いざという時の為に、頑張るんだと思う。





 「 筋肉トレーニング 」





「ふん、ふん、ふん、ふん」
 上田次郎は自室でトレーニングにいそしんでいた。その方法は言うに事欠かない、リビングルームにインテリアの如く置かれた筋力マシーンの数々だ。
「ふぅ…」
 一時中断し、上田はのたのたとダイニングへ歩いていった。棚からグラスを用意し、冷蔵庫の中から牛乳のパックを取り出し、注いだ。
「ごっ、ごっ、ごっ…ごくっ…はぁ〜」
 一気に飲み干し、大きく息を吐き出す。ほぼ毎日の日課だ。
「今日は調子がいいから、少しノルマを増やすか」
 腰を捻ったり首を回したりして柔軟をし、上田は再びリビングの方へと歩いていった。

 上田さんは、体だけ使ってればいいんですよ。

 いつかの奈緒子に言われた言葉を思い出す。
「いやいやいや…」
 自転車のようなマシーンにまたがり、上田は首を横に振った。
「別に、あいつに言われたからやってるわけじゃない。これは日課だ」
 一人、何かを振り切るように呟いた。正直言って体を鍛えるのは、昔からの習慣ともなっていて、今更やめるわけにも行かない…それが、事実なはずだ。けれど最近、なぜか違うような気がして…
「違くないっ!断じて!」
 思わず声が出て、一人ではっとして赤くなった。
「どうしたんだ、俺…」
 なんだか頭の中がぐちゃぐちゃで、ペダルを漕ぐ足に力を入れた。
 ──キッキッキッキッ…規則的な機械音を立て、上田はしばらくペダルを漕いでいたが、何を思ったのか、ふらりと機械から降り、ソファに置いてあったタオルで汗を拭いた。
「今日はもうやめておこう、疲れた…」
 そのままフラフラと、バスルームの方へと歩いた。衣服を全部脱いで、脇にある洗濯機に投込んだ。
「汗を流して早く寝よう」
 ──キュッ…お湯の蛇口を捻ると、ドババーとお湯が流れてきた。しばらくそれを手に当てて、お湯の感触を味わってから、シャワーに切り換えた。
 ──ザー…熱いお湯が体に当たる。どうしてこんなに胸が苦しいんだろう?お湯の粒を全身で受け止めながら、上田は目を閉じて考え始めた。
 この俺に解けない謎はない。探偵のセリフのような言葉を思い浮かべ、それから自分の心を紐解いていく。
 いつからだ?こんなに胸が苦しいと感じるようになったのは。一日ずつ遡っていけば、答えは簡単に出てくるはずだ。昨日は?昨日も苦しかった。じゃあ一昨日は?うん、確か一昨日も苦しかった。それじゃぁもっとずっと前に遡ってみよう。
 一週間前…同じだ、苦しかった。一ヶ月前、二ヶ月前、ずっと同じだ。じゃぁ、一年前か?もうちょっと前からだな、あれは…ふと、奈緒子の顔が浮かんだ。途端に胸がキュウゥゥッと締め付けられた。
「山田と会った頃からなのか?」
 思わず目を開けて口にしたものだから、お湯がもろに目と口の中に入ってきた。
「うぉ、がぼ…もが、かはっ、げほげほ、気管に入ったぞ。落ち着け俺!」
 シャワーの向きを変え、胸を叩く。何を慌てているんだ、俺らしくない…
「はぁ…はぁ、シャワー浴びながらの考え事は駄目だな…」
 上田は蛇口を締め、バスルームを出た。洗った後、乾したままになっているバスタオルを引っ張りおろし、それで体についた水滴を拭いた。
 一通り体を拭いた後、それを腰に巻きつけて、脱衣所を離れた。
「眠い…」
 ベッドに顔面から倒れ込み、目を閉じる。奈緒子の笑った顔が浮かび、胸が痛くなる。ここ数日、いつもこれだ。
 濡れたままの頭で、そのまま上田は眠りに落ちていった。

「は…ックシュンッ!」
 翌日、自分のくしゃみで目を覚ました上田は、鼻をすすりながらどうして自分がタオル一枚だけ巻いた姿で寝ていたのか、すぐには思い出せなかった。
「…寒いな、そして熱い。熱が出たのか?」
 ボソリと呟き、何事もなかったかのように服を着て、いつものように大学へと向かった。
「上田さーん、何か奢ってくださいよぉ、バイトクビになっちゃって…」
 夕刻、奈緒子が上田の研究室を訪れた時、当の上田は意識が朦朧としていた。
「ん…?あぁ、YOUか…」
 表情を見ただけではそうとは分からないが、実際問題何かがピークのラインを彷徨っている。奈緒子は何も気付かず、いつものように冷蔵庫を勝手にあさりだした。
「なんでわらび餅ばっかりなんだ?もっとこう…肉とか入れておけよ」
 文句を言いながらも、奈緒子はわらび餅のパックを幾つか取り出し、応接セットのソファに腰を下ろした。
「大学に、肉なんか置いておいても、意味ないだろ…」
「そうですね、調理器具もないし」
 じゃぁコンロも常備したらどうですか?と奈緒子が続けて言ったが、それはもう上田の耳には届かなかった。
 ──バサリ…と、机に突っ伏した。
「何やってるんですか?上田さん…おーい?」
 何事かと近付き、上田の頭を軽く小突いてみて、奈緒子は初めて気が付いた。
「え?上田…熱いぞ?!」

 目が覚めた時、上田は自分の住むマンションの、寝室のベッドの上にいた。
「何だ?」
 自分がどうしてここにいるか把握できずに起き上がろうとしたが、今までに感じた事の無いような悪寒と眩暈により、ふらりとベッドに頭を戻した。
「何なんだ?」
 それなのに意識ははっきりとしていて、どうにも気持ちが悪い。ぼんやり思いを巡らせていると、部屋の外でかすかな物音がする。
 ──カチャリ。ドアが開いて、薄暗い寝室に誰かが入ってくる。リビングの明かりが逆光となって、顔がよく見えない。
「あれ、気付いたんですか?」
 近付いてきて、声をかけられてそれが誰だか分かった。そもそもこの家に上がりこむような人物など、一人ぐらいしか思い当たらない。
「山田…?どうしてうちにいるんだ?」
 そう訊ねると、奈緒子は不思議そうに首をかしげた。
「病人の看護をしてるんですよ」
「病人?誰が病人なんだ?」
「上田さんに決まってるじゃないですか」
 訝しそうに顔を歪める上田の額に、奈緒子は冷たい濡れタオルを押し付けた。
「俺が病人?」
「熱、38度8分ありますよ。重病人じゃないですか」
「そんなに高い熱なのか?」
 自分が信じられないというように上田は何度も目をしばたいた。
「大学の研究室で、上田さん、倒れたんですよ」
 奈緒子が研究室に顔を見せたところまでは覚えている…ような気がした。
「そう…なのか?」
「そうですよ」
 ふと、向こうの部屋からいい匂いが漂ってきた。
「あ、今おかゆ作ってるんですよ。待っててくださいね、もうすぐ出来ると思うんで」
 まるで夫婦みたいな会話だな…と、上田は少し赤面しながら頷いた。
「あれ?なんか顔赤いですよ」
「熱のせいだろ…」
「ふーん、そうですか。なんか全然大丈夫そうですけど、どっか痛かったり苦しかったりしませんか?」
 意識はしっかりしているのに、どこか朦朧としていた上田は、何となく素直な気持ちになっていた。
「胸だな…胸が痛くて苦しい」
「胸?あぁ、高い熱出した時って、あちこちヒリヒリしたりしますもんね。さすりましょうか?」
「なんだ、YOU…いつになく優しいじゃないか」
 なんだか嬉しくなって、奈緒子の顔を見つけた。
「いくらなんでも、病人には優しくなりますよ、誰だって」
 可笑しそうに笑う奈緒子の腕を、半ば無意識的に掴んだ。
「なんですか?腕掴まれたら、さすれませんよ?」
 黙ってその身を引き寄せよると、小さな奈緒子は上田の胸に覆い被さるような体勢になった。
「う、上田さん?」
 奈緒子は慌てて起き上がろうとしたが、背中には上田の腕がしっかりとあって、それが出来ない。
「YOUがここにいてくれるなら、胸の痛みも苦しみも、和らぐんだ」
「え?ここって…いるじゃないですか、ここに」
「ここはこの部屋とかじゃなくて…」
 その次の言葉を待っていたが、なかなか続きが聞こえてこない。
「上田?」
 そっと顔を向けると、上田は目を閉じて寝息を立てている。規則的に動く胸の上で、奈緒子はしばらくじっとしていた。
「ここは、どこですか?」
 小さく呟く。
「山田ぁー、センセーの具合どうや?」
 リビングから関西弁が聞こえ、奈緒子はそっと上田から離れた。矢部が少し開いたドアの隙間から顔を覗き込ませる。
「さっきちょっと起きたんですけど、また眠っちゃいました」
「そぉか?矢部ちゃん特製スペシャル・おかゆ・病人用が出来上がったとこなんやけどなぁ…」
「美味しいのか?それ…」
「あたりまえやないか」
「あはは…でも、矢部さんがたまたま来てくれて助かりましたよ。私一人じゃ重くて運べませんでしたし」
「まぁえーわ、じゃ、オレはまだ仕事あんねんから、しっかり看病せぇよ」
「はい。おかゆまで作ってもらっちゃって…ありがとうございました」
「お前が食うなよ」
「えへへへ」

 矢部が帰った後、奈緒子は一人、しばらくリビングで、そこに置かれている筋力マシーンをいじった。
「これで体鍛えてるくせに、あんな熱出しちゃって…」
 小さく呟いた後に、奈緒子は上田の寝ている寝室に戻った。上田は静かに眠っている。
「上田さん、大丈夫ですか?」
「ん、お?おぉ…」
 耳元で小さく囁くように声をかけると、寝ぼけた声で上田は目をうっすらと開けた。
「まだ胸、痛みます?」
「ん、あぁ…」
 まだ寝ぼけている。
「う・え・だ?」
「ん…」
 さっきと同じように、上田は奈緒子の腕を掴んで引っ張った。
「わっ、また…」
「YOU…面倒かけてすまんな」
「寝ぼけてるんですか?上田さんがそんな事言うなんて…」
「俺が、YOUを守りたいのに…」
「え?」
「守りたくて鍛えてるのに…」
 上田は、奈緒子を強く抱きしめながら、ぼんやりとした意識のまま、うわ言のように呟いた。






 前までは、本当に、ただの日課だったんだ。
 でも、お前に出会ったあの日から、体を鍛える事の意味は変わった。
 俺のこの手で、あらゆるものからお前を守る為に…







どうでしょう…ちょっと甘めなんじゃない?
あえておかゆを矢部に作らせるところがポイントですね。
だってほら、奈緒子一人じゃ上田を運ぶなんて不可能でしょう(ナニサマ?)

2004年1月30日完成




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