「太陽の白昼夢」




 腹立だしいくらいに暑い日が続く夏、酷く悲しい夢を見た。
「私は蓮華(れんか)、あなたの名前は?」
 彼女は日本人形のような長い黒髪で、全てが恐いくらいに綺麗だった。
「あなたの名前は…」
 そう言って、僕の頬に触れた彼女の手は信じられない程冷たかった。

 #

「暑いなー、何でこんな暑い時に勉強なんかしなくちゃいけないんだろ」
 額から流れる汗を拭いながら、頭上の太陽を見つめた。眩しい。
「なんて憎たらしい太陽だ…」
 これから塾に向かわなければならない。憎らしいほどに青い空が眩しくて、突然体中の血液が逆流するような感覚に襲われ、くらりとなった。まわりの景色がぐにゃりと曲がり、気が付くと川原添いの草むらに寝転がっていた。しばらく何が起きたのか、理解できなかった。
「大丈夫?」
 突然、澄んだ少女の声が聞こえた。
「…」
 声が出ない。口をパクパクする僕の顔を、少女はのぞき込むようにして見ている。多分、僕と同じくらいの年齢だろう。逆光で顔がよく見えない。
「声が出ないの?」
 長い黒い髪が、頬をくすぐる。
「ちょっと待っててね」
 彼女がその場を離れたのはすぐに分かった。どこへ行ったのだろう?声が出ないのはなぜだろう?そんな事より、どうしてこんなにも青い空が広がっているのだろう?
「はい、お待たせ」
   声と共に、ヒヤリとしたタオルのようなものが額に置かれた。かと思うと、何か甘いものが口の中に注がれた。
「うぇ、けはっ…甘い…」
 口の中に広がる不思議な味。
「治ったね」
 甘すぎて苦く感じる程だ。何だったんだろう?と考えながら、目を細めて、助けてくれたらしい少女の方を見た。
「君は…?」
 何て表現したらいいのか、凄く綺麗な娘だ。
「私は蓮華。あなたは?」
「お、俺は昂壱(こういち)、ありがとう…」
 草むらに寝そべったままの状態で、彼女…蓮華に礼を言った。
「いえいえ、ただの日射病よ。大体、こんな暑い日に帽子も被らないで外を出歩くなんて、倒れてもおかしくないでしょ」
 頭上に広がる空のように、眩しい笑顔で蓮華は言った。僕はこの時、自分の体温がほんの少し上がったような気がした。
「ご忠告どうも」
 そう言うと、僕は蓮華の目を見た。それから二人して、声を出して笑った。すぐに僕らは仲良くなった。

 #

「こーうちゃん、何やってんの?」
 昨日と同じ空、同じ声。蓮華は僕の顔を覗き込んでいる。
「昼寝」
 この日、僕は約束もしていないのに彼女に会う為、昨日と全く同じ場所に寝転がっていた。
「今日は帽子被ってきたのね、偉いじゃない」
「そりゃどーも。でも蓮華は帽子被ってないな」
 真っ黒な髪が太陽の光できらきら光り、川の流れのようにゆらゆらと揺れている。ふれたら熱そうだ。
「被ってないけどちゃんと持ってるわ、ほら」
 小さな鞄の中から、大きな麦わら帽子を取り出した。
「よくそんな小さな鞄に入るね」
「私は魔法使いだから」
「あ、そう」
 他愛もないやりとりの後、彼女は僕の隣に同じように寝転んだ。
「空が青いわね、透き通ってるし」
「そりゃ空だもの、青いのは当然だろ」
 透き通っている…?初めて聞く表現だな。
「そんなの誰が決めたの?空が青いのは今だけでしょ?夕方になれば赤くなるし、朝は白っぽいし、夜は暗い紺碧だよ」
「そういやそうだ、不思議だな…」
「世の中は不思議だらけって事かな」
「だろうね」
 青く澄み渡る空、名も知らぬありふれた草、眩しい太陽。まるで夢を見てるかのような感覚が、体中をほとばしる。
「不思議すぎて気が付かなかったよ」
 ぼんやりと、だんだん眠くなってくる。
「私達は…」
「ん?」
 蓮華が小さな声で呟いた。まぶたにあたる眩しい太陽の光のせいで眠たい僕は、彼女の話を聞き流していた。
「私達は、太陽が見ている夢の中で遊ばれているのだわ」
「今は真昼だよ…」
 眠たいながらも一応相づちを打つと、クスリと笑う声が聞こえた。
「昼間でも夢を見ている時ってあるでしょ?」
「あー、白昼夢か。太陽の白昼夢」
 自分で言いながら、この言葉は僕の心に深く突き刺さった。

 #

「昂壱、最近模試の結果悪いじゃん。どうかしたのか?」
「そりゃ俺にだって不調の時ぐらいあるさ。完璧じゃないんだから」
 同じ塾に通う腐れ縁の亨(とおる)が、心配そうな顔を浮かべて言った。いわゆる親友というヤツだが、何だか今日は言葉の一つ一つが勘に触る。別に変な事は言っていないのに、どうしてだろう。
「何だよその言い方、人が折角心配してやってんのによ」
「余計なお世話だ、俺の事より自分の方を心配した方がいいんじゃないか?」
           だからつい、僕も喧嘩腰な口調になってしまう。
「お前、最近女の子とよく一緒にいるよな。こないだも塾さぼったろ」
「関係ないだろ、そんな事。大体こんなに暑いのに勉強ばっかりしてたら頭がどうかなっちまう」
 何だか妙に苛々する。
「お前、変だぞ。大丈夫か?変な奴と付き合ってるんじゃないだろうな」
「蓮華は変じゃないよ、しつこいぞ」
「れんか…?それってもしかして」
「黙れ!」
 次に出てくる言葉を聞きたくなかった。蓮華との宝物のような時間を汚されるような気がした。
「昂壱…」
「黙れよ、うるさいんだよお前は。俺の視界から消えろ!」
 亨の言葉を遮りながら、僕にしては珍しくきつい事を言ったなと、自己嫌悪に陥りそうになった。

 #

「なあ、勉強って何だと思う?」
 亨と言いあった翌日、僕はまた塾をさぼって蓮華と会った。
「勉強?さぁ、特に考えた事ないわ。あってもなくてもどうでもいいような気がするし、どうせ無になるでしょ」
「む?」
 今日も太陽が暑い。
「前に話した事、覚えてる?私達なんて所詮、太陽が見てる夢の中で遊ばれているようなものだって。そんな感じで、太陽が目覚めた時には、何もかもが無になるの」
 蓮華のモノの考え方は不思議で、あまり理解出来ないけど何だか好きだ。
「始めから無いのかな?」
「太陽じゃないから知らないわ。でも、太陽が見ていた夢としてなら、存在するのかもね」
「それって少し淋しい気がするな」
「うん…」
 別に、絶対にやらなくてはいけないものではない。親に強制されて、無理にやる事でもない。そう言っているような気がした。
「俺…蓮華と一緒にいると不思議と気持ちが落ち着くんだ。なんでだろう?」
「さあ、きっと何もしないでこうやって他愛もないお喋りをする事によって、昂壱の心が癒されてるって事なんじゃないの?私もこうやって寝そべってると癒されるわ」
 蓮華は、真っすぐに太陽を見つめている。
「ねえ蓮華…」
「何?」
「太陽直視したら、目が痛くならないか?」
「別に、私の目は特別なの」
 その時は、どういう意味なのかさっぱり分からなかった。
「俺は…見れないよ」
「無理して見る事ないって。太陽の暖かさを感じていれば、それだけでいいじゃない。少なくとも私はそう思う」
「そうだな」
 真っすぐに太陽を見つめる蓮華の隣で、僕は目をつぶって太陽を感じた。陽射しはきつく、露出している腕や足がジリジリする。そんな感覚は、ゆっくり眠りの世界へと僕をいざな誘う。このままずっと、蓮華と一緒にいる事が出来たら、幸せだろうな…
 いつのまにか、眠ってしまったらしい。空が真っ赤な色に染まっていた。
「綺麗な夕焼けだな、燃えてるみたいだ」
 蓮華に対して放った言葉だ、けれど返事はなかった。
「蓮華?」
 隣に目を遣ったが、そこに蓮華の姿ははなかった。
「どこ行ったんだろう?」

 #

 その夜、塾をさぼっていた事がついにばれて、親父に思いっきり頬をひっぱたかれた。
「お前はっ、どうして親の言う事が聞けないんだ!」
 力任せに手を振った親父の顔は、紅潮していた。
「父さんの言う事なんか聞けるか!塾なんか行っても全然楽しくない、俺は高校最後の夏休みを勉強だけで終わらせたくないんだ!」
 出来る事なら、ずっとこの夏が続けばいいとさえ思ってる。
「お前の言ってる事はただの我侭だ、後で後悔したくないだろ?」
 自身を押さえつけるように、静かに父さんは言ったけれど、僕の気持ちは動かなかった。
「後悔したくないから塾に行かないんだよ」
 そしてまた殴られた。どうしてあんな事を言ったのか、自分でもよく分からない。ただ勉強したくないとかだけじゃなく、この夏を肌で感じていたかっただけなのに…
「昂壱…ほっぺた大丈夫?」
「あ、母さん…」
 しばらくして母さんが、氷嚢を持って部屋に入ってきた。
「大分腫れてるわね、これで冷やしておきなさい」
「…うん、ありがとう」
 氷嚢を受け取り、頬に当てた。ガラガラと氷の音が聞こえた。
「父さんの気持ちも察してあげてね」
「気持ち?」
「父さんも学生の頃、勉強しないで遊び回ってたんだって」
「へぇ…」
 初めて聞いた。真面目一色だと思っていたのに、そんな一面があったのか。
「それで?」
「志望していた大学に落ちちゃって、やりたかった事が出来なくなってしまったの。昂壱は隣町の大学に行って、文学を学びたいんでしょう?」
 小さい頃から、好きな授業は文系が多かった。小説を読むのも好きで、中学に入ってからは少し読み物を書くようになり、小説家になりたいと思った。その為に、文学を学びたいと思っていた。
「うん…そうだけど」
「私も父さんも、昂壱の夢を応援してるのよ。だから後悔しないよう、一生懸命に夢を追い掛けてもらいたいと思ってる」
 そういえば…小説家になりたくて、文学を学びたいと父さんに相談した時、じゃあ頑張れよと言ってくれたんだった。
「うん…」
「一度や二度位志望校に落ちたからって、昂壱が夢を諦めるとは思ってないけど…どうせなら一度で受かって、すぐに夢を追い掛けたいでしょう?」
「…まあね」
「だから今、頑張ってほしいのよ」
「うん、分かったよ」
「かといって勉強だけに打ち込むのはどうかと思うわよ。程々に勉強して、後悔しないように程々に遊びなさい」
「分かった、ありがとう。父さんにも言っておいてよ」
「わかったわ、じゃあおやすみ」
「おやすみなさい」
 父さんや母さんが、そんな風に思っていたなんて知らなかった。いつでも応援していてくれたんだ。

 #

「あれ?昂壱…」
 久しぶりに、塾に顔を出した。
「よう、久しぶり。俺の席はまだあるか?」
 一番に亨と目があった、驚いた顔をしている。
「ああ、先生には夏風邪だって言ってある」
「え…?」
「今日模試だぞ、大丈夫か?」
「あ、ああ、大丈夫だけど…」
 知らなかった、亨が僕のさぼった尻拭いをしていたなんて。そう思った時、塾の講師が教室に入ってきた。
「井瀬(いのせ)じゃないか、風邪はもういいのか?」
 ちなみに井瀬は僕の苗字だ。
「あ、はい、大丈夫です」
「病み上がりで悪いんだが、今日は模擬試験をする。早く席に着け」
 模試の結果はその日の内に出る、結果はそう悪くなかった。
「昂壱、結果どうだった?」
「こんな感じ」
 答案を見せて言った。
「…塾さぼって勉強してたのか?」
「一夜漬けしたんだよ」
 頬に氷嚢を当て、明け方まで机に向かったんだ。今までの遅れを取り戻すために。
「へえ…あ、これから遊びに行こうぜ。うまいアイス屋見つけたんだ」
 この間、あんなひどい事を言ったのに、亨は何事もなかったように、以前と変わらず僕に接してきた。
「悪い、俺…」
「この間の女の子とデートか?」
「別に、約束してる訳じゃないんだけどさ…いつも同じ場所で会ってるんだ」
「そうか、じゃアイス屋はまた今度行こうぜ」
「ああ、じゃあな」
 何だか不思議だった。あんなに行きたくなかった塾なのに、もう話もしたくないと思っていた亨なのに…別に嫌じゃなかった。むしろその遣り取りが楽しくて、嬉しかった。

 #

「昂ちゃん…今日は遅かったね」
 蓮華は、昨日と同じように川原の草叢に座っていた。
「今日は塾に行ってたんだ」
「勉強してたの?」
「ああ、思い出してさ…」
「何を?」
「やりたい事があって、その為に勉強してた事」
 気持ちはとてもすっきりとしていた。
「無になるのに?」
「は?」
「所詮これは太陽の見てる夢で、太陽が目覚めれば全てが無になってしまうのに?」
「蓮華…?」
「昂壱は、それでも頑張るの?」
 何だかいつもと様子が違う。
「どうしたんだよ、蓮華。何か変だぞ?」
「変?変なのは昂壱の方でしょ?どうして頑張れるの?無くなってしまうのに…」
「蓮華、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないよ。どんなに頑張っても無くなっちゃうんだよ、それって結局、何もしてないのと一緒じゃない。全部無駄な事なんだよ!太陽が見てるただの夢なんだから!」
 蓮華は壊れたように喋っていた。
「蓮華…だから何だって言うんだよ、関係ないだろ。今、俺達はここにいて、こうして生きてる。例え太陽が見てる夢だとしても、夢の中でも俺達は確かにここに存在してるんだよ。別に無くなったっていいじゃないか、今頑張ってて後悔しなけりゃ、それでいいだろ?俺はそれで頑張れるよ。太陽が見てた夢としてでも残ってれば十分だ」
 そこまで言うと、突然蓮華は微笑んだ。
「分かってるじゃん」
「え…?」
「昂壱はちゃんと分かってるじゃん。無駄な事なんて何一つないんだって、今まで分かってたくせに、分かろうとしなかったんだよ」
「え、何?」
「私はね、例え無くなってしまっても平気って言える程の夢を、忘れてしまったの。ううん、夢だけじゃない。私がこうしてここにいる理由とか、あらゆる全ての事まで忘れたの」
 蓮華は、そう言いながら太陽を見つめた。
「ここにいる理由って…蓮華、どうしたんだ?」
「昂壱みたいに、頑張れなかったんだよ。自分の存在自体まで信じられなくなってしまって、同じように生きる意味を見失った誰かに甘えたかった。支えてくれる人に出会いたかった」
 何を言っているのか、さっぱり訳が分からない
「蓮華?」
「もう昂壱とは会わない」
「ちょっ、え?会わないって…」
「昂壱とは会えない。昂壱は頑張れる人だもん、私とはいられない」
「な、何だよそれ!蓮華だって…まだまだ頑張れるだろ!俺が頑張ろうと思えたのは蓮華のおかげなんだぞ、なんでそんな事っ」
「頑張れる昂壱に、私はいらない。私の言葉はもう必要ない」
 僕の言葉を遮って、蓮華は叫んだ。
「蓮華!」
 
 突然風が吹いた、砂埃が舞う。夏の暑い陽射しの下に、蓮華の存在はなかった。
「え、蓮華?どこに…」
 風が吹いて、砂埃が舞って、目をつぶったのはわずか数秒。そんな短い時間の中で、この場から消える事が出来るのだろうか。
「何なんだよ、訳わかんねーよ」
 まるで、最初からここには僕しかいなかったかのような、不自然な感覚。
「昂壱じゃないか」
「え?」
 声がして、堤防の上に目を遣った。
「あれ、この間の女の子とデートじゃなかったのか?」
「亨…」
 亨は、眩しい笑顔で、両手にいくつかのアイスを持って、僕の方に駆け下りてきた。
「あ、一つやるよ、買い過ぎた。どれがいい?確か昂壱はチョコミントが好きだったよな、取れよ」
「あ、ああ」
 亨からチョコミントのアイスを受け取る。何だったんだろう、今のは。
「ぼんやりしてると落とすぞ」
「え?あ、そっか」
 言われて、慌ててアイスを頬張る。口の中がひんやりとしてくる。心地よい感触。さっきまでの事が、まるで夢のように思えてくる。
「うまいなー、こんな暑い日は冷たいものを食べるのが一番だよな」
「ああ」
 眩しくて、暑い太陽の陽射し。
「女の子には逃げられたのか?」
「え?あ、いや…そうじゃないけど…」
「この間はごめんな。何か気に障るような事を言っちゃったみたいでさ」
 亨は、こんな奴だった。決して悪い奴じゃない、僕だって嫌いじゃない、小学校からの付き合いだ。
「別に、もう気にしてないよ。俺の方がきつい事言ったろ、ごめんな」
「じゃあ、お互い様か。良かった」
 何で怒ったんだろう。亨は親友なのに、どうしてあれ位の事であんなに怒ったんだろう。
「昂壱の夢って小説家なんだよな」
「うん、そうだけど」
「昂壱ならなれるよ、きっとなれる」
「そうか?」
「昂壱は感受性が豊かだし、文章力もあるしさ。何より気持ちが素直だから」
「サンキュー」
 気持ちが素直……
「夢を見るっていいよな」
「亨の夢は、何だ?」
 そういえば、聞いた事ないな。
「俺は、まだ分からないんだ。自分が何をしたいのか、まだ分からない」
「見つかるさ、すぐに」
「すぐにじゃなくても、そんなものだよな。人間ってさ」
「ああ、そんなものだよ」
 涼しい風が吹いた。あれ…?
「あれ?」
「どうした?」
「今、ちょっと涼しかったな」
「そういえば、この夏初めてだな。涼しい風を感じるの」
「そういえばそうだ」
 ずっと、暑苦しかった。太陽の存在自体が憎らしくなるくらい。
「亨、俺達ってさ…」
「ん?」
「俺達って、太陽が見てる夢の中で遊ばれてるみたいだな」
「あ?」
 何で僕はこんな事を言っているんだろう?これは
「太陽が目覚めた時、全てが無くなる…」
 蓮華が言っていた事じゃないか…
「そうかな?」
「無くなってしまうとしたら、今頑張ってる事、無駄になるよな」
 何を言っているんだ?こんな事…
「無駄じゃないよ、昂壱も俺も、今頑張って、夢追い掛けてる。太陽の夢の中の出来事でもいいじゃないか、後悔しなければさ」
「亨…」
「逆に太陽の見ている夢の中で、自由に暴れてやるくらいの勢いでさ」
「そうだな…」
 亨は、最初から知っていたんだ。何事も、無駄になる事はないって。
「で、例の女の子の事だけどさ…」
「蓮華の事か?」
「そう、すごい綺麗な…長い黒髪の娘だよな」
「見たのか?」
「ん?ああ一緒にいたお前があんまりいい顔してたもんだから、声かけなかったけどさ」
 そうだ、蓮華と一緒にいて辛い事はなかった。蓮華とずっと一緒にいたかった。でも蓮華は、僕の前から姿を消した。
「さっきの太陽の事…」
「うん?」
「蓮華が言ってたんだ。蓮華は、太陽の夢で、目が覚めれば無になるから無駄だって。それでもう頑張れないって…」
「へえ、でもまだ遅くないよな。頑張るなんて、いつでも出来るんだしさ」
「そうだよな」
 そう、そうなんだよ。亨の言う通りだだよ、蓮華。一緒にこれから頑張ろうよ。

 #

「亨、今日の塾が終わったらさ、例のうまいアイス屋に連れていってくれよ」
 もうすぐ夏休みが終わる。あれから一度も蓮華には会えなかった。
「おう、折角だから皆も誘おう」
「その案に賛成」
 結局、同じ塾の仲間達と行く事になって、堤防をぞろぞろと歩いていた。
「あれ?あの橋の所にいるのって沢口じゃないか?」
 仲間の一人が言った。よく見ると、同じ塾に通ってる奴だ。結構優秀な…
「本当だ、あんな所で何してるんだろうな」
 ふらふらと、橋を渡っている。  
「そういえばあいつ、最近おかしいんだ」
「おかしい?」
「ああ、ちょくちょく塾さぼるし、独り言も多いし」
「あ、あとちょっと怒りっぽくなってるよな。いつも苛々してるみたいだし」
 皆がそれぞれ自分の見解を話す。
「へえ…どうしたんだろうな」
「そういえばさ…」
 誰かが言った。
「少し前の昂壱もあんな感じだったよな」
「え?」
「ああ、そうだ。塾もよくさぼったし、いつも苛々してるみたいだったし」
 僕が……?
「ああいうのを受験ノイローゼっていうのかな?」
「昂壱はそんなんじゃないよ」
 亨が言う、少し怒り口調だ。
「そうか?ま、そうだとしても、もう戻ったもんな」
「そうだよ…」
 受験ノイローゼ?僕が…?
「あ、あともう一つ。女とよく一緒にいる所を見かけるぜ」
「あ、俺も見た。綺麗な女」
 女?もしかして…
「…蓮華?」
「そうそう、れんかとか言ってた」
 まさか、そんな……
「あれ?様子が変だぞ」
 沢口が橋の上で、てすりの所に上ろうとしている。
「危なくないか?」
「危ないよ!」
 皆で一斉に駆け寄る。橋の、てすりの上に立つ沢口。虚ろな目をしている。
「沢口ー!」
 亨が叫んだ。沢口は反応しなかったが、僕には見えた。沢口の目の前に、蓮華がいる。白く、細い手を沢口に差し伸べている蓮華の姿。宙に浮いている…
「やめ…」
 小さく呟く事しか出来ない自分がもどかしい。
「昂壱は、自分の存在していく道に気付いたから私は必要ない。でも彼は気付けなかった、私の世界を望んでいるの」
 蓮華の声が聞こえる。僕の方にちらりと目を遣って、口をパクパク動かしている。何でそんなに淋しそうな顔をしてるんだ…?
「蓮華……」
 てすりの上で、沢口は差し伸べられた蓮華の手を掴もうと体を揺らした。
「あっ、落ちるぞ!」
 まるで、蓮華の冷たい腕の中に抱き締められるように、橋のてすりの上から沢口は落ちた。
「うわあ!落ちたぞ、大変だ。救急車だ!」
 落ちる時の沢口の顔は、穏やかに微笑んでいた。もしかしたら、あれは、僕だったのかもしれないんだ。
「昂壱?どうしたんだ」
 亨の声だ。僕は、その場から動く事が出来ないでいた。沢口、お前も蓮華に言われたのか?自分は太陽が見ている夢の中で遊ばれていると、太陽の目が覚めれば全てが無に、無駄になるのだと言われたのか?
「れ、蓮華!」
 叫んだ。もう消えてしまった蓮華に、僕の声は聞こえただろうか…?立ちすくんで、叫びながら自分でも気付かない内に、頬を涙で濡らす事しか出来ない僕のこの声は届いただろうか?そして沢口は、蓮華の言ったり事を信じたのかな。全ては無駄な事なのだと、本気で思ったのかな…?多分、信じたのだろう、蓮華の言葉を。
 じゃなければ、あの差し伸べられた手を掴むなんて事はしなかったはずだ。

 #

 沢口は川底の岩に頭をぶつけて、即死だったらしい。誰もが信じられなかった。葬儀の席で、沢口の両親を初めて見た、泣き叫んでいた。あれは、僕の両親だったかもしれないんだ。飾られている遺影の笑顔がやけに悲しい。
「沢口、どうしたんだろうな」
「亨…」
 真実を知っているのは、多分僕だけだろう。沢口は蓮華の手を掴んだんだ。あいつは分からなかったんだ、頑張る事は決して無駄ではないと。自分自身が後悔しなければいいんだと。
「沢口は、気が付かなかったのかな」
 亨が隣で小さく言った。
「何に?」
 泣きだしそうな顔をしていた。
「太陽が、夢を見るわけないって事に」
「え…?」
 何を言っているんだ?
「昂壱も、蓮華と話したんだろう?言ってたもんな、太陽の夢の事」
「あ、何言って…」
「俺も一時期、自分はどうして生きてるんだろうって思った事があるんだ。その時蓮華に会った。夏休みが始まった頃の話さ」
 そう言いながら亨は、泣きながら笑っているような、硬張った表情をこっちに向けた。
「亨も…蓮華に?」
 亨も蓮華に会っていた?そして、これは太陽が見ている夢だと…
「太陽は眠らないよ。太陽はいつだって、俺達を見ている。眠るかもしれないけど、俺達がその夢の中で遊ばれるなんてないさ。太陽は、ずっと昔から存在してるんだ。俺達と同じ様に存在していくんだ、これからも」
 亨は、蓮華に何と言ったんだろう。そして蓮華は亨の言葉に、どう答えたんだろう。気になるけど、今は聞かないでおこう。僕のこのやりきれなさを、亨も感じているようだから。いっその事、忘れてしまえればいいのに。夏の眩しい太陽が見せた、幻だったら良かったのに…

 #

「これ…一応ノンフィクションだろう」
 高校を卒業してから、幾つもの年月が流れていた。
「やっぱり亨にはばれたか」
 初めて書いた長編ミステリーを、亨に読ませた。
「分かるよ、台詞とかで。よく覚えてたな」
「色々と刺激的だったから」
 少し戯けてみせる。一種の照れ隠しとも言うが…
「何を言ってるんだか」
「でも、全く知らない人にはフィクションに見えるだろう?」
「そりゃそうだ、知ってる奴にしか分からない。フィクションで通用する」
「だろ」
 亨は教師になっていた。後になって、夢だったんだと言っていた。
「いい話だ」
「伝えたかったんだ、頑張る事は決して無駄ではないと」
「昂壱は正しい」
「やっぱり?俺って凄いな」
「自画自賛するなよ」
 夢を叶える為に頑張る事は無駄じゃない。夢を見る事も、無駄じゃない。
「蓮華は、まだあそこにいるのかな」
「どうだろうな…」
 あの暑い夏の日の様に、自分を見失った人間を見付けてはあの問いを投げ掛けているに違いない。淋しさに耐え切れず、自分の世界に連れ込もうとしているに違いない。
「俺、蓮華が好きだった…」
「綺麗だったもんな、蓮華」
 肌が白くて、キラキラでサラサラで艶々の黒髪、太陽を直視している時の横顔が一番綺麗だった。
「初恋だったのに…」
「昂壱、遅い初恋だな」
「余計なお世話だ」
 でも、蓮華のおかげなんだ。こうして夢を追い続ける事が出来たのは。だから僕は、感謝している。あの暑い夏の日、蓮華に出会えた事を……
「今度教えてやるよ」
「何を?亨の初恋?」
「違うよ、あの時蓮華が俺に言った事。気になってるんだろう?」
 そうだった、いつか聞こうと思っていたんだっけ。
「あと亨が蓮華に言った言葉も気になるんだ。今後の参考の為に是非聞かせてくれ」
「その替わり、今度奢れ」
 蓮華に会わなければ、こんな話で亨と盛り上がる事もなかっただろう。
「よし、これが入選して、本になって、印税が入ったら奢ってやる」
「いつの話だよ」
 信じてほしい、蓮華とずっと一緒にいたかったという、あの時の気持ちが真実である事を…
 ねえ蓮華、君はどうしてそこにいるの?忘れてしまったという理由は思い出せた?僕はね、蓮華の言葉の一つ一つを思い出す度に後悔するんだ。なぜ君が言って欲しかった言葉を、あの時言ってあげられなかったんだろうかって。
 何でか分かる?あの日、太陽の下で初めて出会った時からずっと、君に幸せになってもらいたかったからなんだ。決してあんな哀しげな、辛そうで淋しげな顔をさせたかったわけじゃない。ただ君に、幸せになってもらいたかった。
「願わくば…」
 亨が隣で、原稿用紙の束を揃えている。小さく呟いた僕の声に反応した。
「願わくば?」
「うん…願わくば、君が全てを思い出せますように。そしていつの日か、自分の夢を、存在する自身を信じられますように」
「くさい台詞だなぁ」
「最後の行に付け加えようかと思ってさ」
 黙って微笑む亨の隣で僕は、手元にあった紙にペンを走らせた。


 願わくば、君が全てを思い出せますように
 いつの日か、自分の存在と夢を信じられますように
 願わくば、君がもう二度と、哀しい思いをしませんように
 願わくば、君がずっと幸せでありますように……



 END




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