「 あじさい通り 」
ぞわっと、寒気に似たものを感じた。
怖い。
不安で胸が押しつぶされそうなほど、苦しい。
別の事を考えても、気がつけばその事を考えている自分がいる…
怖い。
今…
私の中で何が起こっているのだろう?
ゆらゆら揺れる、波間の中で。
気がつけば一人。
そしてまた、揺れる。
「あ…」
奈緒子はふと、視界の隅に見つけた白いラインを目で追った。
「飛行機雲だ」
真っ青な、抜けるような高い空。
白いラインが弧を描くように、空を二分割している。
なんだか妙に、懐かしいような気持ちになる。
子供の頃に、まぶしい空を仰いだ記憶がよみがえる。
「久しぶりに見たな…」
ぽつり、誰へでもなく呟いて視線を足元へ戻した。束の間、現状が頭から離れていた。
まるで現実逃避だな、今のは…なんて思いながら、深く息を着き家路を歩き出す。
この頃どうも、自分の様子がおかしい。
それに気づいたのは、つい昨日の事だ。ふと、気づいたのだ。
なんだか落ち着かない…
だから、思い当たる節を布団の中で眠る前に、指折り数えてみたのだ。
「バイトをクビになるのはいつもの事だろ?」
一つ。
いつもの事、なんて言ってしまう自分が物悲しいのはこの際置いておこう。
「じめじめ鬱陶しい天気なのは仕方ないだろ?」
一つ。
季節は六月、梅雨の最中だ。鬱々しても自然現象に対抗出来る術はない。
「最近焼肉食べてない、とか?」
一つ。
とは言え、バイトを首になったのは二日前の話。それだって、奈緒子が悪いわけじゃない。
そもそもそこは、怪我をした奥さんの代わりにという事で期間限定だったのが、たまたまそこの家の娘さんが出戻ってきて人手が足りるようになったから、少し早めに辞めてくれと。
向こうの都合の為、給料はきちんと働いた分に上乗せまでしてもらった。
家賃だって今のところは滞納してないし、食うに困るほどでもない。
確かに焼肉は随分ご無沙汰だが、飢えるような生活はしてない。
「焼肉…」
焼肉。
そう呟いて、頭の中に何かが過ぎったような気がした。
だが、眠い。
指折り数えながら気がつけば、吸い込まれるように眠ってしまっていた。
次のバイトを探さなければ。
てくてくと、梅雨の合間の晴れ間をぬって乾いた道を歩く。手には駅の近くで無料配布されていたアルバイト情報誌。
「喫茶店ウエイトレス、自給820円、元気な笑顔の人歓迎…」
歩きながら、ページをめくる。
笑顔…笑顔かぁ、しかも元気な笑顔なんて、注文の多い喫茶店だな。
ぶつぶつと文句を言いながら、次のページをめくろうと指でなぞる…と、その時。
ざわぁ…
耳に心地良い、葉の擦れる音。
ふっと顔を上げて、気付いた
「わー、きれい」
レンガ敷きの整備された綺麗な遊歩道。両脇には、露を光らせる大きな葉の、あじさい。
「すごっ、全部青だ」
目の覚めるような、明るい水色のアジサイの花がずぅっと、遊歩道の両脇で揺れている。
きらきらと眩しい。
奈緒子の他に歩いている人の姿は見当たらない、独り占めしてる気分だ。
「えへへっ」
開いていた雑誌を閉じるとくるりと丸め、筒状にして握った。そうして、軽く駆けてみる。
ふわっと風に髪が靡き、乾いた靴音が響く。このままどこか、知らないところまで行けそうな…そんな気さえする。
「っと!」
角を曲がったところで同じように、角を曲がってきた誰かとすれ違った。人影に身体をひねったのでぶつかる事はなかったが…
「YOU?」
人影が、奈緒子を呼ぶ。
あ…
「やっぱり、YOUか。そんなに急いで、どうかしたか?今日は別に、水戸黄門とか暴れん坊将軍とかの再放送はしてないみたいだが」
はは、とからかうような、どこか温かみを帯びた声で笑いながら振り返った奈緒子を見た。
「上田…さん」
あ…と、心の中で声がした。ここ数日の、不快とも言えるあの自分のおかしさの、原因はコレだ。
「何だ?眉毛が八の字だぞ、機嫌悪そうだな…」
「別にそういうわけじゃ…」
「腹が減ってる…ようには見えないな、珍しく顔色がいい」
奈緒子の言葉をさえぎる様に言い、長い腕を伸ばして頬に触れてくる。
「あ…」
目の前が、暗くなるような違和感。思わずその手を、振り払っていた。
「YOU?」
訝しげな目が、眼鏡の奥で細くなる。
「せっ、静電気だ!今バチッてなって…びっくりしたんで思わず、振り払っちゃって…」
慌てて弁解するが、自分で言ってる事がおかしいのはわかってる。
まともに顔が見れない。
「そうか、静電気か。それはすまんかったな」
「いえ、びっくりしただけですから」
改めて、振り払われた手がぽん、と頭に置かれた。
「そうか」
ほっとしたような声だ。だが、頭上の手のひらがあたたかくて、胸がずきりと痛む。
「わたしっ…」
耐え切れず、奈緒子は顔を上げ見つめた。手は、ごくごく自然に頭から離れる。
「ん?」
言葉が、続かない。
「わた、し…」
「腹が減ったんなら、これから飯でも食いに行くか?マンションの近くに鉄板焼きの店が出来たんだ」
言いよどむ奈緒子を助けるように、口を開く。
「どうだ?」
そうして、返事を待つのだ。
「行きません…」
「どうして?」
「どうしてって…別に、お腹空いてませんし…ちょっと用があるので、帰ります」
搾り出すように言葉を連ね、何とか背を向ける。
そうか、と残念そうな声が聞こえた気がするが、気のせいという事にして歩き出す。
「だめだ、いらいらする」
唇をかみ締め、眉を八の字に歪めたままで。
いらいら、する。
歯がゆいとでも言うのだろうか…自宅の狭い部屋で奈緒子は、自らの親指の爪を噛んだ。
小さなテーブルには、綺麗に揃えられたトランプ。本業であるマジックで使う用の、一工夫された代物だ。
カリッ、爪を噛む。
「いらいらする」
何度この言葉を繰り返したか、数えるのもいらいらする程に。
空いた方の手で、トランプを一枚めくった。
「スペードの7」
めくったカードの中身を口にして、戻す。
マジック様に一工夫されたトランプだが、こうして裏にしておけばただのトランプだ。一枚めくったところで、それは変わらない。
72枚、全てが揃ってこそ役目を果たすトランプだ。
「スペードの7」
そう、言いながら奈緒子は再び同じカードをめくった。
スペードの7、同じカード。
当たり前だ、先ほどと同じ一枚をめくったのだから。何度やっても、それは変わらない。
「いらいらする…」
そうして、顔を伏せた。
上田さん…
奈緒子の頭に、彼が浮かんだ。
「上田…さん」
変わらない日々を過ごしていければ良かった。それで充分幸せだと思っていたから。なのに今、奈緒子の中で何かが葛藤している。
変わらない今のままでいいじゃないか、だって幸せなんだもの。
変わったらもしかしたら、違う形の幸せがあるかもしれないのに?
二つの言葉が揺れる。
怖い、と思った。
サー…、という、雨の音が聞こえる。
梅雨時期だ、晴れ間も束の間。
「どうしたんだろう、私…」
雨音に耳を傾けながら、そっと呟く。
どうしたんだろう、本当に。こんなに怖いと思うなんて。
背筋から、寒気が這い上がってくるような…そんな恐怖だ。
変わるのってこんなに、怖かったんだ…
「変だ、どうかしてる…上田、さんと…」
きゅ、と口を結び言葉を飲み込む。
1、2、3。心の中で三つ数えた。
「上田さんと一緒に、生きていきたいなんて」
飲み込んだはずの言葉が、こぼれた。
はっとして、顔を上げ手のひらで口をふさぐ。慌てて辺りをきょろきょろと見渡したあと、そっと手をよけ小さく息をついた。
信じられない、今の言葉が自分の口から出てきたなんて。
ジリリリン、ジリリリン。
「ふぇっ?!」
唐突に、電話が鳴った。
部屋の片隅で、床に置かれたスケルトンの電話。慌てて受話器を引っつかみ、耳に当てる。
「もしも」
『YOU?俺だ、上田だ』
口を開いてすぐに、受話器から聞こえた声に口をつぐんだ。
「…は、い」
静かに降る雨の音と同じだ…耳に心地良い。
『さっきの話だが、夕飯にどうだ?鉄板焼き』
奈緒子の口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「…いいですね」
『そうか、じゃあ夜…7時頃に迎えに行く』
優しい声だと、思う。低いけど、あたたかい声。
「いいです」
『どっかでかけたりしないで、待ってろよ』
まるで小さい子供に言い聞かせるような言葉に、くすりと笑みがこぼれる。
『YOU?』
「迎えに来なくても、いいです」
『え?』
変わろうとしている自分に、気付くのが怖かったんだと思う。
多分だけど。
違うかもしれないけど。
「今から上田さんに、会いに行きますから」
『YOU?』
電話の向こうで、きょとんとしている顔が浮かぶ。
「私がそっちに行きますから、上田さんがそこで待っててください」
返事を待たずに受話器を置いて、奈緒子は白い傘を手に外へ出た。
雨が降っている。
上田さん。
上田さん、ねえ、私…
駆け気味に、あの遊歩道を進む。
道の脇のあじさいでは小さなカタツムリが、葉の下で雨をしのいでいるのだろうか…大きく揺れた。
「急げ急げ、あいつの事だから途中まで、迎えに来るかもしれない」
いつも、そうだった。
いつもいつも。
なんだかんだで、迎えに来るのは上田さんの方。
私は連れまわされてばかり。
でもだから、怖かった。
自分から動く事が。
自分から変わる事が。
だからこそ…これだけは譲れない。
あじさい通りを駆けながら、奈緒子は向かう。
待っててと言ったからにはもう引き返せない。
「上田さん、私、決めたんです」
ドアが開いたら間髪入れずに言うんだ。
「私、これからずっと、ずっとずっと、上田さんと一緒に生きていきます」
ねえ、上田さん。
あなたはどんな顔で、私のこの言葉を受け止めてくれますか?
FIN
こんばんわ、ヘイホー!
どうも射障です。
今回、気がつけば90000HITしていた!という事により、慌ててしまいました。
でも慌てた割には、結構すんなり書けたというか…90000HIT記念フリー配布小説なのです。
本当に本当に本当に、皆様…I wish you happiness.に足を運んでくださってありがとうございます!
感無量感無量、嬉しくてもう…
湿っぽいのは抜きにして、フリー配布だ持ってけこんちくしょう!(笑)
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ご報告頂ければ嬉しいです〜
2007年6月 >>>90000HIT
拝 射障 斎
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