「 茜の空に 」



 ふっと、見上げた空を手で仰いで、彼女は小さく息をついた。



 今尚、夢かと見紛う程に、空は赤く燃えている。
「まっかぁ…」
 ポツリ、ささやく。
 美しいといえば、美しい。
 けれど都会の空は、慣れれば慣れるほど怖い気がする。

 何故かと問われても、答えられるようなものでもないが。

「なーんか…」
 指の隙間から、嫌でも目に映る赤い赤い空。眺めたままで呟くが、続きの言葉が出てこない。
 息苦しいような、物悲しいような。
 どうしてこんな、表現し辛い感情が胸に沸くのかとふと思う。
「YOUか?」
「え?」
 不意に、耳に馴染みのある低い声。思わず振り返ると、見慣れた顔。
「やっぱり、YOUか。どうした、こんなところで」
 不思議そうな表情だったのが、彼女を確認した途端やわらかく緩む。微笑を浮かべ、駆け寄るように近づく。
「空を見てるだけですよ…そっちこそ、こんなとこふらついて、どうかしたんですか?」
 声をかけてきた彼の、行動範囲ではないはずだと瞬時に思う。
「俺か?俺は…散歩みたいなもんだ、生徒の論文を読んでいたんだが、少し疲れてな」
 ずれてもいない眼鏡の位置を、直すようなそぶりを見せてからはにかむ彼を見て、とうとう彼女も微笑んだ。
 僅かだが呆れてもいるような、それでいて穏やかな微笑み。
「そうですか」
「ああ…YOUは?」
「私?」
「ああ、質問したのは俺の方が先だろう?俺は答えたんだから、YOUが答えるのは当然だ」
「またそういうわけのわからない理論を…私は、買い物の帰りですよ。見たらわかりません?」
 くすくすと、からかうような口ぶりでスーパーの袋を掲げて見せる。
「おお、重そうだな、持ってやる」
「どうも…あ、重いですから気をつけ」
「おおぅっ、重てぇっ?!な、何を買ったんだよっ」
 彼女の手から袋を奪うように抱えた途端、掴んだ方の肩がカクンと落ちた。
「わぁっ、卵も入ってるんだから気をつけろ!馬鹿!」
「馬鹿とは何だ!人の好意を…」
「御託はいいから、ほら、ちゃんと持ってください」
 地面すれすれのところで支えていたのを、促されて持ち上げ彼は息をついた。
「ため息つくと幸せ逃げますよ」
「うるせえ…」
 くすり、笑みをこぼす彼女と彼は、二人並んで歩き出す…と、ふと彼女が再び歩みを止めた。
「YOU?」
「え?」
「どうかしたか?急に立ち止まったりして」
「いえ…」
 促されて、あわてて歩き出す。彼女はぼんやりと、物憂げだ。
「あ、そうだ」
 そうして、思い出したかのように声を漏らす。
「ん?」
「卵…」
「卵がどうかしたか?大丈夫だよ、落としたわけじゃないから、割れちゃいない」
「いえ、そうじゃなくて…さっき、聞いたじゃないですか」
「何を?」
「何を買ったんだ?って、聞いたじゃないですか」
「ああ…」
 彼は、そういえばそんな事を言ったなと思い出して笑った。ただ単に口をついて出た言葉だったが、改めて聞くのも悪くない。
「卵と、牛乳と、大根と…」
 指折り数えるようにして、一つずつ口にしている。まるで歌うように。
「あと鮭と白菜、それから春菊に、つくね…」
「今日の夕飯は鍋か?」
 袋の中を覗き込みながら、彼が問うと彼女は驚いたような表情を向けた。
「なんでわかったんですか?」
「そりゃ、その材料ならそれくらいしか思い浮かばんだろう」
 がさがさと他の材料を眺めながら笑いかけると、ああそっかと彼女も笑う。
「なあ、YOU、買い物に行く時は言えよ。重いだろう?」
「え、いいですよ別に、いちいち面倒だし」
「車、出してやるからさ」
「いいですってば」
 めんどくさそうに言いながら、ふと歩みを止める。つられて彼も立ち止まると、彼女は一歩大きく踏み出して振り返り、彼に向き合った。
「YOU?」
「ああ、やっぱり」
「ん?」
「見てくださいよほら、上田さん」
 指差したのは彼の後ろ、振り返り示した先に目をやると…

 沈みかけた太陽は夕日という名称に姿を変えて、空を茜に染めている。
 ほらごらん、道に並んだ二人の長い影。

「影の上田さんも無駄にでかいですね」
「…日が傾いてるんだ、影が長くなるのはしょうがないだろ。俺もYOUも、比率は同じだ。それに…」
「あっ…」
 ぐいっと、彼女の肩を引き寄せると並んでいた影は一つにとけた。
「こうすれば、どっちがどっちだかわからない」
「ちょっ、何をするんだ上田…」
「さ、帰るぞ。いい加減腹減った」
 肩を抱いたままで歩き出す彼に、促されて仕方なく彼女も歩き出す…
「すみません、歩きづらいんですけど」
「いいじゃないか、影をくっつけときたいんだ」
「は?」
 いいからいいから…そう言って、二人は二人の住まいへ向かう。



 日が落ちて、茜に燃えていた空も夜の帳に包まれて、今はいくつかの星が静かにきらめいていた。
「う…ぅん、おなかいっぱい…」
「食いすぎだ、馬鹿」
 食後に、そのまま眠りこけてしまった彼女の髪に、彼はそっと触れる。
「YOU…」
 不意に、顔を近づけて頬に唇を落とした。
「ん、にゅぅ…」
 子猫のようなしぐさに、表情が緩む。無防備な姿を見せてくれるのは、決まって彼女が夢の中にいるときだと皮肉に苦笑い。
「…奈緒子」
 耳元で、囁く。

 奈緒子…いつになったら君は、あの茜に燃える夕日が見せてくれた長い影のように、寄り添ってくれるのだろうか。
 ふたりは、「ふたり」という一つの枠組みにはまったというのに…君はまだ、ぎこちなく笑う。
 買い物も、何も言わずに一人で行ってしまうし。交わす言葉も、以前と変わらぬまま。




「おやすみ、奈緒子」
 ふわりと、彼は彼女を抱え上げると二人の寝室へと向かった。






あれ?
SSを書くときはやっぱり勢いがないとだめだなぁと改めて実感しました。
うぅ、奈緒子の一人語りだけにしておけばよかった…
2007年3月4日


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送