>>> 16 . 無口な猫



 にゃあ、と鳴いて背を向けた猫のようだ。

「じゃ、帰るから」
 まどろむ意識の奥底で、声。
「ん…あぁ、また、明日」
 明日はないわよ、と、そう冷たく言い放ってドアを閉める音。はっとして、起き上がって緒沢は青褪めた。
「おいおいおい、そりゃ、ないだろ…?」
 だって今日は休みだって、昨夜オレの腕の中でお前、言わなかったか?
 だからオレはいつもよりちょっと調子に乗って、ぎゅうと力いっぱい抱きしめたんだ。愛しくて愛しくて適わないから。
「桐…子?」

 嫌い…ではない。ただ煩わしいと思っていた、いつか捨てたはずの感情が胸に湧くのが自分には分かった。それは酷く曖昧なのに、確固たる存在だと戒める。
 嫌い…ではない。むしろ…
「晴れるかしら…?」
 ぼんやりと薄らぐ空。淡い水の色を移したような、優しげな空。日はまだ昇っていない、ビルの隙間からこぼれる光が、朝を教えるだけ。
「…どうしよう、か」
 どうかしていた、昨夜は。今日は非番で、休み。あの男の腕の中で、それを告げた時に気付いてしまった。休み…だから、もっとこの男の腕の中にいられる、と。
 ぞっとした。そんな、甘い事を考えるようになるなんて。
「緒沢…」
 名前を呼ぶと、淡い感情が胸を占めていく。何を期待しているのだろう、私は、求めないと決めたはずなのに。幸せなど、求めないと…
 それでもふっと、込み上げてくる。強がって見せても無駄だと、自身で気付いてしまう。
「私なんて…」
 いなくなってしまえばいいのに…きっと、求めたら与えてくれるだろう、あの男なら。流されまいと思っていたはずなのに、この心に新しい感情まで蘇らせたあの男なら。
 けれど…ねえ、自分でも分かってるんでしょう?
「桐子!」
 その声に、はっと身を翻す。

 はあ、と、白い息が漏れる。白い頬に、濡れた唇。
「薄着すんなよ、朝は冷えるんだから」
 握り締めていた自分のマフラーを、緒沢は彼女の首に巻いた。
「このまま首を絞めて」
 面白くもない冗談を真顔で言う…いや、本気で言ってるんだろう。
「何、言ってんだよ」
 そっと、頭に手をやり抱き寄せる。すっかり冷えた身体…温めて、あげたい。今すぐに。
「今日、休みなんだろ?戻ろうぜ、部屋はあったかいし」
 一瞬強張った身体から、すぅと力抜けていったのか、緒沢の肩にもたれかかる。
「桐子?」
「わかってんの?あんたは…」
 不意に、声が漏れる。
「ん?」
「私には…あんたを幸せにする事、できないよ?」
 目も見ずに、ただ、きゅっと腕を彼の背中に回して上着の裾を握り締める。この行動が何を意味しているのか、緒沢には分かる。
 くるしいのかい?
「桐子…」
「緒沢…」
 腕の中で、震える姿は子猫のようで。
「オレは…お前がこうして、オレの腕の中にいるってだけで幸せなんだけど、それじゃ駄目か?」

 少し空いたカーテンの隙間から、空が見える。
「何か食うか?」
 彼女はベッドの上で、布団の中で僅かに身じろぐ。二人のぬくもりの残る布団の中は、居心地が良くて眠くなる。
「桐子?」
 返事がないので、緒沢はそっと顔を覗き込んだ。明るい色の髪の毛に、太陽の光が当たって金色に光る。
「たまご…」
「ん?」
 小さな声に、より顔を近づける。と、布団の中から白く細い腕がにゅっと伸びて緒沢の着ていたシャツの襟首が掴まれた。
「お、あ?」
 ぐいっと、引っ張られる。
「うぉっ?!」
 ばさりと、身体が落ちるとそのままぎゅうと締め付けられる。耳元には、鳶色の瞳と濡れた唇。
「あんたの作ったたまごサラダが食べたい」
 寝ぼけたような声で、囁く。

 にゃあ、と猫は彼の耳と舐めていたずらっ子のように微笑んだ。
 まるで、幸せになってもいい?と聞いているようだと、彼は思う…



FIN

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あら?なんか桐子さんが壊れた(笑)
でもいいよねー、飛び出したら追ってきてくれる人がいるのって。
幸せの形と追い求めると、ぐるぐるぐるぐる堂々巡り。
ぎゅうと、抱きしめる事の心地良さ。それも幸せの形。

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