[ さよなら、また逢う日まで ]
何が起きたのか、理解できなかった。 「上田…さん?」 いつもと同じように、用もなく訪れた大学の研究室で、黒い革張りのソファに仰向けに倒れこんだ上田の姿を見つけた。 さも、疲れたから一休みとでも言うように、テーブルの上には外された眼鏡。 「上田、寝てるのか?」 静かな室内に、奈緒子の息遣いだけが聞こえる。 「うえ…だ?」 そっと、触れてみる。 「…っ?!」 体中の毛穴が開くような、寒気を感じて震える。触れた肌は、まるで無機質なゴムみたいだった。 「大丈夫か?お前、ちょっと座っとった方がえーで」 声をかけられて、はっとする。心配そうに顔を覗きこむ、見慣れた顔がそこにあった。 「え?あ…はい」 どうやって連絡をしたのか奈緒子は覚えていなかったが、矢部が研究室にいる。そしてこわばった表情のままで、奈緒子を部屋の隅にあるパイプ椅子に座らせた。 それからソファの方に移動すると、奈緒子がしたのと同じように、そっと横たわる上田に触れた。首筋に指を当てているのが見える。 「息、しとらんな。脈も無い…」 ぼそりと呟く声が耳に届く。ちらりと、矢部は奈緒子の方に目を向けた。 「山田、大丈夫…か?」 「え?あぁ、はい」 無気力に答える奈緒子をじっと見つめ、矢部は、泣き出しそうな顔で口を開いた。 「とりあえず、まだ何とかなるかも分からんから、病院に連絡するで?」 「はい、お願いします」 奈緒子より、なぜか矢部の方が、ずっとずっと辛そうに見えた。 「救急車、やな」 小さく呟いて、矢部は部屋に備え付けられた電話に手を伸ばし、プッシュボタンを押した。そして、20分後、救急車が大学に来た。 「山田、お前、一緒に乗ってくやろ?」 当然の権利だとでも言うように、矢部が奈緒子の手をひいて救急車の方へと向ったが、その手を無言で振り払う。 「山田?」 不思議そうに、そして悲しそうに歪んだ顔のまま、奈緒子を見遣る。 「私、帰ります」 「は?」 「帰り、ます」 踵を返し、矢部に背を向けて、歩き出す。 「山田!帰るてお前、上田センセーの事は…」 心配やないんか?と続けて、奈緒子の腕を再び掴む。無理やり振り返させられて、奈緒子は矢部と向かい合う形になった。 何もない表情。 何も感じとれない表情。 何も、思っていない表情。 「やま…だ?」 矢部の表情が、固まる。 「手、痛いんで、離してください」 言われて、矢部ははっと手を離す。強く掴んでしまったようで、奈緒子の白い手首に、赤い痕。 泣き喚いてくれる方が、ずっと楽だ。 矢部は病院へと向う救急車の中で、命の抜けた空っぽの上田を眺めながらぼんやりと思った。 「何かあったら、連絡してください」 そういって、大学を後にした奈緒子の足取りは、妙にしっかりしていて、逆に不安だった。けれど、後を追う事も出来ず。 「ご家族の方への連絡はお済みですか?」 「あ、まだです、すぐ…」 病院に到着し、白い壁の病室の、パイプベッドの上に横たわる木偶のような上田。矢部の隣では、医師が死亡を告げた。 「何とか、ならんですかね?」 上田の家族へ連絡を終えた後、矢部は医師に小さく聞いた。 「何とか、と言うと?」 「上田センセー…本当に、死んでしもうたんですか?仮死状態とか、そういうんとなしに?」 医師は、静かに首を横に振り、目を細めた。 「残念ですが、もう…」 死因は、急性心不全。ある日突然、心臓が止まってしまうのだ。止まってしまってからじゃ、為す術はもうない。 矢部は医師に一礼し、そっと病室を離れた。院内の公衆電話に、手をかける。 電話が鳴る。何度も、何度も。うるさいくらい、部屋に響く。 「うるさい…」 ボソリと、呟く。 奈緒子は、池田荘の自分の部屋にいた。大学から歩いて帰ってきてから、ずっと壁によしかかったまま、座り込んで、ぼんやりとどこかを見ていた。 「うるさ…い」 鳴り響く電話機を一瞥し、手元に転がっていたゾンビボールを投げつけた。 ──ガシャン…と、受話器が外れて音がやむ。コロコロと、転がってゆくゾンビボールを見たまま、奈緒子はその場に倒れこむように横になった。 戻ってきた静寂の中、窓の方に目を向ける。窓からは、空しか見えない。腹立だしいくらいに、澄んだ青空。 「息を、していない」 小さく呟いて、そっと自分の唇に手を当てる。自分の息が、指に吹きかかる。 「動かない」 横たわったまま、目を閉じる。 「苦しかった?」 誰に言うでもなく、口にする。その度に、心の奥が凍りついていくような感覚に襲われる。 ──ググゥ… 静かな室内で、奈緒子の腹の虫が鳴った。そういえば今日は、朝にパンの耳を少し食べただけだったと思い出す。お昼は、上田にたかりに行ったが、結局それは無理だった… 「お腹…空いた」 横たわったまま、目を開く。瞼が重くて、何だかだるい。 ──グゥゥ… またも鳴る。フラリ、とおもむろに起き、立ち上がると奈緒子はフラフラと流しに向って歩いた。そして、しゃがみ込んで冷凍庫を開けてみる。 「あれ…?あぁ、そうか」 パンの耳は、朝に食べたのが最後だった。冷凍庫は空っぽだ。 「なんか、あったっけ…?」 小さく呟きながら、冷凍庫を閉めて下の冷蔵庫を開ける。 「あ…」 がらがらの、冷蔵庫。中身の尽きかけた調味料のビン、得体の知れない黒い物。それらから少し離れた片隅に、ぽつんと置かれた、梨一つ。 「これ、まだあったんだ…」 手を伸ばし、冷蔵庫から梨を取り出して見つめた。ひんやりと、冷たい感触がなんだか気持ちいい。 「上田さんのくれた、梨」 ほんの少し嬉しそうに、ほんの少し切なそうに、そっと唇を寄せる。 「YOU、梨は好きか?」 一週間ほど前、部屋に入ってくるなりそう言って、上田は奈緒子の目の前に、白いビニール袋を掲げて見せた。 「は?なんですか、突然…あっ!それもしかして、梨なんですか?」 ひったくるように上田の手からビニール袋を奪い、奈緒子はその中身を覗き込んだ。そこにはピカピカの、綺麗な薄いネープルスイエローの、大きな梨が十個。 「うわぁ…宝石みたい!」 目をキラキラと輝かせ、嬉しそうに梨を見つめる奈緒子を見て、上田も嬉しそうに笑った。 「大学の生徒がくれたんだ、実家で作ってるモノらしい」 「いただきまーす」 おもむろに中身を取り出してかじりつこうとする奈緒子の手から、上田は素早くそれを奪い取った。 「んがっ?!おい!くれるんじゃないのか?」 上田は目を丸くしたまま、むくれた奈緒子を見つめていた。 「YOU…林檎じゃないんだぞ?」 「は?」 「梨は普通、皮を向いて食べるだろうが」 きょとんとして、奈緒子は上田と、上田の手の中の梨を交互に見遣った。 「そうなんですか?」 「そんな事も知らんのか、YOUは…」 今剥いてやるからと続けて、上田は流しに向った。 「皮…剥こ」 そのままかじりつこうとしたが、一週間前の上田の言葉を思い出し、奈緒子は棚を開けて小さな果物ナイフを手にとった。 「ふふ…」 一週間前の事に思いを馳せて、つい笑みがこぼれるが、その目は笑ってはいない。 「甘くて、美味しかった…」 クルクルと器用に梨を回し、刃を滑らせていく。実から溢れる露が、指先を伝い、腕を流れ落ちる。 「あっ…」 ──ゴトン…奈緒子の手から、皮の剥かれた梨が零れ落ちた。そして指先には、赤い血が、粒となる。 「っつ…」 露に滑って、切ってしまったのだ。痛みに顔をしかめ、奈緒子はぱくんと指を咥えた。梨の蜜の甘い味と、血の鉄の味とが交わる。 足元に転がる梨をぼんやりと見つめたまま、指先を咥えつづける。血の味が、口の中に広がる。何だか不思議な感じだ。 痛い、痛い、何でちょこっと切れただけなのに、こんなに痛いんだろう?誰か、ねぇ教えてよ。どうして人は、痛みを感じるの?こんなに大袈裟なまでに、切れた指先じゃなくて、心が痛いの?ねぇなんで? 「痛…い」 虚ろな眼差しで、指を口から出す。そして親指で、傷口をグッと押してみる。プクッと、血が丸く吹き出てきた。 血の赤い色は綺麗。でも、怖い。 血は、死の象徴のような気がする。赤い、赤い、その色を見ると、怖くなる。まるで、誰かが死んでしまうような、錯覚に陥る。上田さんは、どこも怪我していなかったのに。 「うえ…だ?」 そうだ、上田さんは、死んだ。赤い血も流さずに… 「死ん、だ…」 そう、死んだ。死?死って何?死ぬとどうなるの?頭の中にどんどん疑問が増えてくる。脳みそがパンクしそうだ。けれど、考えるのはよそうと思っても勝手にどんどん疑問が増えていく。 死ぬとどうなるの? 死ぬとどこへ行くの? あの世ってあるの? 天国と地獄って本当にあるの? 天国と地獄の間はないの? じゃぁ良い事も悪い事もしていない人はどうするの? 上田さんはどうなるの? どこへ行くの? 「上田さん、馬鹿ですね」 「なっ、何を根拠に?!」 起き上がった上田の右頬には、畳の跡がついていた。 「おばけなんて、いるわけないじゃないですか」 「あ、当たり前だ!俺がそれを信じてるとでも言う気なのか?」 奈緒子は小さく溜息をついて、チラリと横に目を遣る。四角い鉄の箱、TV。 『稲川○二の本当にあった怖い話』 TVの画面左上に出てるテロップを一瞥し、上田に視線を戻す。 「ほんっとうに怖がりなんですね、たかがTV番組で気絶するなんて」 そう言うと、開き直るかの勢いで上田は胸を張り、言った。 「あまりにつまらなすぎて居眠りをしてしまっただけだ、ははは!」 「弱虫」 ぼそりと小さく呟くが、上田はそれを自分の笑い声で掻き消した。 死んだら、どうなるの? ふと、前にあった遣り取りを思い出した。 「死んだらそれで終わりだろう?あの世なんてものは、生きてる人間が作り出した偶像に過ぎないさ」 上田さんは、笑いながら言った。私もそう思う、でも… 「上田さん…」 死んだら、どこへ行くの?同じような問いが、頭の中でぐるぐる回る。 「死んだ…ら、どうなるの?」 声に出してみても、答えはちっとも見えてこない。それもそのはず、だって、私は死んだ事がないのだから… 「じゃぁ…」 死んでみようか?右手で握り締めたままの、小さな果物ナイフの、銀色に光る刃を見つめ、ふと思う。そうだ、そうしよう。それなら考え続けるより、ずっと早く答えは出るし、何より簡単だ。 そっと、手首に刃を押し当て、ゆっくりと力を入れて、引く。 「つっ、う…」 ピッ…と、赤いものが少し飛んだ。痛みに眉を顰め、声を上げた時、右手の力が抜けてナイフは床に、トスンと突き刺さった。 「はぁっ、はぁっ…」 ポタリ、ポタリと、左手首から赤い血が腕を伝い、梨の蜜と同じように、ゆっくりと肘から零れ落ちる。ゆっくりゆっくり、赤い血溜りが広がっていく。 「ふ…ぅっ…」 痛い。でも、大丈夫。怖くはない。だって、私の行き着く先には、上田さんがいるはずだもの… ──ガチャリ。突然、玄関の戸が開く音がして、奈緒子はそちらに目を向けた。 「あ…」 それは、とても早い動きだった。戸を開けて、奈緒子と目が合ったその瞬間に、彼は飛び出しそうな程大きく目を見開らいて、ドタドタと靴を履いたまま部屋の中に駆け込み、手を振った。 ──パシッ…肌を叩く、乾いた音。 「何しとんのやっ!」 同時に、怒鳴る声。頬に走る、痛み。 「いた…」 矢部が、奈緒子の頬を平手で叩いた。その勢いで奈緒子は顔を背ける形になって、髪を揺らした。 「阿呆っ!」 奈緒子に何かを言う間も与えずに、腕を掴み上げ、懐から取り出したくしゃくしゃの、派手な柄のハンカチを手首にきつく縛り上げる。血はもう、流れ落ちてはこない。 痛む。 「電話に出ぇへんから、慌てて様子見に来てみればコレや…なんなんや、ったく…」 赤く滲むハンカチをじっと見つめる奈緒子の、右腕をつかんで矢部は流しから離れ、ちゃぶ台の前に奈緒子を座らせた。 「矢部さ…」 「お前はそこに座っとれ!」 怒ってる…そんな気がして、奈緒子は矢部の顔が見られなかった。矢部はドタドタと流しに戻り、床に零れ落ちた奈緒子の赤い血を、そこにあった雑巾でゴシゴシと拭き始めた。 チラリと見遣ると、背中が目に入った。肩を揺らしながら、ゴシゴシ、ゴシゴシと、力任せに床を拭いている。 「矢部…さん?」 ポタリ、ポタリ。赤くない、透明の雫が床に零れ落ちるのが見えた。 「矢部さん、泣いて、るんですか?」 「うっさい!これはよだれや!」 目からよだれが?と聞こうと思ったが、その肩が、微かに震えている事に気がついて、口をつぐむ。 何で、泣いてるんですか? お前が泣かないから、替わりに泣いてやってるんや。 何で、あなたが私の替わりに、泣いてくれるんですか? それは… 「コレ、食べよぉとしとったんか?」 床に転がったままの、梨を拾い上げて矢部が口を開いた。 「…えぇ、お腹、空いてたんで」 「ほぉか…ちょぉごみついとるな。でもまぁ、洗えば大丈夫やろ」 「はぁ…」 皮は殆ど、奈緒子がさっき剥いたから、矢部は床に刺さったナイフを拾い上げ、何度も何度も、梨と一緒に洗って、それで梨の実に刃を入れた。 少しして、小さなお皿に切った梨と、フォークを添えて奈緒子の前に戻ってきた。 「ほれ」 「…ありがとうございます」 「ちゃんと噛めよ」 「分かってます」 一つを、口に運ぶ。すがすがしい香りに、フッと口元を緩ませて。 ──しゃり…甘い蜜が、口の中に広がって、何だか何もかも、忘れられそうな気がした。 「うまいか?」 矢部が静かに問う。しゃりしゃりと、梨を頬張りながら、奈緒子は黙って頷いた。ズキンと、叩かれた頬と、左手首が痛かった。 何かが零れ落ちる。ぽたり、ぽたり。静かに、零れ落ちる。 「やっと泣いたな」 矢部の言葉が、胸に突き刺さる。 痛い、切った手首が。 痛い、叩かれた頬が。 痛い…大事なモノをなくした、心が。 「ぅっ…」 涙が、零れ落ちる。右手は梨をフォークで突き刺して、左手はテーブルの上で静かに震えて。 「お前、逃げたらあかんで」 分かってる、でも。 「信じられんのはこっちも同じや」 分かってる、けれど。 「オレかて、信じられへんかったし、怖かったんや」 続ける矢部の言葉。 「でも、逃げたらあかん」 奈緒子はコクンと頷いた。涙がぽたり、ぽたりと、ちゃぶ台の上を塗らしていく。 怖かった。怖くて、信じられなかった。だって、上田さんが、死んだなんて… 「ん…?」 気がつくと、薄暗い部屋。奈緒子はちゃぶ台に突っ伏して、眠っていた。 「あ…れ?」 目がしばしばする、泣き過ぎた所為かもしれない。目をこすると、ぱさり、何かが奈緒子の肩から落ちた。濃いグレーの、スーツの上着。 「え…?」 目を凝らし、暗い室内を見渡して見つけた。壁によしかかり、あぐらをかいて両腕を組み、うなだれて、妙な体勢で居眠りしている矢部の姿。 「矢部さん…」 ずず、と壁から少し滑って、それでもなお眠っている。クスっと、小さく奈緒子は笑った。ずっと側にいてくれた矢部に。 「ありがとう…私は、もう大丈夫です」 小さな声で。室内に、奈緒子の声と、矢部の寝息。 「矢部…ずれてるぞ」 小さく続けると、突然ズルッと壁から豪快に滑り、矢部はパッと目を見開いて頭を押さえた。 「はっ?!な…なんや、夢か…」 「どんな夢見てたんですか」 「おぉ、起きたんか」 「えぇ、まぁ。あ、これ…」 答えながら、上着を渡す。 「泣きながら寝よるんやもんなぁ、帰るに帰られへんかったわ」 大きなあくびをしながら、矢部は受け取った上着の袖に腕を通した。 「すみません」 「謝ってどないすんねん。とりあえず、病院行くやろ?」 今度は、こくりと頷いた。 「上田センセーのご家族なぁ、移動手段がないて、こっちに着くんは明日の朝になるんやて」 「あ、そうなんですか」 病院の廊下を歩きながら、矢部は奈緒子に説明する。廊下はとても長く感じた。 「大丈夫か?」 「え?」 ぱた、ぱた、ぱた、ぱた。スリッパのすれる音が、妙に切ない。 「これから上田センセーに会うんやで、心の準備、出来とるか?」 「何言ってるんですか、最初に見つけたの、私ですよ」 「それもそやったな」 心の準備なんて、最初から出来るわけない。だから、怖かったんだ… 「じゃぁ、オレは一旦仕事に戻って、それからまたこっち来よるから…」 病室の前で立ち止まり、矢部は奈緒子に向き合った。 「あ、はい。どうも、ありがとうございます」 奈緒子はペコリを頭を下げて、その戸に手をかける。カラカラと静かに開けて、中へ。それを見届けて矢部はくるりと背を向けた。 一人にするのは不安だったが、多分、二人きりになりたいだろうから、矢部なりに気を利かせたつもりだった。今の奈緒子なら大丈夫だろうと、わかっていたし。 ──から、から、から、から、ぱたん。静かに戸が閉まり、病室には、奈緒子と上田。ゆっくりベッドに近付いて、奈緒子は傍らのパイプ椅子に腰掛けた。 「明日、上田さんの家族が来るまで、ずっと側にいてもいいですか?」 小さく呟いて、横たわる上田にそっと触れた。冷たい、無機質な感触が、まだ少し怖かったけれど、奈緒子は微笑んでいた。 静かに頬を伝う涙は、この別れを受け止めた証。 「ねぇ、上田さん…覚えてますか?私達が、はじめて会った時の事」 クスリと笑みながら、語らうは溢れんばかりの思い出。二人が紡いだ、数々の出来事。奈緒子は一晩中喋りつづけた、声が枯れるまで。 仕事から空けて戻ってきた矢部は、病室の戸を背に、外側で座って奈緒子の話を聞いていた。ずっと、夜が明けるまで。 「傷の具合はどや?」 通夜も告別式も終わり、二週間が過ぎたある日、奈緒子のバイト先に現れた矢部がおもむろに口を開いた。 「もう全然大丈夫ですよ、痕は残るかもしれないって言われましたけど」 奈緒子は元気そうで、包帯の巻かれた左手首を見せつけた。 「そらあんだけ深く切れば、傷も残るやろ」 「私、キズモノになってしまいました…」 「アホか、自業自得や」 「ごもっとも」 青い空を仰いで、奈緒子は息をつく。 「こんな話を知っとるか?」 「え?」 突然、矢部が話し出した。 「輪廻転生…人間は、死んだら生まれ変わって、また生きるそうや」 「あー、らしいですね」 突然何を言い出すのかと思えば…自分を慰めようとしてくれているのだろうかと、奈緒子は笑みながら相槌を打つ。 「そやから、な。上田センセーも、生まれ変わって、この世界のどこかで生きとるかも…しれへんなぁって思たんや」 「そうかもしれませんね」 それなら、嬉しい。もしかしたら、もう一度出会えるかもしれないから。 「あ、でもそれやったら、お前の方が年上やな」 ククッと、おかしそうに喉を鳴らしながら笑う矢部を見て、呆れたように答える。 「すごい年の差ですね」 輪廻、転生。めぐるループは、繰り返す。 「でも、それでももう一度会えるなら、嬉しいです」 続ける奈緒子を見遣り、矢部は白い歯を見せて笑った。オレも嬉しいと言って。 十数年の年月が流れ、奈緒子はマジシャンとしての道を順調に歩んでいた。大小関りなく、舞台に客は集まり、奈緒子のマジシャンを見る為に遠方から足を延ばす人も増えた。 この日、奈緒子は道を歩いていた。うすーい、半透明の青と白の布を何枚も掛け合わせたような空の下を、スカートの裾を揺らしながら。 「あーぁ、上田さんと、同じ年になっちゃった」 ポツリと呟きながら、笑む。この日は、とても穏やかな日で、人と待ち合わせをしていた。あのカドを曲がった喫茶店で、その人は待っている。 上機嫌な様子で鼻歌を口ずさみながら、角を曲がる。 ──どん。 「きゃっ?!」 「わっ?!」 そこで、何かとぶつかった。何かというか、誰かなのだが。 「いたた…」 ぶつかってきたのは、小さな男の子。小学校の高学年くらいだろうが、大人である奈緒子にぶつかって、転んでしまったようだった。 「ごめんね、ボク、大丈夫?」 手を貸そうとしたが、拒まれる。 「大丈夫です、僕の不注意ですから。でも、ボクというのはやめて下さい。一応小六なので」 大人びた口調でずれた眼鏡をなおしながら、男の子は立ち上がってズボンについた砂を几帳面に払った。 「そう?ごめんね」 その仕草が、なんだか誰かに似ていて、思わず笑みがこぼれる。 「あれ?おねえさん、どこかで見た事あるなぁ…誰だっけ?」 「え?」 う〜んと唸りながら、男の子は両腕を組んで首をかしげた。 「あ、そうか。この間、何かのニュースで見たんだ。町の小さな芝居小屋で、手品のショーをしている人だよね」 「あぁ、うん、そうよ。山田奈緒子というの」 「そっか、有名人なんだね」 「ふふ、そうでもないのよ。たまたまニュースで取り上げられただけ」 そうかと何かを納得する男の子は、じっと奈緒子を見つめて、少し顔を赤らめて笑った。 「おねえさん、美人だね。じゃ、手品頑張ってね」 照れたように、手を振って走り出す。 「ありがとう」 奈緒子も手を振って、男の子の背中を見送ってから、歩き出した。 「あの子、上田さんに仕草が似てる」 クスクスと声を漏らしながら、笑う。そうして少し歩いたところで、待ち合わせの喫茶店が目に入った。待ち人が、入口の前でぼんやりと佇んでいるのが見える。その手には、綺麗な花束。 少し急ごうと駆け足で道路に飛び出した時、それは起きた。 回る、めぐる、無限の環。 出会ったのは偶然。 あの別れは必然。 そして、再びめぐる、偶然の出会いにそなえて、運命は進む。 一瞬の出来事だった。待ち人の姿しか目に映らず、道路に飛び出したその一瞬に、奈緒子は何か、運命めいたものを感じた。 「山田!」 待ち人が息せき駆けてくる。気がついた時には、体中に激痛が走って、奈緒子は少し眉をひそめた。何が起きたのか分からないが、いやに体が重い。 ぼんやりとかすむ視界に、待ち人の青褪めた顔が映る。 「山田、大丈夫か?」 「や…べ、さ…」 名を呼ぼうとしたが、なぜか声がかすれる。 「喋らんでえーから、じっとしとりぃ」 心配そうに、奈緒子の手をぎゅっと握り締めて、声をかける。 「矢部さ…ん、お花…は?」 苦しそうにかすれる声を出す奈緒子。彼が先ほどまで大事そうに抱えていた綺麗な花束は、喫茶店の前の道に無造作に投げ捨てられていた。 「そんなんより、お前の方が…」 心配や、と小さく続けて、一層強く手を握り締める。 今日は、何の日だったっけ?体中がぎしぎしと、オイルの切れた機械のような音を出しているような錯覚に襲われる中、奈緒子はぼんやり思う。 「何もこんな日に…」 小さく呟く。その言葉に、思い出す。 あぁ、今日は、上田さんのお墓参りに行くのだった。毎月、月命日には矢部さんと、時には石原さんや、警視総監になって忙しい身の上になった菊池さんと共に訪れていた上田さんのお墓へ。 今月は、丁度大きな舞台の依頼と重なってしまってて、仕方なく日をずらしたのだった。 「…だ、さ」 小さく、かすれる声を絞り出す。 「ん?何や?どないした?」 ぎゅ…と、握る手に力を込めて、矢部が奈緒子の顔を覗きこむ。 「うえ…だ、さ…」 「ん?上田センセーの事か?」 分かる。自分がこれからどうなるのかが、鮮明に。 「矢部さ…わた、し」 「何なん?何が言いたいん?」 切なそうに、苦しそうな矢部とは逆に、奈緒子は微笑んでいる。ざわざわと集まる人並みの向こうから、かすかに救急車のサイレンが聞こえてきた。 「私、うえ、ださんに…」 早く、早く言おう。じゃないと、やかましいサイレンの音にかき消されてしまう。 「うん?」 奈緒子が何を言おうとしているのかは分からなかったが、矢部には、これが奈緒子の最後の言葉になるだろうという予感があった。だからこそ、こみ上げてくる涙を無理やり押しこめて、奈緒子の手を強く強く握り締め耳を口元に近づける。 「あ…う、準備…」 「準備?会う準備?」 奈緒子の言葉を繰り返し、その意図を汲み取ろうと必死に耳を傾ける。けれど、最後の言葉は奈緒子の不安通り、到着した救急車のサイレンにかき消されてしまい、矢部の耳に届く事は無かった。 彼は泣いた。年甲斐もなくと人は言うけれど、その悲しみは図り知る事など出来ないくらいに深いのだと知っている人間もいた。 泣いて、泣いて、その死を受け入れる為にただひたすら泣いて。最後の言葉を耳に残せなかった事を後悔した。 「兄ィ…」 かつての部下も、つられて泣いた。 瞬間は、目に焼き付いている。カドを曲がってきた奈緒子は、ニコニコと嬉しそうに笑っていて、駆けてきたのだ。そこへ、大型のトラックが蛇行しながら走ってきて… 居眠り運転だった。奈緒子の華奢な体は跳ね飛ばされて、地面に打ち付けられて…即死でもおかしくないと思ったのを覚えている。 「花を買ぉてくるよ…」 ふらりと、大きな目を真っ赤に腫らし、矢部は外に出た。太陽の眩しさが、突き刺さるように痛い。 近くの花屋で、黄色い花を束にしてもらい、戻る。黄色い花は、奈緒子に似合うと思ったから。棺の中に入れれば、少しは悲しみも和らぐかもしれないと。 けれど、考えは甘かった。出棺の時、上田の葬儀の時ですら涙ぐむに留めていたのに…自分でも信じられないくらいに泣いた。枯れるほど。 その夜、泣き疲れた矢部は、自宅のマンションに帰る気力もなく、見かねた里見の厚意に甘えて通夜の行われた奈緒子の部屋で休ませて貰う事になった。 そこは、池田荘の、狭い部屋。マジックの仕事が軌道にのって、幾分か稼げるようになったのに、奈緒子はここを出ようとはしなかったのだ。思い出が染み付いているから、忘れたくないと言い張って。 ──からん、ころん、からん、ころん。どこか遠くの方で、下駄のような音が鳴る。 「矢ー部さんっ」 突然、声をかけられて慌てて振向くと、そこには奈緒子が立っていた。淡い色合いの浴衣を着て。 「おまっ…な、何があったんや?!」 驚くのも無理はない。奈緒子のその姿は、十数年前の、若い姿だったから。 「知らないんですか、矢部さん。死んだら、好きな頃の姿になれるんですよ」 「は?あ…そ、か。これは…夢やな?」 ふわふわと、浮遊感。 「ええ、夢です。でも、夢じゃないんですよ」 奈緒子は笑顔のままで、続ける。 「矢部さんに、ちゃんと言いたくて」 「オレに?ちゃんとって…あ!最後の言葉か?サイレンで掻き消されてよぉ聞こえんかったんや…」 気になって仕方がなかったと続けながら、矢部はふと気が付いた。奈緒子の手に、灯篭。中には黄色い花が、仄かな光を発しでいる。 「それ…」 「これ?コレは矢部さんがくれた花ですよ。明かりになるんです」 夢とはいえ、何だか不思議だ。 「明かり…?」 「ええ、これから向うところは、行く時暗いんで」 どこへ行くというのだろう? 「なぁ、お前…」 ぴっ、と矢部の口元に指を当てる。それ以上言うなという合図。口篭もる矢部を余所に、奈緒子は口を開いた。 「私、これから上田さんに会う準備があるんです」 「あ、それ、最後の時にも言うてたな」 「ええ、それで、矢部さんに言いたくて」 「ん?」 突然、ゆらりと灯篭の明かりが揺れたかと思うと、そこは真っ暗闇。 「え?な、何や?」 手首をつかまれて一層慌てる。掴むのは、やけに冷たい手。 「矢部さん、時間がないのでこのまま黙って聞いてください」 「は?」 からん、ころん、からん、ころん。下駄の鳴る音が、辺りに響く。 「矢部さんが、言った通りなんですよ」 「なん…」 「輪廻、転生」 回る、めぐる、無限の環。 「私はこれから、上田さんに会う準備をしてくるんです。上田さんは、もうそっちにいるから」 奈緒子は続ける。 「だから、だから矢部さんに…」 腕を掴んでいた冷たい手が一度離れ、今度は手を、ぎゅっと握った。 「お礼を言いたくて」 ハッと目を覚ますと、窓から差し込む光がやけに眩しかった。 「ゆ…め?」 回る、めぐる、無限の環。 「輪廻転生て…ホンマ、に?」 自分の言った言葉が信じられず、親指の爪を無意識にかじりながら、おもむろに立ち上がる。 「ほなお前…また同じ年の差やないか」 ククッと笑う。心が軽いのは、夢とはいえ最後の言葉を聞けたからかもしれない。遺影の写真の中の、奈緒子の笑顔さえ眩しく見える。 回る、めぐる、無限の環。 出会ったのは偶然。 あの別れは必然。 そして、いつかめぐりくる偶然の再会に、祈りを込めて。 それはきっと、偶然でも運命だから。 「私は、上田さんに会う準備があるんです。だから、最後にお礼が言いたくて」 奈緒子は言う。あの、一番幸せだった頃の姿で。 「ありがとう」 立ち直らせてくれて、励ましてくれて、応援してくれて、ありがとう。 ずっと側にいてくれて、ありがとう。 「今更…何を改まって言うかと思えば」 照れくさそうに、矢部は笑った。そして、祈る。生まれ変わって、この同じ空の下、二人がちゃんと再会できるように。 例えそこに、自分がいなくとも。無限の環の中に、自分が入っていなくとも。 二人はやがて成長し、同じような偶然が幾重にも重なって再会するだろう。それは輪廻転生、定められた運命。 矢部はまだ気付かない。自分も、その環の中にいる事に。 空を見上げる矢部の目は、まだ赤みも腫れも治まっていないけれど、それはとてもすっきりとしていた。見上げた空と同じように… FIN あとがき→ |
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