようにしてあるので、ご参考までに。
2004年7月14日(日付変わり目頃)に30000HIT。
今日は7月25日
* フリー配布期間終了 *
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