蝶々
夢を見た。
それは理想的な自分の姿。
矢部は今よりもずっと地位があって。
部下は従順で、矢部を尊敬してやまない。
周りには金もあり、遊びたい放題。
家に帰ると幸せな家庭。
心を許すことができる、多くの友人。
豊富な髪。
裏切られることのない、人生。
自分が望めば、全てのことを意のままに動かせる。
欲しいものがあれば、何でも得られる。
幸せな夢。
今のような、気の利かない部下もおらず。
実は臆病なのに、態度だけはでかい大学教授もいない。
何より、常に腹を減らした生意気な手品師の小娘がいない。
それは、賑やかしい、ブレーメンの音楽隊のような人間たち。
喧騒にまみれたような環境は、夢の中にはなかった。
それは、理想的な夢。
夢みたいな夢。
穏やかな時間と、一生続く安息の日々。
幸せな時間。
真白い部屋で、カーテンが風に揺られるような、静けさ。
時はやさしく進んでいた。
矢部はゆっくりと目を覚ます。
見上げた天井は、夢の中の豪邸とは全く違う。
いつもの風景。
いつもの朝。
「なんや、夢か…。」
思わず、自分の頭に手を置いて、髪に触れた。
夢の中のような豊富なものではない。
枕元には、いつもの「お帽子」。
「うまくいかんなー…。」
思わず苦笑する。
それは、不思議な感覚だった。
現実とはあまりにも異なり過ぎていた。
しかし、どこかリアリティーに満ちあふれていた。
「…夢?」
もしかしたら。
最初からいなかったのかもしれない。
気の利かない部下も。
臆病なのに、態度だけはでかい大学教授も。
常に腹を減らした生意気な手品師の小娘も。
賑やかしい、ブレーメンの音楽隊のような人間たちは、自分の見た幻想かもしれない。
「夢…やんな?」
今見ていたものは。
夢に違いない。
では、どこまでが夢で、どこからが現実なのだろうか。
「今は…現実やんなぁ?」
矢部は思わず首を傾げる。
まだ寝ぼけているのかもしれないと思った。
こんなバカげた独り言。
「今が現実で、さっきのが夢?いや、今が夢で、さっきのが現実?」
おかしな話。
漂う虚無感は、少しだけ落胆と似ていた。
今は朝で。
今から仕事があって。
また今日も、気の利かない部下を連れて、おもしろくもない仕事をする。
「……。」
それさえも夢だというのだろうか?
「なんつー、おもんない夢や。」
それは苦笑に似ていた。
しかし、しあわせな。
携帯電話の履歴には、確かに部下のアドレスが入っていて。
研究室を訪ねると、大学教授は笑いながらコーヒーを振る舞う。
手品師の小娘は、性懲りもなく焼き肉屋の窓に張り付いている。
「もし夢やっていうんなら、もう少しセンスの良い夢を見せろっちゅーねん。」
自然と笑みが生まれる。
もしかしたら、今が夢なのかもしれない。
地位も金も人脈も髪もある自分が、つまらない刑事になって走り回る夢を見ているのかもしれない。
ブレーメンの音楽隊のような人間たちと共に。
夢を見る。
今、必死に足掻いていること自体、夢の中での出来事なのかもしれない。
次に目を覚ました時に見る天井は、どんな風景だろう?
一度見た夢の続きを見ることなんて、滅多にないから。
目を覚ました時点で、今の自分とはさよならかもしれない。
「アホか。」
矢部は笑う。
もしこれが夢なら。
ブレーメンの音楽隊のような人間と出会えるまで、何度だって眠ってやろう。
それこそ、砂漠の中で一粒の砂を見つけ出すように。
気の遠くなるようなことを、何度だって。
人の夢は儚いから。
足掻いてやる。
ふう、と溜息を付いた後、矢部はバネのように勢いよく起き上がった。
「やばい、遅刻や!」
矢部はバタバタと準備をし、玄関を飛び出していく。
後に残された部屋は、ひっそりと静まりかえっていた。
今日もまた、誰かがどこかで夢を見る。
儚く脆い、夢を見る。
今日見る夢は、ヒラヒラと舞う蝶々の夢かもしれない。
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