見た感じそれは、やわらかそうで、口にしたら甘いような気がした。





  「 リップクリーム 」





「新発売、桜の香り艶やかなリップクリーム『ペルセフォネ』試供品をどうぞ!」
 その日、上田は愛車次郎号を車検に出していた為、珍しく徒歩で街中をうろついていた。たまたま通りかかった薬屋の脇で、ちょっと綺麗な若い女性が笑顔で上田に声をかけ、上田にとっては全く不必要なものを手渡した。
「君、男の私に渡しても意味がなんじゃないか?」
 女性は可愛らしい笑顔を上田に向け、同じく可愛らしい顔で答えた。
「この箱の中身、全部配らないと上がれないんですよ。彼女にでもあげてください」
 彼女の足元には大きなダンボール箱があって、なるほどまだ半分くらいは残っている。上田は人助けと考え、それ以上は何も言わず、再び歩き出した。
「彼女か…」
 自分で繰り返しながら、ふと頭の中に、ある女性の顔が浮かんだ。
「ふん…」
 自分がたった今考えた事をせせら笑い、貰った試供品のリップクリームを握り締めた。

 嫌な予感がする。奈緒子は池田荘の自分の部屋に入る瞬間、そう思った。こういう時の予感というのは、霊能力を全面否定してはいる奈緒子でも嫌になるくらい当たってしまうというのも分かっている。
 しばしためらった後、鍵を鍵穴に入れずに玄関のドアのノブを回した。
「よう」
 思ったとおり鍵は開いていて、中にはちゃぶ台の上の湯飲みに勢いよくお茶を注ぐ(身長と体の一部が)でかい男、上田次郎その人がいた。
「毎度毎度、勝手に入るな!」
「なんだ、機嫌が悪いみたいだな。まぁ座れ、今YOUの分のお茶も入れるから」
「人の家の物に勝手に触るな!」
 怒鳴りつつも奈緒子は上田が座っていた場所の、小さいちゃぶ台をはさんだ反対側にどかっと座り込んだ。
「はぁ〜あ〜」
 わざとらしく大きなため息をつき、疲れている事をアピールしてみた。
「どうした、疲れてるみたいだな。今はどんなバイトをしてるんだ?」
「余計なお世話だ」
 目の前に置かれた湯飲みの中身を、一気に奈緒子は口の中に流し込んだ。
「ん?!熱い!」
「あたりまえだ、今入れたばっかだぞ。大体、YOUも一応女なんだから、もっと静かに飲めよ」
「うるさい!」
 小さくため息をついて、上田の方を見ようともせず、奈緒子はちゃぶ台に突っ伏した。
「山田?寝るならちゃんと布団で寝た方がいいぞ」
「疲れてるんですよ、上田さん、敷いといてください」
「人使いの荒い奴だな」
「黙って早くやれ。じゃないと私は行きませんからね」
「ん?どこに行くんだ」
 いそいそと隣の部屋に布団を敷き始めながら、上田はさらっと言った。
「え?上田さん、また何か変な事件を調査してくれって依頼されたと違うんですか?」
 頭を上げて上田を見遣ると、「いーや」という表情で見返してきた。
「じゃぁ、なんでうちにいるんですか?」
「ちょっとした野暮用だ、ほらよ」
 布団を敷き終わった上田は、ズボンのポケットから何か取り出し、奈緒子に放って寄越した。
「う、わ?…リップクリーム?」
「商店街の薬屋の前で試供品を配ってたんだ。俺には必要ないからな、YOUにやる」
「え?」
「試供品だが通常量だし、何よりタダだ。しかも新商品だとよ」
 何か冷たい言葉が帰ってくるような気がしたが、期待は綺麗に裏切られた。奈緒子の顔は、嬉しそうだった。
 本業のマジックのショーがある時ですら、奈緒子はほとんど化粧はしない。興味はあるが、やはり懐が痛い。持っている500円玉でコスメと食べ物のどちらかが買えるとすれば、迷わず食べ物を選ぶのが奈緒子だ。
「『ペルセフォネ』…って、何ですか?」
 いつもとはちょっと違う、年頃の女の子というような表情だ。
「あ、あぁ。ペルセフォネというのはだな、ギリシャ神話における大いなる神ゼウスと、大地と農業の女神デメテルの娘だ」
「神様の子供なんですか?」
 いつものウンチクなら聞く耳持たずだが、今日に限っては奈緒子も自分の好奇心に勝てないようで、目をキラキラさせて続きを促した。
「ああ。あまりの美しさで冥府の王ハデスにさらわれて王妃となるんだが、母であるデメテルが嘆き悲しんでな、ゼウスの命により戻る事になったんだ。」
「へぇー、それでそのペルセフォネは戻れたんですか?」
「ハデスが諦めの悪い奴で、ザクロを食べさせてしまったんだ。ザクロは知ってるか?あれは冥府の食物と言われていてな、それを食べてしまうと冥府を離れられなくなるんだ。幸いペルセフォネが食ったのは少量だった為、一年のうち三ヶ月から六ヶ月だけ冥府に繋がれるに済んだんだ。ペルセフォネが地上に戻っている間は春という事になっていてな、それで彼女は春の再生の象徴、地上の豊穣の女神と言われている。または春をもたらす乙女だな」
 上田の長い説明の後、奈緒子は試供品のパッケージを裏返してみた。
「あ、裏にも説明書きしてありますよ。上田さんも伊達に大学教授やってるわけじゃないんですね、ほぼ同じ内容です」
「お前、大学教授を何だと…」
「春をもたらす乙女かぁ、それで桜の香り艶やかってキャッチコピーなんですね」
 上田の言葉を聞き流しつつ、奈緒子はなかば乱暴にパッケージをはがし、中身を取り出した。
「おい、YOU…」
「わぁ、見てくださいよ上田さん、可愛い桜の模様が描かれてますよ。あ、本当に桜の香りがする」
 嬉しそうにはしゃぐ奈緒子を見て、上田は何も言えなくなってしまった。
「薄紅色か、YOU、塗ってみたらどうだ?」
「え?あ、そうですよね。じゃぁ折角だから」
 嬉しそうな笑顔のまま、奈緒子は鏡の前に立ち、自分の唇にリップクリームを滑らせた。
「どうですか?」
 目の前に振り返った奈緒子を見て、上田は自分の心臓が大きく跳ね上がったのを感じた。
「上田さん?」
 ほんのりと桜色に色づいた唇。やわらかそうな艶と、甘い桜の香り。もともと顔のつくりは綺麗な奈緒子なので、きちんとした物をつければ見違えるのだ。
「変、ですか?」
 不安そうにゆがむ表情。だがどうしても、唇から視線が外せない。触れてみたいという欲求にかられる。
「何とか言ってくださいよっ」
 その一言にはっとした。何だか泣き出しそうな顔になっている奈緒子に罪悪感を覚え、慌てて長い腕をさらに伸ばし、奈緒子の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「すまんすまん、孫にも衣装だと思ってな。よく似合うよ」
「本当ですか?」
 パッと花が咲いたように微笑む顔を見て、慌てて唇から目を離した。
「あ、ああ」
「コレ、頂いてもいいんですよね?」
「俺が持ってても仕方ないからな」
「…ありがとうございます」
 ドキドキと脈打つ心臓を押えながら、浮かれる奈緒子を横目で見遣った。

 冥府の王ハデス…どんなに反対されても、美しいペルセフォネをさらわずにはいられなかったその気持ちがよく分かる。
 やわらかそうで艶やかな唇。アレを見た瞬間、俺もハデスのように強引にさらいたくなった。腕を伸ばせば届く距離にいるから尚更だ。
 腕をつかんで。
 引き寄せて。
 桜色の唇に、自分の唇を寄せてみたかった。

「上田さんも、たまにはいい事しますね」
 悪びれずにそう言った奈緒子が満面の笑顔を浮かべていたので、上田は何も言い返せずに、その唇を見ないようにして微笑んだ。





   おれはハデスじゃない…
 強引にさらうなんて、出来ない。
 壊したくないんだ、この美しい女神の笑顔を…







ギャー、何コレ!!
自分で書いておきながら上田の頭の中が甘くてびっくりした…
あ、ギリシャ神話のペルセフォネの話は多分間違いないと思います。
ネット駆使して調べましたとも。でも最初、春の女神って「アフロディテ」かと思っちゃいましたわ。
調べたら全然(微妙に)違うんでびっくりした。
でも新しい発見でちょっと楽しかったなぁ…

2003年12月25日完成




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