紅 茶



 ふわり、と鼻腔にかかるのは慣れない香り。
 でも、ほっとするような…



「山田さん、コレ持って帰っていいよ」
 バイト先で帰り際、唐突に厨房を仕切るシェフ兼オーナーに声をかけられた。
「へ?」
 立ちっぱなしな上、苦手な愛想笑いを一日中。顔の筋肉は引きつるし足は痛いしで、くたくたで早く家に帰りたくて。
 何を言われたのか、一瞬わからなかった。
「だから、コレ」
 はい、と掲げられたのは小さな紙製の袋。
「…いいんですか?」
「新しいのあけちゃったしね、残りも少ないし、期限もぎりぎりだし」
「はあ…」
 普段は厳しいオーナーが、珍しく人の良さそうな笑みを浮かべてそれを半ば強引に、奈緒子の手に握らせた。
 じゃあ早く帰りなさいよと言い、気がついた時には店を出て帰路に着いていた。
「…ま、いっか」
 タダでもらえるんだから、とやっと彼女らしい笑みを浮かべて古い安アパートのノブを握る。
 ── ガチャ…
「…ちっ」
 朝、家を出る前に閉めた鍵は、その部屋の主よりも早く別の誰かの手によって開けられていて。
 もう、慣れてしまったと言えば諦めもつくのだろうか…それでも多少、イラつく。
「よう、お帰り、今日は早いんだな」
「時間なんていつもと同じですよ」
 疲れたように時計を一瞥し、持っていた鞄を部屋の隅に置く。
 見慣れた客…というにはあまりにも近い、けれど身内とは呼べない奇妙の間柄のその男は、奈緒子が腰を下ろすのと同時に立ち上がった。
「茶でも入れよう、今日は茶菓子があるぞ」
「そうですか」
「何年か前に受け持ってた生徒なんだが、イギリス在住でな、帰国の際に寄ってくれたんだ」
「そうですか」
「ジンジャークッキー、食った事ないだろう?まあ、日本茶でも合うだろう」
「そうで、あっ」
 そうですか、と適当な相槌を打とうとしたのだが、思い立って声を上げる。
「ん?」
 男、上田次郎は茶筒を手にし、今まさに急須へ茶葉を入れようとしていたところだった。
「上田さん、これ、これ淹れてくださいよ」
 ばたばたと膝を立てて移動し、部屋の片隅に置いた鞄から紙袋を取り出す。
 先ほどバイト先から貰ったものだ。
「何だ?」
「さっき貰ったんです、紅茶」
 立ち上がり、流しに立つ上田の隣に並ぶと紙袋の中身を見せた。
「ほお」
 期限ぎりぎり、とは言うものの、保存は良かった。すぅっと流れるような、香ばしい香り。
「これ、淹れてください」
「YOUが紅茶なんて、珍しいな」
「だから、貰ったんですよ、バイト先で」
「そうか」
 どれどれ、と紙袋を受け取り、しばらく中身を覗いてから辺りをきょろきょろと見渡す上田。
「上田?」
「…ティーポット、なんてモノはないんだろうな、ここには」
「…ええ、まあ」
 いくら無知な奈緒子と言えど、紅茶は急須で淹れるものではない、と言う事くらいは知っている。バイトの研修でも、ティーポットで、と言う風に教えられていた。
 だからこそ、くれると言われた時に戸惑ったのだが。
「ま、いいか」
 だが上田は一瞬躊躇したものの、紙袋から茶葉を適当に急須へと流し入れた。
「あ…」
「YOUは座って待ってろ」
「…はあ」
 頭の固い上田の事だから、ティーポットを買ってくる!とでも言うかと思ったが…
 少し驚いた。
 でも不思議と、なぜかほっとした。

 ヤカンに水を入れる。
 火を着ける。
 少しして、お湯が沸いた合図。

 奈緒子はじっと、その後姿を眺めていた。
 この男も、変わったなぁと思う。多分、自分と出会ってから。
 なんていうか…柔軟になった?
「YOU、砂糖はあるか?」
「調味料は右側の方にありますよ」
「ああ、本当だ」
 顔だけこちらに向けて、少し照れくさそうに微笑んでいる。
 少しして、急須と湯のみ二つに、砂糖の入ったビンと紙パックの牛乳を一つのお盆に載せて危なげに、上田がちゃぶ台へと歩いてきた。
「よし、ほら」
 奈緒子のいつも使う、赤味がかった湯のみ。それを前に置くと、手にした急須を日本茶の時のように、くるーりと回し、中身をゆっくり注いだ。

 ふわり、と鼻腔にかかるのは慣れない香り。
 でも、ほっとするような…

「ジンジャークッキーには、ミルクティーだな」
 同じように、いつの間にか上田が持ち込んだ、紺色の少し大きい湯のみに紅茶を注ぎ入れ、続けて紙パックの中身をそこに足した。
 湯のみの中身が、鮮やかな紅い色から白茶色っぽい色に変わる。
「砂糖、入れるだろ?」
「え?あ、はい」
 キレイな色だ…ぼんやり眺めていたが、声をかけられて慌てて答える。
 慣れたもので、小さなスプーンに大盛り一杯、奈緒子の湯のみに砂糖を入れる。上田自身の湯のみにはさらさらとわずかな量の砂糖。
「うまそうだ」
 くるくるとスプーンで中を混ぜてから、顔を上げ奈緒子に笑顔を向けた。
 いつの間にか、ちゃぶ台の上にはクッキーの缶。蓋は開いている。
「…ジンジャークッキーのジンジャーってなんですか?」
 湯のみをそっと、手のひらで包み込むようにしてから奈緒子は、ふと思い立って聞いてみた。
「知らないのか?」
「…知ってたら聞きません」
 それもそうか、と笑いながらクッキーを一枚、奈緒子の目前へ。
 かじってみろよ、とでも言うような。
 鼻の近くだった為なんとなく、くん、と鼻を鳴らす。おや、この匂いはどこかでかいだような…
「頂きます」
 ぱくっ、と指までも咥えるような勢いで、クッキーは奈緒子の口の中へ。
 …少し、というかかなり固い。
「そのまま食うと固いだろ?こうやって食べるのがうまいんだ」
 固さに眉を八の字にしていると、上田が言う。目を向けると一枚のクッキーを、湯のみの中の紅茶に浸していた。
「ひょえをはやひゅゆへ!」
 中途半端にクッキーを咥えたまま軽く怒鳴りつけてから、奈緒子も上田のようにそれを湯のみの中に浸してみる事にした。、
 ちなみにかじった時に、ジンジャーは生姜だと言う事に気づいた。
「ひたひたにして食べるのが英国風、もういいだろう」
 言われた通り、ひたひたになったクッキーを改めて口の中へ。ちょうど良いやわらかさに加え、口の中でとろりととろけるような。
「…美味しい」
 思わず、笑顔になる。上田もそんな奈緒子を見て、穏やかに微笑んだ。

 夕暮れのオレンジが、窓から部屋の中を染める。
 奈緒子の頬も、上田も眼鏡もオレンジ色。
 白茶色の、湯のみに入ったミルクティー。そしてジンジャークッキー。
 なんだか合わないようで、妙にしっくりする。

「ところで上田、今日は何のようだ?」
「用がないと来ちゃいけないのか?」
 ちっ、と小さく舌打ちしてから、奈緒子はミルクティーに浸したクッキーを口いっぱいに頬張る。
 ま、いいか…こんなのはもう慣れっこだ。



 急須で淹れた紅茶、湯飲みで飲むミルクティー。
 ちぐはぐだけど、気にならない。
 私とこの男が、一緒にいる事…それ自体がそもそもはちぐはぐなのに、気にならなくなった今日この頃と同じようなものか。
 奈緒子はぼんやり、微笑みながらミルクティーを口に含んだ。
 穏やかな味と風味が、口の中に広がる。
 飲み慣れないもののはずなのに、なぜかほっとした。



 FIN



久しぶりのSSと言う感じ。
会社に来たお中元に、紅茶の詰め合わせがあって。
ティーバッグのやつで、いくつか貰ってきたのです。飲んでいたらふと、思いついたのでつらつらと書いてみました。
2007年7月29日


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