忘れた方がいいですか?
「 記憶喪失 」
「忘れてくれ、この事は…」
上田は顔を逸らして、小さく呟いた。奈緒子は目を大きく見開いて、そんな上田を見ていた。
「忘れてくれって、言われても…」
奈緒子の肩を、上田はその大きな手で掴んでいた。少し痛いくらいだ。
「…頼む」
上田にしては珍しい発言。
「でも…」
「じゃぁ、な」
「あ、上田さ…」
奈緒子が何かを言う隙も与えずに、踵を返して歩き出す。大きな背中なのに、なぜかどこか、小さく見える。
「上田さん…」
掴まれていた肩が、熱い。そして、唇も熱い。
三時間ほど前の事だった。夜、居酒屋のバイトを終えて帰ろうとしていた奈緒子の前を、見覚えのある男が横切っていった。
「あ…」
向こうはコチラに気付いておらず、腕の時計に目を遣りながら足早に歩いていた。出来れば関わり合いになりたくない…声をかけなければ向こうは気付かない。
奈緒子はそう判断し、スタスタと家路を急いだ。
───ドン。
「にゃっ」
「どこ見て歩いとんじゃぼけぇっ!!」
余所見をしていたせいで、すれ違った拍子に誰かの肩にぶつかった。しかもなにやら、聞き覚えのある声。
「矢部さんっ?!」
「あっ!クソ手品師!」
その一言にまずムカッと来た。
「一言余計だ馬鹿ヅラ!」
「お前の方こそ一言多いんじゃ!」
ペチッ、と、額を叩かれる。毎度毎度、顔を合わせれば繰り返される遣り取り。
「YOU?」
後ろで声がした。しまった…と、後悔する。声を荒げた所為で、とっくに歩き去った上田に気付かれてしまったのだ。
「あらっ、こりゃ上田センセェ〜、どぉも」
猫なで声の矢部を軽く睨みつけるが、妙な髪形の彼の関心はすぐに上田に移っていて意味を成さないようだった。
「矢部さん…意外な組み合わせですね」
上田がどこが不機嫌そうに、奈緒子と矢部を見比べながら言う。
「コレとは今ここで会うたんですよ、ぶつかってきよりましてね…余所見して歩くなや」
「コレとか言うな、失礼な…」
「ああ、そうでしたか。それもそうか…そうだ、矢部さん、良かったら一杯どうですか?」
上田は矢部を誘って、奈緒子には気にも留めずに歩き出してしまった。
「YOUはまっすぐ家に帰れよ、夜道に気を付けてな。一応女なんだから」
それだけ言って。
「…結構冷たいんだ」
ポツリと小さく呟いて、家路を急ぐ。余計な事に巻き込まれずに済んだ…そう思う反面、何だかさらっと流されて、少し寂しい気がした。
そうして三時間後、池田荘の奈緒子の部屋の戸を、誰かがドンドンと乱暴に叩いた。ジャージにTシャツでまどろんでいた時の事だ。
「んぁ?」
大家さん?とも思ったが、時間も時間だし、まずありえない。
「うぉ〜ぃ、ゆぅ〜う〜?」
きゅ、と、奈緒子の眉間に皺が寄った。小さく息をつきながら、戸を開ける。
「お、いるんじゃないか」
上田…だ。どうやら一杯どころじゃなく、この三時間でめいっぱい飲んだらしい。頬を赤らめて、グラッと奈緒子にもたれてきた。
「うぁっ?!重っ…」
「ゆぅ〜…」
酔っている、珍しく。一体どれだけ飲めば、こんな風に周りが見えなくなるまで酔えるのだろうか…そう思いながら、全体重をかけてもたれてくる上田の身体を床に転がした。
「何なんですか、ったく」
「うん?あぁ…ほら」
ごろんと横たわったままで、上田は着ているベストの懐に手を突っ込んで、箱を奈緒子に渡して寄越した。どうやら寿司らしい。
「は?」
「寿司…土産」
「お前は酔っ払い親父か…まぁ、ありがたく頂いておきますけど」
今日は、上田が変だ…酔っている所為だろうかと首をかしげながら、渡された箱を流しに置いた。それから次は、頭をかしげる。
「…上田、早く帰れよ」
「ん〜、あぁ…」
玄関のところで、もはや泥酔一歩手前。奈緒子の言葉も耳に届いていないように見える。
「ほら、立って…歩けますか?」
「ん、おう」
無理矢理立たせてみるが、ふらついている。
「ちゃんとしてくださいよ、もう…」
その、一瞬。奈緒子の腕に支えられて辛うじて立っているという風だった上田が、唐突にその腕を払って、奈緒子の肩を掴んだ。
「え?」
グイッと、引き寄せられる。
「んっ?!」
唇が、唇に押し当てられた。
「んなっ、何す…」
「うぁ〜…」
顔を離した上田は、ニコニコと笑っていた…が、混乱する奈緒子をよそに、その表情はだんだんと強張っていく。
「う、上田?」
「お…おおぅっ、俺は今、何を」
自分の唇に指を押し当て、奈緒子の肩をつかんだまま。
「上田、さん?」
「わ、忘れてくれっ!」
そして冒頭の発言と言うわけだ。されたのは私の方なのにと、奈緒子は呆然と立ちすくんだまま、階段を下りて歩いていく上田の背中を見送る事しかできなかった。
「な…何なんだ今の」
キスされた…お酒の匂いが、した。
「性質の悪い、酔っ払い…」
掴まれていた肩と、唇が熱い。胸がドキドキする。
上田さん、上田さん、ねぇ…さっきのは何なんですか?
酔ったはずみの、マチガイですか?
だから忘れてくれって言うんですか?
…忘れられるわけ、無いじゃないですか。
あぁ、忘れられるものなら忘れたい。
初めてのキスが酔いの勢いを借りたものだなんて。
最低。
「上田さんの馬鹿…」
ぱたりと、ドアが閉められる。赤く染まった奈緒子の頬を、涙が一筋。
忘れていいんですか?
忘れた方がいいんですか?
忘れないと駄目ですか?
覚えてちゃ、駄目ですか?
じゃぁ、私の頭を強く殴ってください。
あなたのその手で、全部忘れさせてください。
うー、あー、うー…
ごめんなさい。
とりあえずごめんなさいっ!(汗)
2005年3月23日
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