硝子一枚、隔てているだけ…





 「 メガネ 」





 室内に入った途端、視界が真っ白になった。
「ちっ…」
 小さく舌打ちをして眼鏡を外し、白く曇ったレンズに目を遣った。外は寒かったから、暖房の効いた室内に移動すればレンズが曇るのは当然の事だ。
「白いサングラスみたいですね」
「余計な御世話だ」
 後ろからついてきていた奈緒子に言われ、なぜかムカッとする。
「けなしてる訳じゃないんですけど…」
「おぉ、それもそうか…」
 ひとまずは奈緒子をソファに座るよう促し、上田は寝室に向かった。
 今日は奈緒子との賭けに負け、夕食を奢る事になってしまったのだが、財布の中身が足りないという事で一度マンションに帰ってきたのだった。
「上田さーん、早く行きましょうよ〜」
 ベッド脇の引出しから封筒を取り出し、中から数枚の札を抜き取った。
「ついでに着替えるから少し待て」
 大学で実験をしたせいで、服が少し薬品くさい。息をついてからベストを脱いだ。
「え〜…腹減ったぞ〜、めーし、めーし!」
「五月蝿いな、少し待てと言っただろうが」
「待ーてーなーいー!」
 急かす奈緒子に苛々しながら、とりあえず上だけ着替えを済まし、寝室を後にした。
「おい、何してる…」
 リビングに戻るとすぐに奈緒子に声をかけた。
「あ、頂いてます」
 奈緒子はいつの間にか、冷蔵庫から勝手に牛乳を取り出してそのままラッパ飲みしていたようだ。
「勝手に飲むなよ、行くぞ」
「いいじゃないですか、ちょっとくらい…」
「ちょっとじゃないだろっ、YOU…飲み干してるじゃないか!」
 持っていた牛乳パックを奪い取り、中身を確認して怒鳴りつける。空っぽだ。
「まぁまぁ、行きましょう!」
 その場を流そうとしている奈緒子の態度があまりにあからさまで、これ以上怒鳴りつける気にはならない。上田は小さく息をついて、牛乳パックをゴミ箱に放り投げた。

 ──ガコッ…と、凄い音がした。その音に気付いて振り返った奈緒子の目に映ったのは、なんとも不思議な光景だった。
「上田…さん、大丈夫ですか?」
 おずおずと聞いてみる。上田は丁度壁の角のところにいて、どうやら顔をしこたまぶつけたようだった。
「いてぇ…」
「凄い音しましたね…鴨居にぶつけるのはしょっちゅうですけど、壁にぶつかるのは初めてじゃないですか?」
 顔をさする上田を見つめながら、ふと首をかしげた。黒髪がゆらりと静かに揺れる。
「上田さん、眼鏡どうしたんです?」
「ん?」
 言われて上田ははっとしたようだ。おたおたとズボンのポケットやらを探り出す。
「おかしいな、どこだ?」
「私に聞かれても…」
「ちょっと寝室を探してくる」
 慌てて寝室へと戻る上田を見ながら、奈緒子は小さな溜息をついた。
「なんで無くすんだ?」
 ボソリ、小さく呟く。上田が戻ってくるまでする事もないので、部屋の中をキョロキョロと手持ち無沙汰に見渡した。しょっちゅう…とまではいかないが、何度か訪れた事はあるので、目新しい発見もなく大して面白くはない。
 寝室の方からは何かひっくり返す音が聞こえる。この短時間で、そこまでおかしなところに眼鏡が移動する事はありえないと思えないのだろうか…今度は大きくな溜息をついて、奈緒子は場を移動する事にした。
 そして見つける…
「あるじゃん…」
 玄関から続く廊下を抜け、リビングに入るとすぐ脇にある棚の上に、それはちょこんと置かれていた。
 フッと寝室の方に目を向ける。まだバタバタと色々ひっくり返しているようだ…何となくその眼鏡を手にとってみた。
「眼鏡…」
 外から帰ってきて少し時間が経っているのにも関らず、フレームは少しひんやりしている。ちょっと興味が湧いて、奈緒子はそれをかけてみた。

「ない…どこだ?」
 上田はその頃、布団やらをめくり着替えたベストを漁り、帰ってきてからさわっていないチェストやらも漁ってみたが、一向に見付からず首をかしげた。
「仕方ないな、予備の眼鏡を使うか…」
 フゥ…と大きな溜息をついてリビングに戻った上田、奈緒子がこちらに背を向けて立っている。
「おい、YOU…?」
 声をかけると、こちらに振り向こうとして、ふらりとよろけた。
「ゆっ…まだっ?!」
 慌てて支えると、どうしてよろけたのか分かった。
「あ、すいません」
 自分の腕の中で奈緒子が笑みを向ける。その顔には、サイズの合わない眼鏡…
「何でYOUが俺の眼鏡をかけてるんだ?」
 よっ…と言いながら奈緒子は自分の足できちんと立ち、上田の腕から逃れ、眼鏡を外した。
「その棚の上にあったんですよ、どうぞ」
「あ、あぁ、すまん…」
 受け取り、自分の顔にかける。さっき奈緒子がかけているのを見た時は随分でかく見えたが、単に奈緒子の顔が小さいだけだった。
 自分の顔にぴったりフィットしている。
「さ、眼鏡も見付かった事だし、早く行きましょう。お腹ペコペコです」
「ん、そうだな」
 なぜか先陣を切る奈緒子の後に付きながら、上田はふと首をかしげた。
「YOUが仕切るなよ」
 えへへへと笑う奈緒子を軽く小突き、上田は前を歩き出した。
「上田さんの眼鏡って、結構きついですね」
 部屋を出たところで、奈緒子がボソリと呟いた。
「そりゃぁな、YOUは視力いいのか?」
「ええ、そこそこに」
「貧乏な奴って目が良いよな」
「関係ないだろっ」
 ブスッとする奈緒子を気にもとめずに上田は続けた。
「YOUはあれだろ?取り得といったら手先の器用さと視力の良さくらいだろ?」
 ククッと声を立てながら笑っていたが、奈緒子に背中を無言でバシッと叩かれて、笑うのをやめた。
 結構痛かったようだ。
「ねぇ上田さん、どこ行くんですか?」
 車に乗り込むと、当然のように助手席に乗り込んだ奈緒子が口を開いた。
「ラーメン屋」
「え゛えっ?!ラーメン…ですか?」
「十分だろ」
「私、今日は焼肉の気分なんですが…」
「それはいつもだろ、俺はラーメンの気分なんだ。奢ってもらう立場のクセにがめつい奴だな…」
「それは昔からですから」
「開き直るなよっ」
 えへへへ、といつものように笑う奈緒子をチラリと横目で見遣り、マンションから少し離れたラーメン屋の駐車場に車を停めた。

 車から降りると、すぐにスープのいい匂いが奈緒子の鼻をくすぐった。
「うわぁ、いい匂い…」
 外は寒くて早く店内に入りたかったが、そこそこ有名な店らしく、5人ほど並んでいる。
「5人か…10分くらい待たないと駄目だな」
 車の鍵を閉めて歩いてきた上田が、奈緒子の後ろで小さく呟いた。
「えぇっ、10分も待たないといけないんですか?」
「ここのラーメン、美味いって大学でも有名なんだよ」
「ま、いいですけど…チャーシュー大盛頼んじゃおうっと」
 軽快な足取りで列の最後尾に並ぶが、寒さに肩をすくめた。
「寒いな…俺は味噌にするかな、体が温まる」
 10分後、上田の読みどおり事が運び、席へと案内された。一層濃くなるスープの匂いに奈緒子は思わず喉を鳴らした。
「いらっしゃいませ、ご注文は?」
「塩のチャーシューにライスの大盛下さい。あと餃子も一皿」
「おい、ライスと餃子は聞いてないぞ」
「いいじゃないですか、けちけちすんな」
「ったく…あ、あと味噌とライスの大盛、二皿」
 若い男女にしては妙な注文で、店員は首をかしげながら厨房へと戻った。そして数分後、注文の品が運ばれてくる。
「らっあめん、らっあめん♪美味しそう…」
「文句言ってたくせに…ゲンキンな奴だな」
「いいじゃないですか、いただきまーす」
「いただき…」
 文句を言いながらも箸を割ってラーメン丼を覗き込み、上田がふと黙り込んだ。
「上田?…っく、ぷくく」
 不思議そうに顔を上げた奈緒子は、慌てて自分の口元を押さえて笑いを堪えた。だが耐え切れず、クックと声を立てながら笑ってしまった。
「上田さん、馬鹿ですね。湯気で曇るの当たり前じゃないですか」
 最初から外しておけば良かったのにと続けながら、笑いつづける。
「うるせぇ、ちょっと間違えただけだ!」
 不機嫌そうに真っ白に曇った眼鏡をテーブルの隅に置き、改めて箸を手に取る。奈緒子はまだケラケラとおかしそうに笑っているので、ラーメンを食べる前に睨みつけた。
「上田さん」
 フッと、奈緒子は突然顔を近づけた。髪の毛が丼に入らないよう手でよけながら、額がくっつきそうなほど近付く。
「なっ…」
 上田の顔が赤くなったような気がした。

 思いがけない奈緒子の行動に、上田はすっかりたじろいで、握っていた割り箸が床に落ちた。
「ゆ、YOU?」
 眼鏡をかけていないせいか、湯気のせいか分からない。いつもより奈緒子の顔が優しげに見える。
「上田さん…眼鏡かけてないと普通の人に見えますね」
「は…?」
 何を言われるのかとドキドキしていただけに、気が抜ける。元の位置に戻った奈緒子は、何も無かったかのようにラーメンを啜り始めた。
 妙な汗をかいてしまったのは暖房と熱いラーメンのせいにして、食べようとしたその時。
「あ、れ…?」
 味噌ラーメンだ。チャーシューが二枚あったはずが…ない。
「味噌味のチャーシュー、美味しかったです」
 と、にっこり微笑む奈緒子。






あぁ、いいさ、俺は気にしないよ。
君が微笑んでくれるなら、チャーシューの一枚や二枚。
眼鏡無しで見る君の笑顔も、たまにはいいね。
すごく、綺麗だ。
そう思う事にしてやろうじゃないか。







阿呆だ。
眼鏡…なんて難しいんだ!世のウエヤマ書きさんが既に書き尽くしてるネタで書けなんて…
むごい…恥ずかしっ!!(笑)
ちなみにラーメンは醤油派です。白味噌も好き…(By THE好きやねん・笑)

2004年4月22日 完成




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送