「 夜空を泳ぐ魚たち 」



 ふわり、ふわふわ。 何だか揺れてる感じ…
「っと、YOU、大丈夫か?」
「え?」
 唐突に夢の世界から引き戻されるような感覚、足はしっかりと床を踏みしめていて、肩をがっちりつかまれている。
 まるで、どこかへ飛んでいってしまわないように。
「あ…なんだ、上田さんか」
 折角、何だか夢見心地で楽しかったのに…と、奈緒子は頬をプクッと膨らませ、拗ねるような表情を浮かべた。
「なんだじゃないだろ、倒れそうになったのを助けてやったのに」
 倒れそう?
「倒れそう?誰が?」
「誰がって…」
 上田は訝しげに奈緒子を見つめ、奈緒子はきょとんとした眼を上田に向けている。
「YOUに決まってるだろ」
 ああ、そうか。
「そうですか。でもご心配には及びませんよ、倒れたりしませんから」
 いともあっけらかんと言ってのける。本気か?と上田は心に思ったが、あえて口には出さない。
「ったく、何強がってるんだよ」
 意地っ張りで強がりで、妙にプライドが高くて…典型的な、一人っ子タイプだな…にやりと言いようのない笑みを浮かべて、上田は奈緒子を椅子に腰掛けさせた。
「強がってなんかないですよ…っと」
「ほら、ったく」
 椅子に腰掛けた途端、奈緒子の目の前は危なげに揺らいだ。クラクラする頭を、上田がそっと支える。
「全然大丈夫そうに見えないぞ、こんなに蒼褪めて…」
 そのまま手を、額に当てる。が、奈緒子はそれを振りほどくように払って、軽く上田をにらみ付けたのだ。
「んもう…そんなに構わないで下さいよ、子供じゃないんですから!」
「子供だなんて思ってないさ、ただ心配してるだけだ」
 優しげに奈緒子の頭をなで、上田は空いている方の手を唐突に上げ、人を呼んだ。奈緒子はただ、悔しそうに俯く。
「お呼びでございましょうか」
 深い青色の制服に、白いパンツの爽やかそうな青年が駆けて来る。
「連れが酔ったみたいなんだ、何か飲み物を持ってきてくれないか?」
 潮騒に身をゆだね、うつらうつら。
「それは御辛いでしょう、オレンジジュースか何か、冷たいものを持ってまいりますね」
 青年は哀れみの含ませた表情で奈緒子を見遣り、すぐに踵を返した…が、その腕を上田が掴む。
「お客様?」
「冷たいものじゃなくて、温かい…お茶にしてもらえるだろうか?体が冷えるのはどうかと思うのだが」
 奈緒子の意見など聞きもせずに、上田はどんどん話を進めていく。そうして数分後、青年が大事そうにトレイにポットとカップを乗せて戻ってくるのを、ぼんやりと眺めているのだった。
「YOU、ほら、紅茶だ。砂糖は幾つ入れる?」
 ザザ…ン、波が鳴る。その音に消え入るように、奈緒子は小さくふたつと呟いた。俯いているため、視界に上田の顔は入らない。見えるのは、慣れた手つきでカップに砂糖を落とす、大きな手。
「上田さん」
 おもむろに、名を呼ぶ。
「ん?」
 本当は、凄く気持ちが悪い。
「レモンも入れてください」
 動いているのか止まっているのか良く分からない、不安定な床の上で、吐き気すらする。
「柑橘類はさっぱりするからな、輪切りで添えてあるからそれを入れよう」
 乗船してから、わずか一時間でこの様だ。正直、自分が疎ましくてならない。
「ほら、持てるか?」
 俯いたままの奈緒子の手を取り、上田はカップを持たせる。
「持てますよ…」
 華奢な指を引っ掛けて、奈緒子はカップを危なげに持ち、そっと口をつける。紅茶の香り、と、レモンの香り。心なしか、胸がすっと楽になる。
「飲んだら客室に行って、少し寝ろよ。夜になればもう少し波も穏やかになるって船長さんが言ってたから…な?」
 耳元で、上田が何か優しく言っている。が、当の奈緒子の耳には、何も聞こえない。今はとりあえず、温かい水分を身体に補給する事だけに集中しているのだ。
 けれど上田が何かを言っているのは辛うじて分かる、顔を向けずに小さく頷いた。

「YOU、大丈夫か?」
 船酔いなんて、初めての体験だ。足が地に付いてない感じがする。
「ゆっくり休めよ」
 ぽん、と頭に手が置かれ、すぐに離れた。
「上田さん」
 その手を、捕まえる。
「ん?どうした?」
 けれど、すぐに離す。
「…なんでもありません、おやすみなさい」
 ふっと、上田は優しげな笑みを浮かべ、「ああ」と小さく答えると、部屋を出て行ってしまった。室内には、奈緒子一人。
 …側にいて欲しかったのに。
「寂しくなんか、ないもん…」
 ベッドの上で、毛布を頭までかぶり、小さく呟く。
 船酔い。
 わずかに揺れる船上。
 人のざわめき。
 潮の、香り…
 寂しくはない、寂しくは。けれど、心細い。

「上田教授」
 甲板で波を眺めて上田に、誰かが後ろから声をかけた。
「あぁ、船長さん」
 振り返ると、どうやら上田の知り合いらしい、初老の男性が一人佇んでいた。
「お連れさん、船酔いだそうで、大丈夫ですか?」
「ええ、ご配慮頂きましたので、今は部屋で横になってますよ」
「こんなボロ船で大したもてなしも出来ないのに、配慮だなんて…」
 どうやらこの、豪華…とまではいかないが、大きな客船でのクルージングに上田と奈緒子を招待した張本人らしい。
「いやぁ、とんでもない」
 上田にしては珍しく、人当たりの良い気を許した笑顔を浮かべ、男性に向って続けた。
「この船の最後に立ち会えるなんて、夢のようですよ」
 初老の船長はその言葉に、嬉しそうに、どこか寂しそうな笑みを浮かべた。上田の言葉通り、この客船は今日、その役目を終えるのだ。そしてまた、この客船の船長を長きに渡り務めてきた男性も、引退するという事らしい。
「上田先生に来て頂けて、光栄ですよ」
 そもそも上田がこの客船の最後に立ち会う為に招待されたのには、訳があった。それはこの船が客船として稼動した記念すべき日に、上田の両親が新婚旅行として乗り込んだから…それが縁というわけだ。
「先ほども申しましたが、夜には波も穏やかになる事でしょう。最後の晩です、どうぞごゆるりとお楽しみください」
「ええ、ありがとうございます」

 ふ…と、目を覚ます。薄暗い室内で、奈緒子は小さく息をついた。
「…おなかすいた、かも」
 さっきより、ずっと気分が楽だ。酔いも治まってきているのだろう。それにともない、それまで気にする余裕もなかった空腹感に、我ながら意地汚い…とニヤリとした笑みを浮かべた。
 嘔吐感も頭痛も感じないので、ホッと息をつきながらゆらりと起き上がり、カーディガンを羽織って部屋を出た。心地良い潮風が頬をくすぐる。
「寝る前に飲んだ酔い止めが効いたかな」
 それでもまだ少し、揺れる足元は危なげだ。ふらふらと歩いてゆくと、扉の前で低い天井が終わる。
「あ」
 扉を開いて、かすかに声を上げた。
 空を覆うは紺碧の、厚い布地のような空。針でつついて作ったような無数の穴からは、こぼれてきそうなほどの、星。
「綺麗…」
 空腹などいざ知らず、しばしその星空に見とれる。
「YOU!」
「え?あぁ、上田さん」
 少し離れたところから、上田が駆けて来る。心配そうな表情を浮かべ。
「起きて大丈夫か?」
「大丈夫ですよ、病人なわけじゃないですから」
「似たようなもんだろ」
 そっと奈緒子の体を支えるために、伸ばされた腕に奈緒子は従った。
「ん?」
「上田さん?」
 腰に手をあてがっているのに、奈緒子はそれを拒まない。それを不思議に思ったのか、上田は眉をしかめた。
「…具合、大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ?って、言ったばかりじゃないですか」
 それでも尚、不安そうに表情をゆがめる。それは、奈緒子が意地っ張りで負けず嫌いで、妙に高いプライドの持ち主だと知っているから。
「そう、か」
「ねぇ、それより上田さん、ほら」
 だが、奈緒子はそんな上田を気にもせず、空を仰ぐ。
「ね?星が綺麗」
「あ、あぁ…あ、そうだ」
 つられて空を仰ぐ上田だったが、何かを思い出してその手を引いた。
「え?何ですか?」
 甲板の先に置かれた、真っ白いテーブルと椅子。
「船長さんが用意してくれたんだ」
 テーブルの上には、サンドイッチやチキンなどの軽食と、ワイン。
「あ、おなか空いてたんですよ、頂きまーす」
 感動に浸る間もなく手を伸ばす。
「座ってからにしろよ」
「いいじゃないですか」
 ぱくりとサンドイッチを口にする。上田はヤレヤレと、呆れながらも椅子を引いて奈緒子を座らせた。グラスにワインもついでやる。
「どうも」
 クックと、上田は唐突に笑い声を漏らした。船酔いでぐったりしているより、サンドイッチをぱくついているその姿にホッとしたからかもしれない。
「何笑ってんですか」
 ぺろりと指についたサワークリームを舐めながら、奈緒子が軽く睨みつける。
「美味いか?」
「ええ、とても」
「そうか…あ、なぁ、食ったらちょっと、海を見て見ろよ」
 唐突に上田は海を指し示す。
「えー、海なんか見てもおなかは膨れません」
「また色気のない事を…いいから、な?」
 しぶしぶ、奈緒子は促されて甲板先の柵に手を置いた。そして息を飲む。
「わ…」
 目に映ったのは、星の海。波のない暗い海に、夜空の星が映っているのだ。まるで零れ落ちてきたかのように。
「綺麗だろ?」
 隣で上田が、低く囁く。
「ええ、ええとても」
 目を大きく見開いたまま、奈緒子は大きく頷いた。目を閉じるのが勿体無いくらいに、幻想的で神秘的な、星の海。
「いい記念になったな」
 グラスを片手に、上田が呟く。何となく、奈緒子はその上田の胸にもたれてみた。
「記念、ですか?」
「ああ、今夜はこの船の最後でもあるが、船も本望だと思わないか?」
「は?」
 そっと奈緒子の身体を自分の方に向けさせて、上田は続ける。
「こんな美しい海で、こんな幸せそうなカップルを乗せてるんだから」
 恥ずかしげもなく言ってのける上田に唖然としながら、寄せてくる唇を受け止める。お互いの唇のぬくもりと感触を味わうように、軽く合わせ重ねる。
 唇が離れた後、奈緒子は今度は額を上田の胸の辺りに寄せた。
「キザですよ、上田さん」
 少し微笑んで。だが上田は少し眉を顰めている。
「上田さん?」
 額を離し、見上げると、その目は奈緒子を捕らえていた。
「…ピクルスの味がする」
 ポツリ呟く。
「ああ、さっきのサンドイッチに入ってました」
「…ピクルス嫌いなんだよ」
「キスしてきたのは上田さんの方ですよ、我慢してください」
 そう言うと、上田は小さく舌打ちし、再度唇を寄せてきた。

 満天の星の下、星の映る海の上。客船は、その役目を静かに終える。
「覚えておきますよ、記念として」
 一組の恋人同士の胸に、神秘的な星空を刻み込んで。
 愛を確かめ合う二人を、離れた操舵室から見つめ、船長は満足そうに、少し寂しそうに微笑んだ。



 FIN


あんまり思い通りに書けなかった…
一応、ウエヤマで、ほの甘?
やっぱリクものって書けないタイプなのね、私って(苦笑)

2004年9月26日


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