それはただの、軽い衝動。
「 油性マジック 」
「…?」
ころころころと、足元に転がってきたそれを、彼女は訝しげな目で見つめた。
拾い上げてみると、それが何か分かる。某歌手の愛称と同じ名前の、油性マジック。
「マジック…」
視線をずずずいーっと動かす。ここは日本科学技術大学の、教授である上田次郎の研究室だ。資料やら本やらが積み重ねられた机の上で、部屋の主が突っ伏して眠っていた。
この日、奈緒子はただ何となく、大学に足を運んだ。それはただ、暖房器具のない池田荘の自分の部屋にいたくないとか、それだけの理由だった。
ここに来れば、いつものトランプを使ったカードマジックで上田をだまくらかして、食堂ででも何か美味しいものを奢らす事が出来るかもしれないと…
「上田ぁー」
ところが当の上田はすっかり眠りこけていて、どんなに呼んでも起きない。無理に起こそうとすれば、何をされるか分かったもんじゃない。とりあえずは寒さをしのげる為、奈緒子はしばらく応接セットのソファに腰掛けてぼんやりしていたのだが。
「きったない机、少しは片付けろよ」
自分の部屋の事は棚に上げ、奈緒子はマジックをクルクルと指で回しながら呟いた。
それでもやる事がないというのは暇なもので、奈緒子は立ち上がり、机に向かって歩いた。そこから真っ白い何も書かれていない紙を何枚か拝借し、応接セットに戻る。
「あーぁ、暇だなぁ」
紙にマジックで落書きをし始めた。一番最初に描いたのは、自分。それも理想のスタイルで、バストのふくらみをこれでもか!という程に強調させた服を着せてみた。
なかなか上手く描けたので、満足気にそれを眺め、今度はすぐそこで静かな寝息を立てている大学教授を描く事にした。
「うわっ、似てる〜」
眼鏡をかけさせ、寝癖のような髪を描き、変質者のようなひげを描く。そんな自分の絵に歓声を上げ、体を小さく描いた。
「うん、そっくりだ」
大学教授と豊乳の美人マジシャンの周りに、今度はづら疑惑の刑事や、金髪オールバックの刑事、茶髪の東大出の刑事の絵を付け足した。
こんなにも特徴を捉えた絵を描く事ができるほど、長い付き合いなんだなと思うと、奈緒子は思わずくすくすと声を立てて笑った。
「次は、お母さん…」
里見の顔を描きながら、奈緒子はふと思い出した。
「奈緒子、自分の物にはちゃんと名前を書くのよ。ほら、油性マジック」
「うん、わかったー」
幼い頃に言われた事だ。あの後、大好きな父の腕に『なおこ』と書いて怒られたのだった。
「懐かしー…」
突然、バサバサっと机の上から資料やら本やらが落ちた。どうやら上田が寝ぼけて腕でもぶつけたのだろう。
「あーあーあー…ばか上田…仕方ないなぁ」
マジックを持ったまま、奈緒子は机に近付くと、落ちた本や資料を広い、机の上に戻した。
「う、う〜ん…」
声がして目を遣ると、上田が顔をしかめて唸っていた。悪い夢でも見ているんだろう。矢部にナイトメアを見させるよう仕向けた事が、今になって返ってきたのかもしれない。
「全く、寝顔だけ見てれば結構な色男なのに…」
そう呟きながら、さっき思い出した言葉が頭の中をよぎった。
「…自分のモノにはちゃんと名前を…」
父の腕に『なおこ』と書いたのは、父が大好きだったからだ。奈緒子はぼんやりと上田の後頭部を眺めた。
「ここなら…ばれないかな」
軽く上田の頭を小突いてみた、ぐっすり眠っているようだ。それを確かめてから、マジックの蓋をとった。
キュポン
「書いちゃえ…」
頬を少し赤らめながら、奈緒子は上田のシャツの後ろ襟首をグイっとひっぱり、首筋を露にした。
そのまま素早くマジックを走らせる。
「ん…ん?」
窓の外がすっかり暗くなった頃、上田はようやく目を覚まし、腕を天に伸ばし、のびをした。
「うおぉ〜…おう?!」
伸ばした腕を戻そうとして、目に入った。手の甲のところに、大きく『巨根』と書かれている。
「な、なんだこれ!おぉう、こっちも!」
逆の手の甲には『どすこい超常現象』と書かれている。よく見ると、甲だけではなく、シャツの袖がまくられ、腕にまで色々書かれている。
『体はでかいが気は小さい』『気絶チャンピオン』『ベストをつくせ、お前が』などなど…
「こ、これは…山田だな、そうだ、あいつしかいない!」
きょろきょろと辺りを見渡すと、応接セットのテーブルの上に、数枚の紙があった。奈緒子が最初に落書きした紙だ。
「間違いない、自分の貧乳を改造しやがって…おぉう?!」
紙を手にし、再び気付く。油性マジックを使った為、テーブルに描いた絵が写ってしまっているのだ。
「なんてこった、このテーブル高かったのにっ!」
はっとして上田は慌てて鏡を見た、嫌な予感は的中した。
「やぁ〜まぁ〜だぁ〜!!」
鏡に映った上田の額には、大きく『肉』と書かれていた。
「あー、楽しかった」
奈緒子はというと、上田の研究室の冷蔵庫からわらび餅を幾つか失敬し、暖房器具のない池田荘の自分の部屋に戻っていた。
「上田さんは単純だから、あそこまでしておけばアレには気付かないだろうな」
クククと思い出し笑いをしながら、わらび餅を口に運んだ。
上田はその後、シャツの袖をなおし、両手に包帯をぐるぐる巻きにし、頭に変なバンドをつけて大学を後にした。
「油性じゃないか、これ!なかなか落ちないんだぞ、油性は!」
一人、文句を言いながら、車を走らせる。マンションに着いても文句を言いっ放しで、風呂場では熱いシャワーを浴びながら腕や顔を何度も何度も強くこすった。
「くそっ、取れない!!」
見えるところばかりに目が行って、一番重要な事が書かれている場所には気がつかない。それもそのはず、それは首の後ろ側、ちょっと下の辺り。
普段は服に隠れてそう簡単には見えないような場所。しかもなかなか落ちないときたもんだ。多分、これからも気付く事はないだろう。
段々とそれは薄くなり、いつかは消えてしまう文字。
だからこそ、それは彼女の本心。
父親の腕に自分の名前を書いたのは、父親の事が大好きだったから。
奈緒子が上田の首筋に書いたのは、自分の名前じゃなくて…
「そうだ、あの後お母さんの着物にも自分の名前書いて、余計に怒られたんだった」
小さな頃の記憶は、ほんの少しずつだけども鮮明になってくる。
「あの着物、凄く綺麗で、お母さんのお気に入りだったんだよね」
いつか大人になったら貰おうと思って書いたのだった。
ただ単純に、書いてみたかっただけ。
だから、書いてみただけ。意味はそんなにないけど…でも、
これが本音なのかもしれない…
『ずっと一緒です』
実際には、言えませんから…
がーん…これは駄作ですね(汗)
もっとラブいの書きたいよぉっ!
難しいお題だった、はぁ、やれやれ。
2004年1月6日完成
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