「ヒカリウタ」




「ヒカリウタ」
 僕は驚いて立ち止まった。なぜ驚いた?その事に関しても驚いた。
「ひかりうた…」
 小さな声で呟いてみる。ここは、街の中。吐き気がする程の人ごみ、耳障りな人々の話し声。スーツを着た男、けばい化粧の女、小さな子供。携帯電話を片手に怒鳴り散らかす若い男、泣き喚く赤ん坊と宥める母親らしき女。誰も耳を傾けない雑音。聞いていないのなら、聞こえないのと同じ筈の音。なのに、僕の耳にははっきりと聞こえた。
「ヒカリウタ」
 と。一度は歩くのをやめた足を動かし、流れに身を任せて再び歩きだす。
「ひかりうた…」
 もう一度、さっきより少し大きな声で呟いてみた。まわりを歩く人たちは誰一人、気付く事なく歩き去っていく。先程の声は、他の皆にも聞こえていたのだろうか…?


 月曜日、二時間目は英語の授業だったが、先生が風邪をひいて休みを取っているとかで自習だった。
「ひかりうた…」
 鉛筆を指の上でクルリと回転させて、呟いた。
「佐伯、お前まだ鉛筆使ってるのか?変わってるなぁ」
 前の席に座っていた谷尾が、突然振り向いて言った。
「シャーペンは苦手なんだ、ボキボキすぐ折れるから」
「筆圧高いんだよ、下敷き使わないとノート真っ黒になるだろ?」
「うん…」
 谷尾とこんなに言葉を交わしたのは、初めてだった。転校してきて三ヵ月も経つというのに、未だ友達と呼べる人が出来ていない。
「なぁんて、実は俺も鉛筆派だよーん。鉛筆削り持ってる?回してたら落として芯が折れちまった。これ一本しか持ってきてないんだ」
 まるで幼い子供のように、好奇心でいっぱいの瞳をきらきらと輝かせて、一本の鉛筆を僕に見せた。
「あ、ごめん。僕、小型ナイフ使って削ってるんだ」
「へー、珍しいな。さすがに俺は不器用なんで使えないや、削ってくれるか?」
「うん、いいよ」
 他愛のない遣り取り。それだけなのに、凄く嬉しかった。谷尾から鉛筆を受け取ると、僕は布地で出来たペンケースから小型ナイフを取り出した。
「渋いナイフだな、カッコイイじゃん」
「爺ちゃんの形見なんだ、亡くなる一週間前に貰った」
 ノートの一枚を破り取り、鉛筆を削り始めた僕を、谷尾は終始笑顔で見ていた。
「鉛筆削る時の音って好きなんだ、なんか懐かしくて。ナイフだと尚更だな」
「そうだね、僕もこの音好きだ」
 あっという間に、鉛筆の先は尖っていった。
「すっげー、書きやすそうだ。次も頼んでいいか?」
「いいよ…」
「そういえば佐伯、転校してきてどれくらいになる?」
「三ヵ月くらいかな…」
「へー、友達出来たか?」
「…ん」
 その問いに答えられないでいる僕の目を見て、谷尾は笑った。
「いつも難しい顔して何か考えているみたいだったから、話してみたかったのに声かけられなかったんだ。でもさっき、勇気出して話しかけてみて良かった」
「え、あ…」
「佐伯さえ良かったらさ、友達になってくれよ」
 友達…声をかける勇気もなかった僕に、友達。
「うん、いいよ…僕も」
 友達になりたかった…と最後まで言えずに、涙をぽろぽろこぼした。
「うわっ、どうした?どっか痛いか?」
「ううん、違…」
「あれ?佐伯くん泣いてるー、どうしたの?大丈夫?」
「谷尾ー、クラスメート泣かすなよ」
 まわりの連中が、僕の机のまわりに集まってきた。
「俺が泣かしたんじゃないよ、とりあえず保健室行こうぜ。委員長、先生来たら説明しといてくれよ」
「わかったよ」
 谷尾に連れられ、教室を出た。
「大丈夫か?」
「うん、ごめん。僕…」
 まだしゃくり上げている僕を、谷尾は、静かに見つめた。
「どっか痛いわけじゃないんだな。んじゃ屋上に行こう、保健室は薬臭くて嫌いだ」


 青い空が広がっている。ところどころに、白く霞む雲。
「気持ちいいね、屋上」
「あ、落ち着いたか?」
「うん、ごめん。驚かせて」
「びっくりしたよ」
 風がそよそよと吹いている。
「僕、いつも暗くて…前の学校でも友達いなかったんだ。声をかけてくれる人も、一緒に遊んだりする人もいなくて…声をかける勇気もなかった」
 いつも一人だった。
「佐伯…」
「だからさっき、谷尾くんが友達になろうって言ってくれて、すごく嬉しくて…」
「感激屋なんだ、佐伯は」
 突然、明るい声を放った。
「え?」
「小さな事から大きな事まで、色んな事に感動!いい事だよ。俺だって不器用なところあるし、クラスの中には超上がり性の奴とか、声が異常にでかかったり、遅刻ばっかりする奴とかもいる。皆、何かしらの短所を持ってる。けど長所だってもってる、だからきっと皆と仲良くなれるよ。俺が保障する」
「谷尾…くん」
「谷尾でいいよ。あ、名前の方がいいかな?」
 慌てて首を横に振った。
「た、谷尾って呼ぶよ」
 誰かを下の名前で呼んだ事なんて…一度もない。
「そうか?ちなみに俺の下の名前、しゅんって言うんだよ」
「あ、そうなんだ。名簿見ても読めなかった。一瞬の瞬だよね」
「そう、佐伯は諒輔だよな」
「うん、そうだよ」
 名前、覚えてたんだ。
「いい顔して笑うじゃん、気に入った」
 嬉しくて、この遣り取りが楽しい。
「教室戻ろう、僕はもう大丈夫だし…」
「皆心配してるとまずいしな」
 谷尾の笑った顔を見ると、つられたように笑う僕が要る。教室に戻ると、皆心配そうに駆け寄って来てくれた。
「佐伯くん大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。外の空気吸ったら、気持ち良くなった」
「佐伯くんって、笑うとカワイー」
「あ、俺もそう思った」
 いつのまにか僕には、沢山の友達が出来たようだ。


「ただいま」
 マンションの階段のところで、母さんに声をかけた。水の入ったバケツを持っている、道に水を撒いていたのだろう。
「おかえり、何かあったの?顔がゆるんでる」
 学校が楽しかったからだろう、午後の日差しが暑い。
「ちょっとね…いい事があったんだ。それより母さん、こんな暑い日は帽子かぶらないと駄目だよ」
「ああ、そう思っていたんだけど…玄関に置き忘れてきたみたい」
「僕、持ってくるよ。ちょっと待ってて」
 疲れた笑顔で見送られ、階段をのぼった。鍵は開いていた。
「あら、こんにちわ」
「こんにちわ」
 隣のおばさんが驚いたように、窓から顔をのぞかせて言った。玄関に入ると、すぐに見つけた。母さんの、青いリボンの着いた大きな麦わら帽子。
 突然、部屋の中が薄暗くなった。
「雨だ…」
 ベランダに干してある洗濯物が目に入った。慌てて取り込むと、下に屋根のかげで雨宿りをしている頭が見えた。母さんだ。
「せっかく水まいたのに…」
 そんな声が聞こえた。…数分後、通り雨だったらしく、すぐに強い午後の日差しが再び辺りを照らした。
「母さん!ここから落とすよ」
 こっちを向いた母さんに、帽子をそっと落として渡した。
「諒輔!すぐに降りておいで!」
「え?何…」
 帽子を受け取った母さんが、目を丸くして叫んだ。
「いったいどうしたの?」
 降りていくと母さんは、僕の後ろの空を指差した。
「ほら…」
 指の先の方を見ると、色鮮やかな、大きな虹がかかっていた。
「うわぁ…」
「すごい綺麗、ちょっと得した気分だね」
 母さんと二人、無邪気な子供のような微笑みを浮かべた。
「ひかりうた…」
 虹を見ながら、ふと口に出してみた。虹とこの言葉は、何だか合う様な気がしたから。
「諒輔…もうすぐ誕生日だね」
 不意に、母さんが言った。もうすぐ僕の十七歳の誕生日…
「そうだね…」


 いつも、不安で胸が押し潰されそうだった。生まれた病院で、十六歳の誕生日を迎える事は出来ないだろうと言われて、父さんと母さんは泣いて暮らしたと言っていた。
 五歳の誕生日を迎えた日に、親戚の叔母さんが僕に余計な事を言った。
「諒輔くん、あと十年くらいしか生きられないのよ」
 両親に言わせるよりはましだった。それまでは、普通の子以上にわんぱくで、人見知りもしない子だったのに、変わってしまった。
 死んでしまうんだ、僕は大人にはなれないんだ。そう知ってしまってから、他の事を知るのが恐くなって、知ろうとしなくなった。
「何も期待しちゃいけない、願っても叶う事はないんだから」
 そう口にする度、思い知らされるようで泣いてた。大好きな両親が悲しむ事のないように、誰もいない暗いところで泣いていた。
 別れる事が嫌で、友達として誰かと話をした事はなかった。友達になってしまったら、僕が死んだ時に悲しませてしまうと思ったから。
「…もうすぐ誕生日だね」
 十六歳の誕生日を迎える事は出来ないだろうと言われていたはずなのに、僕は十六歳になった。誕生日の朝、母さんは言い表わす事の出来ないような、嬉しそうな顔を僕に向けて笑った。
 父さんも照れ臭そうに、おめでとうと言ってくれた。
 今までの僕は何だったんだろう。死んでしまうんだと、見えない何かに怯え続けてきたのに、あっさりと打ち砕かれた。どうすればいいのかも分からなくて、今までと同じように生きてきた。余計な事を考えないように…
「まだ少し、心配ですね。諒輔くんの体に異変が…」
 病院の先生は、もっといい病院に通う事を勧めてくれて、紹介状まで書いてくれた。今まで住んでいた所から、かなり離れている大きな専門病院だった。だから父さんは会社の偉い人に頼んで、その街にある子会社への移動を希望した。新しい街で、僕はあとどのくらい生きていられるんだろう…


「谷尾…」
「どうした?」
 もうすぐ僕の誕生日。谷尾はいつもと同じ、無邪気な顔を僕に向けた。
「来週の日曜日、僕の誕生日なんだ」
「十七歳のか?へぇー、何か欲しいものあったら言えよ。買ってやる」
「いいよ、そんな…」
「遠慮なんかするなよ」
 僕は、ずっと欲しかったモノを君から貰ったんだ。
「してないよ。それで…ね」
「なんだよ、ずばっと言え」
 僕は、ずっと誰かに言ってもらいたかった言葉があるんだ。それは、家族からじゃなくて、友達から言ってもらいたかった言葉。
「うちで、パーティするんだ。そんな大袈裟な事じゃないんだけど、いつも家族三人だけだから…今年は他にも呼ぼうかなって思って」
「で?」
「谷尾、暇だったら来ない?」
 谷尾は、少し呆けた顔をしてから、思い切り微笑んだ。
「是非!って感じ。嬉しいよ、絶対に行く、来るなって言われても行くからな。何時頃に行けばいい?あ、俺お前の家知らないや。あとで地図書いてくれな」
 チャイムが鳴って先生が教室に入ってきても、谷尾は前の席で嬉しそうに肩を揺らしていた。そんな後ろ姿を見ていると、僕まで嬉しさが溢れてしまう。
「私も行きたい!」
 次の休み時間、谷尾の隣の席に座っているしおさき潮岬さんが僕に怒鳴った。
「え、どこに?」
「佐伯くんの誕生日パーティ。私、クラスの皆の誕生日に家に押し掛けてるの。佐伯くんの誕生日もお祝いしたいな」
「あ、俺も行きたいなぁ。もっと色んな話してみたいし」
 驚いた。このクラスの人達は皆、なんて暖かい心を持っているんだろう。
「嬉しいよ。僕、こんなに沢山の人にお祝いされた事ない」
「でも皆で行ったら迷惑じゃない?大丈夫?」
「大丈夫、母さんも父さんも喜んでくれると思う」
 一週間が過ぎるのは、すごく早かった。父さんや母さんに誕生日の事を話すと、驚いた顔をしてから、自分の事のように喜んでくれた。


 道を歩いている。今日は土曜日、明日は僕の誕生日だ。
「えーっと…」
 両手に抱えた大きな紙袋の中を覗き込む。母さんがケーキを焼いてくれるとかで、材料を買いに走らされたのだ。どうやら買い忘れはなさそうだ。
「あれ、ここ……」
 立ち止まって、辺りを見渡す。ここはあの場所じゃないか、あの言葉を聞いた場所。
「ひかりうた…」
 この言葉は、魔法の言葉なのかもしれない。唱えるたびに、いい事が舞い降りてくる。
 そういえばあれは、誰が言い放ったのだろう?聞き覚えのあるような、でも全然聞いた事がないような…男の声か女の声か、子供の声か大人の声か。それすらもわからない、けれどはっきりと聞こえた。
「ま、いいか」
 あの時から、耳について離れない。一度止めた足を再び動かして大きな道路の横断歩道を横切る、歩行者用の信号機の青色がチカチカ点滅する。何だか不思議な感じだ。
「ただいま、買ってきたよ」
「あ、おかえり。ありがとう」
「ううん、父さんは?」
 母さんは何も言わずに奥の部屋を指差した。
「寝てるんだ」
 少し開いている襖の隙間から、足が見える。
「昨夜遅かったから疲れてるみたい、明日の為に今の内から寝ておくからって」
「最近いつも帰り遅いもんね」
 台所に紙袋を置いて、自分の部屋に向かった。ベッドと机と椅子と、殺伐とした僕の部屋。机の上に、一冊の大学ノート。
「さて…」
 鞄の中からビニール袋を取り出した、さっきの買物で買ってきた便箋と封筒が入っている。今まで手紙なんて書いた事がなかったから、何を書けばいいのかちょっと迷う。
「えーっと…」
 ノートを開いた、びっしりと書き連ねられている。自分のさき未来を知った五歳の頃から、思った事、頭に浮かんだ事をただひたすら書いた。もう数十冊を越えている。
・・・・ぼくは十六歳になる前にしんじゃうんだ。しぬって何?いたい?こわい?かなしい?どうしてしんじゃうの?どうしたらしなないの?お父さんやお母さんがかなしいかおするからもうきかない、ぼくがしんじゃうのは病気だからしかたないんだ。かなしませちゃいけない、せめてしぬまでいい子でいよう。・・・・
 同じような言葉が幾度も幾度も繰り返される、鉛筆が擦れて真っ黒になったページもある。ペンで書いたところに、涙が滲んだ跡もある。机の隅に置いてあるペン立てから、水色のペンを取り出して便箋に向かった。
「最初は何て書いたらいいのかな…」
 ノートをペラペラめくりながら、ペンを動かした。・・・・谷尾へ…突然の手紙で君は驚くと思う。僕は、誰かに手紙を書くのが初めてなので、多分読みづらいと思うけどそこは勘弁してほしい。・・・・


 電話があった、土曜日の夜に。
「諒輔、電話。谷尾くんから」
「え?あ、今行く…」
 階段をトタトタ掛け降りて、エプロンを付けた母さんの手から受話器を受け取った。
「もしもし?」
『あ、もしもし?』
 谷尾の声だ…
「もしもし…?」
『…もしもし…』
「谷尾?」
『もしもし魔神参上!』
 呆気に取られてしまった。
「な…何言ってるんだよ」
『ウケるだろ、俺よくやるんだ』
 可笑しそうに笑う声。
「で、何?」
『明日さ、十一時でいいんだよな』
「うん。あ、何か予定入った?」
 ドキドキしている。明日、来られなくなったと言われたらどうしようとか思っている。妙な不安が頭をよぎる。
『いや、絶対行く』
 その一言で、さっき迄の不安が吹っ飛んだ。谷尾の声は、何だか聞いてるだけで嬉しくなる。笑顔と同じくらいほっとする。
「そっか、で?」
『俺、早めに行ってもいいか?』
「構わないけど…何で?」
『色々用意あるだろ?手伝うよ。九時に行く』
「随分早いなぁ」
 その後、谷尾は少し黙った。
「谷尾?」
『クラスの他の誰よりも先に、お前に誕生日おめでとうって言いたいからな。じゃ』
「あっ…」
 僕が答えるより先に、谷尾は電話を切ってしまった。ガチャンという音が、照れ臭そうに受話器を置く谷尾の顔と重なった。
「なんか面白い事でも言われたの?」
 くすくす笑ってる僕を見て母さんが笑った。
「ちょっとね、明日九時に来る谷尾って奴がさ…」
 さっきの事を話すと、母さんも可笑しそうに笑った。
「楽しみね、明日」
「うん」
 さあ、今日は早く寝よう。だって明日は僕の十七歳の誕生日だ、大事な人達と過ごせる大事な一日が始まるんだ。これから…


 目覚まし時計の音がけたたましく鳴り響く、体が凄く重たい。この音を止めたいのに、腕をそこまで伸ばす事が出来ない。
「諒輔、目覚まし鳴ってる…」
 母さんの声だ。
「諒輔?どうしたの、今日は…」
 音が止まった。母さんが止めたのかな?額の上にひやりとしたものが触れた。
「諒輔!凄い熱…」
 熱?僕は熱くない…体が重くて動かない。まわりが騒がしい、父さんと母さんの声。
「母…さん?」
「諒輔、喋らないで。今お医者様呼んだから、大丈夫」
 母さんの声、震えてる?
「今日…僕の」
「大丈夫、きっと大丈夫…」
 違うよ、聞きたい言葉はそれじゃない。今日は誕生日なんだ、僕の誕生日なんだから。
 言ってよ、いつも言ってくれるあの言葉を。誕生日の朝、起きたら必ず一番最初に言ってくれたじゃないか。ねえ…
「今、何時?」
 時計が見えない、目が霞む。
「八時半、もうすぐお医者さまが来てくれるわ」
 八時半?大変だ、もうすぐ谷尾が来る。
「母さん、九時に…」
「喋っちゃ駄目、体にさわるわ」
「違う、そうじゃなくて…」
「ん?」
「九時になったら…谷尾が来る」
 そこで母さんは、思い出したように小さく声を上げた。
「諒輔…誕生日だったわね、今日」
 そう、そうだよ。
「だから…」
 言いながら、意識が途絶えた。何て言ったんだっけ…?


 道を歩いていた。重い体を引きずるようにして、ただひたすら。沢山の人達とすれ違っていく、そして気付いた。
「ここは…?」
 いつのまにこんな所を歩いているんだろう?眩しい青空だ、雲ひとつ無い。さっきまでは、部屋のベッドの中だった。母さんが凄い熱だとか言っていた、体が重くて…それは今も同じだ。
「何で…」
 心臓がどくどく鳴ってる。何だろう、この違和感。ふと、左脇にある何かの店のショーウィンドウが目に入った。ガラス張りのむこうに、色々な物が置いてある。ガラスには、通りゆく人々の姿が映っている。僕以外の人の…
 背筋にぞっと悪寒が走った、僕が映っていない。
「…ひかりうた」
 声が震える。
「ひかりうたひかりうたひかりうたひかりうたひかりうた…」
 どうしてこの言葉を繰り返すのか、自分でも分からない。
「ひか…」
 ガラスに僕の姿が映った。なぜか、ここにいる僕のずっと後ろの方に。振り返ると、ぼんやりした表情で、俯き加減で歩いている僕の姿を見つけた。
「僕だ…」  横断歩道を渡って、こっちに歩いてくる。
「自分に負けるな」
 突然後ろの方で声がした。見ると、若い男が、同じ顔をした男の耳元でさっきの言葉を囁いていた。僕に気が付くと、にやりと笑って言った。
「俺は弱い人間だから、たまに自分で自分を励まさないといけないんだ。これで三回目」
 そして消えた。よく見ると、まわりでも同じような現象が起こっている。同じ顔の人間の耳元で何かを囁き、消える。さっき感じた違和感に気付いた、声が聞こえない、音がない。車の音、人々の話し声、通常聞こえるはずの雑音が聞こえない。聞こえるのは、耳元で囁く声。囁かれた人は、一瞬足を止めてまわりに目を遣る。そしてまた歩き始める。
「ひかりうた、だ…」
 その時、全ての意味を気付いた。あの時のあの声の正体も、声を聞いた後の僕の変化の理由も、ここにいる僕のやるべき事にも。僕は、さっき見つけたもう一人の僕の元へと向かって僕は走った。
 姿を見つけると、そっと近付き、耳元で小さく囁いた。
「ヒカリウタ」
 囁かれた僕は立ち止まり、辺りを見渡してから、驚いた顔で繰り返した。
「ひかりうた…」
 僕が僕に与えた言葉、勇気の第一歩。そして僕の姿は消えた。


「佐伯!」
 目を開けると、谷尾が目の前にいた。涙で濡れた、心配そうな顔。
「谷尾…?」
「おばさん、目ぇ開けたよ」
 谷尾が後ろを見て言った。
「諒輔、大丈夫?」
 母さんが心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「大丈夫だよ、どうしたの?そんな顔して」
 体はまだ重くて動かない。
「熱、三十八度五分もあるのよ」
「おかしな夢を見たんだ…」
 言っても、きっと信じては貰えないだろう…それでも構わない。
「水を持ってくるわね」
 母さんがその場を去ると、谷尾が僕の顔を覗き込んだ。
「まだ熱下がってないんだから、安静にしてろよ」
「うん…」
「クラスの皆には連絡しといたから、潮岬が残念がってた」
 あ、誕生日パーティ…
「僕は、十七歳になったんだね」
「そうだよ、佐伯…病気だったんだな」
「うん…」
 ここ数年、発作が起きなかったから油断してた。
「あ、そうだ…」
「何?」
 谷尾は何も言わず、何かをごそごそとやっている。ベッドから見えるのは、緑色の鞄の中に手を入れている谷尾の後ろ姿だけ。
「ほら、見えるか?誕生日プレゼントだよ」
「それ、何?」
 谷尾が出したのは、水色の紙袋。黒とシルバーのシールとかでラッピングされてる。
「開けるか?」
「今、見たいな。開けてよ」
 そう言うと谷尾は、嬉しそうににこにこしながら紙袋を開け、中身を出した。
「じゃじゃーん、超高級素材の鉛筆セット!アーンド鉛筆キャップ!」
「鉛筆…」
 確かに、谷尾の出した鉛筆の側面には有名ブランドのマーク。鉛筆キャップにも同じ刻印が。このブランドは書き味が良いので有名だ。
「俺も前に親父に買ってもらったんだ。使い易いんだぞ、高いし」
「最後は余計だろ…」
 その後、母さんが水と薬を持ってきた。
「お医者様は大事無いって、寝てる間に発作が起きるなんてね」
「うん、びっくりした」
 あの夢…あれが真実なんだ。
「あ、俺、帰りますね」
 谷尾が鞄を背負いながら言った。その笑顔は、相変わらず見ているとほっとする。
「ありがとう、谷尾くん。看病まで手伝ってくれて」
 母さんが谷尾にお菓子を渡しながら言った。他にも小声で何か話しているみたいだ、聞き取れないけど。
「佐伯、言い忘れてた」
 部屋を出るとき、笑顔を向けて谷尾が言った。
「何?」
「誕生日おめでとう、また見舞いにくるから」
 目頭が熱くなった。この言葉を聞きたかった、他でもない谷尾の口から聞きたかった。
 初めて出来た親友の口から、ずっと聞きたかった言葉。
「ありがとう、プレゼントもありがとう」
 ベッドに横たわったままの状態で、出掛けの谷尾に向かって声をかけると、谷尾は照れ臭そうに背を向けて手を振った。
「とてもいい友達が出来たみたいね、諒輔」
「そうなんだ、初めての、親友と呼べる友達になるような気がする」
 母さんは嬉しそうだ。
「諒輔、大丈夫か?」
 父さんが部屋に入ってきた。緑色の、たてじまのパジャマを着たままだ。
「父さん、どうしたの?その格好」
 額に氷嚢を当てている。
「父さんも熱だ、日頃の無理が祟ったな」
「親子で発熱なんて、母さん参るわ」
 一時の団欒だ。体は今だに重いけれど、何だか楽しい。
「誕生日パーティは延期だな、とりあえず一言だけ言っておくよ。おめでとう」
「私もまだ言ってなかったわね、十七歳おめでとう」
「ありがとう…」
 大事な人達から、聞きたかった言葉を聞いた。僕は大丈夫、まだ死なない。僕が僕自身に言った言葉を、与えた勇気を無駄にしないためにも、生きなきゃならない。せっかく友達が出来たんだから、もっと話したい。短い間に起きた色々な事を、そしてこれからの事を…

谷尾へ

突然の手紙で君は驚くと思う。僕は、誰かに手紙を書くのが初めてなので、多分読みづらいと思うけどそこは勘弁してほしい。
僕は、生まれた時に、十六歳の誕生日を迎える事は出来ないだろうと医者に言われたらしい。その事を僕自身は、五歳の誕生日に知った。それ以来、親しい人間を作ろうとはしなかった。親しくなれば、僕が死んだ時に悲しませてしまうと思ったから。
でもある日、僕は不思議な声を聞いたんだ。「ヒカリウタ」という不思議な言葉。その言葉を聞いた翌日、僕には初めて友達が出来た。それが君だった。君は友達になろうと言ってくれた、それが嬉しくて泣いた。
それから僕は変わろうと思ったんだ。僕が死んだ時、君を悲しませてしまうと知りながらも、君と友達でいたいと思ったから。誕生日に、君の口からおめでとうと言ってもらいたいから。
友達になってくれてありがとう、これからもよろしく。

佐伯諒輔より


 この先あとどのくらい生きられるか分からないけれど、僕は生きていく。一日一日を、今までのように怯えてではなく、一つ一つの事に勇気を持って。
「ヒカリウタ」
 この先、もしかしたら僕はまたこの言葉を聞くかもしれない。僕と同じように、自分に囁いていたあの男の人も言っていた。これで三回目、と。僕はきっと、聞いた後に思うのだろう。また僕自身に伝えに行かないと…と、だから忘れない。記念すべきあの日を、僕に勇気をくれた、僕からの言葉を聞いたあの日の事を。
「諒輔、谷尾くん、迎えにきたわよ」
「あ、すぐ行く」
 谷尾のくれた鉛筆を鉛筆立てに戻し、ノートを閉じた。階段を下りると、玄関には変わらぬ笑みを浮かべた谷尾が立っていた。
「体の方、もうすっかりいいみたいだな」
「当分大丈夫だと思うよ、薬もあるし」
 靴ひもを結びながらの遣り取り。
「じゃ、学校行こう」
「うん、あ、途中ポストに寄ってもいいかい?手紙を出したいんだ」
「おう、急ごう。皆お前が来るの楽しみにしてる」
 母さんが奥から出てき、にこにこと機嫌良さそうに谷尾と僕に笑いかけた。
「気を付けてね」
「うん、行ってきます」
 外は、清々しい風が吹いている。太陽も白い雲の隙間から程よく顔をのぞかせている。
 僕はまだ大丈夫、まだまだやらないといけない事がある。
「ヒカリウタ!」
 少し大きめの声で叫んだ。
「何だ?その言葉」
「幸せの言葉だよ、きっと皆持ってるんだ。自分だけの幸せの言葉を…谷尾にだってあると思うよ。すぐ分かるさ」
「へぇー」
 僕の幸せの言葉は、雨上りの虹とよく合う言葉。
「いい天気で良かった」
「そうだな」
 ポストの近くで、僕は見た。谷尾と同じ顔の男が、谷尾と同じ笑みを浮かべて立っている。可笑しそうにこっちへ歩いてくると、僕の隣を歩いている谷尾の耳元に顔を近付けて小さく囁いた。
 僕にその声は聞こえなかったけれど、谷尾には聞こえただろう。
「今、何か言ったか?」
 谷尾に囁いた男はもう消えていた。消える直前、僕に向かってウインクするのが見えた気がした。
「谷尾の幸せの言葉だ」
 何だかおかしくて、嬉しかった。学校についたら谷尾に話そう。僕の幸せの言葉についてや、谷尾の聞いた言葉について。きっと谷尾ならわかってくれる、同じように自分の声を聞いた谷尾なら…
 少し歩いてから僕は、谷尾を待たせてさっきのポストへと走って戻った。手紙を出すのを忘れていたからだ。生まれて初めて書いた、親友への手紙を…


 END




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