[ 第109話 ]


 石原の腕の中で、まだ目をパチパチしばたいて、楓は声を出す事も出来ずにいた。
「楓ちゃん?」
 ふわっと、抱き締められた時と同じように、身体が離れていく。石原はにこにこと、いつもの何を考えているのかわからないような笑顔を楓に向けている。
「え?あ、はっ、はい!」
 呼ばれた事に気付き、ハッと返事をする楓…まだ戸惑っているような顔で石原を見た。
「びっくりした?」
 今の動作の事、だろうか…いたずらっ子のような笑顔をの石原。
「ちょ、ちょっとだけ…突然だったから」
 少し照れくさそうに、楓も微笑み返す。
「一回、抱き締めてみたかったんじゃぁ、楓ちゃんの事」
「そ、そうなん、だ」
「女の子、久しぶりに抱き締めたけど、やっぱり細くて小さい感じがするのぉ」
 にこにこ、無邪気に。
「石原さんって…何人くらいと付き合ったこと、あるんですか?」
 あまりにも無邪気に言うものだから、少し気になってしまった。昔の事にヤキモチとか、そういうワケでは無いんだけれど…
「何人って、彼女って意味で?」
「あ、は…うん」
「んー、ワシ、若い頃は近所でかわいいって評判で、年上に持てたんじゃぁ…でも3、4人くらい」
「かわいい?」
「学生の頃じゃぁ、声変わりも遅くてのー」
 にこっと、微笑む石原。なんとなくわかるような気がするのが妙におかしい。
「楓ちゃんは?」
「私はー…少ないですよ、1人。石原さんが2人目ー」
「ホンマに少ないんじゃのー」
「おばあちゃんが厳しい人だったから」
「ああ、外国で暮らしとったんじゃよね」
 初めて付き合った男の子は、同じスクールに通うクラスメートで、13歳の時だった。期間は約1年、その子が親の都合で引っ越すまでだった。
「ま、経験豊富でも困るしのー」
 にやっと、からかうように石原は笑った。
「そ、そう、だね」
 楓も、敬語が出ないようにくすっと笑った。
 3、4人…石原のこの頃の態度から、もっと多いような気がしたのだ。遊び慣れていると言うと聞こえは悪いが、女性の扱いがうまいというか。
「石原さんって…妹さんとか、お姉さんとかいるの?」
 もしかして、と思ったが…
「ん?おらんよ?」
 どうも違うらしい。
「一人っ子?」
「そうじゃぁ、でも園ではよくちーさい子の面倒見たりしとったよ」
「あ、そっかぁ」
 そうだ、この人もあそこにいたから。
「石原さんって、いいお兄ちゃんって感じするもんね〜」
「まぁの、大人になってからもよく行くから、由美センセにすぐ頼まれるんじゃよ」
 くすくす笑いながら、楽しそうに石原が言った。
「由美せんせぃ…ふふ、本当、石原さんに連れて行ってもらって良かったー」
「また一緒にいこうね」
「うん」
 すっかり、敬語がなくなってきた。石原と一緒にいるのはほっとするしなんだか楽しい。楓は心のどこかで、ほっと息をついた。
「石原さんと一緒に話してると、なんだか園にいた頃を思い出すよ」
「そぉかの?それは…いい思い出だけじゃないじゃろ?」
 ふっと、石原の笑顔が翳った。心配するような表情で。
「うん…」
 確かに、むしろいい思い出の方が少ない。
「でも、あの頃の私は、優しい人たちに囲まれてて、きっと幸せだった」
 園ではいつも、お母さんのように接してくれた芹沢先生がいたし、気にかけて遊んでくれたタツくん(多分心の中でそう呼んでいただろう)がいた。
 それに、なにより…
「楓ちゃん?」
 はらりと、零れ落ちたしずく。
「あれ?」
 何が、どこから?
「何か、辛い事まで思い出してしもたんかのぉ?」
 心配そうな声とともに、何かで目元をぬぐわれた。ティッシュだ。
「これ、あれ?涙…私、泣いてる?」
 何かを、思い出したような気がした。あの頃私の周りにいた人たちの中の、誰か。
 はらはらと、意図せず零れ落ちる涙のしずく。石原の手がそっと、頭の上をぽんぽんと撫でた。
「石原さん、私…」
 ケンおにーちゃんの、あの頃の、色んな表情と。
「忘れてる事、いっぱいある」
「うん」
 時折ふっと、ケンおにーちゃんとは違う人の事を思い出す。声が大きい人だったような気がする。
「思い出さないほうがいい事も多いと思うけど、思い出さないといけない事も…きっといっぱいあるよね」
「そうじゃね」
 あれは多分、この間、園で見せてもらった写真に写ってた人だ。
「ゆっくり思い出せば、えーと思うけ」
 焦らんとね…石原の言葉に、涙をぬぐって笑顔でうなずいた。



 つづく


私の中でヤベカエは決して終わってなどいない。
2年ぶりの更新でした。
時々、今までのを読み返しているとものすごい量の誤字を見つける。
ただ、めんどくさいのか直すのを忘れるorz

2010年8月4日

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