[ 番外編 ](注:本編の36話から66話の間くらいの出来事)


「んー、あー…エヘンッ」
 矢部は洗面台で、喉元を押さえながら眉を顰めた。
「あー、あ゙ー…あ゙かん」
 起きてからどうも、喉の調子が悪いのだ。
「オレの美声がなんやくぐもっとるがな」
 エヘンッ、と咳き込みながら、蛇口を捻ってコップに水を入れた。
「ケンおにーちゃん?どうしたの?」
 ガラガラとうがいをしていると、パジャマ姿の楓がぴょこんと顔を覗かせる。
「おぉ、おはよぉ」
「おはよ。あれ?ケンおにーちゃん、声…」
「ちょっと風邪ひいたみたいや、喉がいずくてな」
「風邪薬飲む?持ってくるよ」
「いや、そないに大袈裟なもんやないからえーよ。道すがら喉飴買うてくし」
「そう」
 楓は酷く心配そうな表情で、矢部をじっと見つめた。
「大丈夫やって。言うやろ、病は気からって」
 恒例となった散歩を短く切り上げて、矢部は警視庁へと向かった。楓はバイト先へ。
「ケンおにーちゃん、大丈夫かなぁ…」
 矢部の知人が営んでいるパン屋さん、ドーナツを揚げながら楓は小さく呟いた。そして夜、楓の心配もむなしく、帰宅した矢部は誰が見ても具合が悪そうだった。
 青褪めた表情、虚ろな目つき。
「ただい゙まぁ゙」
 何より声がひどい。
「お、おかえりなさい。大丈夫?」
 パタパタと玄関先まで出迎える楓を、矢部は手をかざして静止した。
「ケンおにーちゃん?」
「ストップ、や。ちょっとオレ、こじらせたみたい゙やから…かえちゃんに移ったら大変や」
 にこりと、弱々しげに微笑む矢部。
「そんな…」
「えーからえーから」
 足取りもふらついて、それでも楓とは一定距離を保ちながら矢部は寝室へと向かった。
「ちょぉ、着替えるわ」
「あ、うん…あっ、ごはんは?食べれそう?一応お粥作ったんだけど」
 バイトから帰った楓は、朝の矢部の様子を見て不安になり、一般的に病人食と言われるような夕餉を用意していたのだ。
「あ゙ぁ、お粥?かえちゃんは気が利くなぁ…薬、飲まなあかんから、食べるよ」
 ふらり、と、矢部は早々とパジャマを着用してリビングに戻ってきた。
「おにーちゃん、上にもう一枚着たら?寒いでしょ?」
 持って来る、そう言って今度は楓が寝室へと向かった。戻ってきた楓の手には、袖なしのちゃんちゃんこのような、ベストのようなもの。
「はい、コレ着てね」
「んー」
「すぐご飯の用意するから、座ってて」
「んー、ありがとぉ」
 熱が高い…虚ろな意識の中で、矢部はぼんやり思った。と、ふわりと何かが鼻をかすめる。
「あちち…温めすぎちゃった」
 コトリ、と、テーブルの上に色々と並べられていく。まず、お粥。卵とじ、なのだろうか?白いキラキラしたお粥には、黄色いものも混じっているようだ。
「えーにおいや…」
「熱いから、気をつけてね」
 コトリ、コトリ。ふわり、さっきと同じ匂い。
「これ、ナニ?」
 陶器のレンゲでお粥を掬い上げたまま、矢部は楓が並べた小鉢を空いた方の手で指差した。ふわりとした匂いはその小鉢の中身からしていたらしい。
「あ、ソレはね、私が熱出した時にミカがよく作ってくれたの」
 生姜が入ってるんだよ…そう言いながら、楓は小鉢の中身をグルグルと混ぜて、ひとさじを矢部のお粥の中に入れた。
「お粥に入れるん?」
「うん。ずっと同じ味じゃ飽きてくるでしょ?だから少し味を変えるのに使うの。生姜とお味噌を混ぜてね、結構美味しいの」
 ミカちゃん、随分久しぶりに聞いたなぁ…などと思いながら、熱さの治まったレンゲ内のお粥をすすった。
「あ、ウマい」
 生姜と味噌が入る前の、粥だ。普通のお粥と違い、なにやらだし汁を使っているらしい。かすかな塩味と、さらりとした喉越し。喉が痛い矢部にとってはとてもありがたい食べ物だ。
「美味しい?良かった。ゆっくり食べてね」
 スポーツ飲料の大きなボトルを傾けて、ガラスのコップに注ぐ楓。
「ん、ありがとぉ」
 白いお粥、白い湯気。ガラスの器に、ゼリーまでついてきた。
「かえちゃんは、えーお母さんになりそうやな」
「そう?嬉しい」
 ゆっくりと時間をかけて、用意された夕餉を綺麗に平らげて、白湯で薬を飲んだ。もちろんこの白湯も、楓が用意したもの。
「ケンおにーちゃん、今日はベッドで寝てね。病人なんだから」
 有無を言わせぬ楓の行動は早かった。
「かえちゃん、そやけど同じ部屋で寝たらあかんよ?移ったら…」
「病人はそんな心配しないの」
 にこりとやわらかく微笑んで、楓は固く絞った冷たいタオルを矢部の額に乗せた。熱が上がったのか、朦朧とする意識のまま、矢部は深い眠りへと落ちていったのだ。
 そして翌朝…
「お…」
 目覚めのいい朝、ぱたりと額から何かが落ちた。
「お?」
 冷たい、濡れタオル。
「おぉ…治っとる」
 昨夜はあんなにだるかったのに、たった一晩で治る辺り日々鍛えてるおかげだな…そんな事を思いながら、枕元に置かれていたグラスの中身を一気に飲み干した。
 そして気付く。
「かえちゃっ…」
 矢部の寝ていたベッドの上に、楓が頭をもたらせて眠っていたのだ。一見すやすやと心地良さそうに眠っているのだが、一晩中矢部を看病していたに違いない。肩に何もかけずに眠っている楓の額に触れてみた。
 嫌な予感が外れてくれればいい…そんな期待はいとも簡単に打ち砕かれた。熱い。
「そやから、言うたのに…」
 こんなに早く自分の熱が下がったのは、楓に移したから…なんとも心苦しい。とりあえずは楓をそっと抱きかかえてソファに横たわらせ、矢部は準備に取り掛かった。
 今まで自分が寝ていたベッドの、シーツやタオルケット、枕カバーを素早く新しいものに交換。
「かえちゃん、大丈夫かいな?パジャマ着て横になろうなぁ?」
「う…ん?ケン、おにーちゃ、風邪は?」
 ぼうっとした眼差しで、楓は言う。
「オレはもう大丈夫や。そやけど今度はかえちゃんが風邪ひきさんになってもうたから、一人で着替えれるやろ?」
「ん…」
 流石に矢部が着替えさせるわけには行かない。その間リビングで、菊池に電話をした。今日は有給で休むから、という連絡だ。なにやらブツブツと文句を言っていたが、昨日の矢部の様子を知っているのでなんとか納得したようだった。
 ただ、楓に風邪が移った事までは言っていない。余計な気を回しそうでうざいから、と言うのが矢部の本音。
「かえちゃん?」
 少し時間を置いてから、そっと寝室を覗くと楓はソファに腰掛け、ぼぉっとしていた。
「かえちゃん、ほら、ベッドに入りぃ」
「え?あ、うん」
 この様子だと、昨夜の矢部より熱が高いかもしれない。
「ちょっと待ってぇな、体温計持ってくるから」
「ん」
 とは言うものの、このうちにそんな物あったろうか…?う〜んと唸りながらリビングに戻って、テーブルの上にあるそれを見つけた。体温計。
「…あれ?」
 ああ、もしかすると昨日の時点で楓が用意していたのかも…
「けひょん、けひょ…」
 寝室に戻ると、楓が咳をしていた。妙な咳だ…これは相当気管が辛いだろう。
「かえちゃん、熱、はかろーなぁ?」
「あ、うん」
「古いタイプの体温計やな、腋に挟んで3分。計っとる間に飲み物用意するからな?」
「ん」
 随分辛そうだ。足早にリビングへと行き、昨日楓が用意したと思しきスポーツ飲料の残りが入ったボトルと、新しいグラスを持って戻った。楓はベッドの上で体を起こしたままで、ただぼぉっとしている。
「…かえちゃん、3分経ったみたいや。体温計出して?」
「あ、ケンおにーちゃん…はい」
 ごそごそと取り出して、渡す。その数値を目にした時、矢部は眩暈がしそうだと思った。
「38度…8分、かえちゃんほら、横になりぃ。あ、その前にこれ飲んだ方がえーね」
 グラスに注いだスポーツ飲料を飲ませながら、罪悪寒でいっぱいになる。好意で看病してくれたのに、こうして風邪を移してしまうなんて…
 はぁ…と、小さく自己嫌悪の息をついた時、矢部の袖口を楓がギュ…と握ってきた。
「ん?」
 グラスの中身を少し口に含んでから、熱で潤んだ瞳で矢部を見つめている。どうにも、ドキッとしてしまう。
「か、かえちゃん?」
「おにーちゃ…ごめんなさい」
 ドギマギする矢部をヨソに、ぽそり、と口を開く。
「え?」
「風邪…ケンおにーちゃんの風邪、治ったのに。折角おにーちゃんの為に、私、看病したのに」
 けひょん、けひょん。途中何度か咳き込みながら、泣き出しそうな顔で楓は言う。
「何…言うてるん、看病してもろたからオレの風邪は早うに治ったんやで。ありがとぉ」
 健気で、愛おしくなってくる。汗で額にはりついた前髪をよけてやりながら、何度も髪を撫でた。
「おにーちゃ…」
「かえちゃん、無理せんとな。たまには甘えたってや、な?」
 ふっと、楓は微笑みながら目を閉じた。荒くなる呼吸がかわいそうで、矢部は傍を離れずに髪をなで続ける。病気の時は心細くなるから、少しでも傍にいてやりたかった。
「傍に…おるよ」
 楓が自分にしてくれた以上の事を、してあげたい。髪をなでて、手を握り、額に冷やしたタオルをのせてやりながら思う。う〜んと頭を捻りながら、考える。
「あ、そうや」
 何か思いついたようで、矢部はそっと握っていた手を離して寝室を出た。
「病人食、作ろか。あとアレ買ぉてこよ」
 昨夜の楓が作ってくれたお粥が美味しかった…なら自分もお粥を作ろう!意気揚々と、素早く買い物に出かけた。おまけも色々と買ってくる。
 料理は得意だった。喉を相当やられている事を思慮し、味付けは薄めに、そしてやわらかく。それでいてそこそこ栄養のあるものを。
「かえちゃん、ごはん、食べよぉな。薬飲まんと」
 トレイに食事を載せて、寝室に向かう。寝ているのを起こすのはかわいそうだが、薬を早めに飲ませたかったので致し方ない。
「ん…うん」
 買ってきた冷えピタを額に貼ってやり、背中の部分にクッションを置いて身体を起こしやすくしてやった。それから、レンゲで掬ったお粥の熱を冷ますため、ふぅーっと息を吹いた。何度か吹くと湯気も治まったので、それを楓の口元まで運び、言う。
「ほれ、あーん」
「あー──…ん」
 言われるがままに、口を開きレンゲを咥える楓。可愛らしい仕草に矢部の頬もつい緩む。
「おい、しい、よ」
 むぐ、むぐと少しずつ口を動かして楓は言った。
「そぉか、そら良かったわ。食べれるだけでえーからな?」
「ん」
 結局三口ほど食べて、楓は参ってしまった。身体を起こしているのが相当辛いらしく、こてりと倒れこむように横になる。
「ホンマに、移してしもうてごめんなぁ、かえちゃん。寝る前に、薬飲んでぇな」
「ん?くす、り…」
 意識が朦朧としているらしく、楓はぼんやりと言われた事を繰り返す。が、当の薬を飲む行為にまでは及ばないのが実状だ。
「んー、困ったなぁ…」
 なんとか楽に飲ませる方法はないものか…思いあぐねいて、矢部はふっと顔を赤らめた。
「水、さえ飲ませられれば、えーんやな」
 ポリポリと顔を赤らめたまま首の後ろをかき、薬の入った紙袋を手に取った。そこから銀色のケースに入れられた錠剤を、2錠掌に落として見つめる。
「かえちゃん…ごめんな、ホンマに」
 そっと身体を起こして、二つの錠剤を楓の口の中に落とした。これだけじゃ恐らく、飲み込むのはまず無理だ。喉を痛めているのだから。
「他に方法、思いつかへんて…ごめん、な」
 背中に腕を回して抱き起こす形のまま、空いた方の手でグラスを手に寄せ、中身を自らの口に含んで楓に顔を寄せた。
 ─── … ゴクン、ゴクン。二つの錠剤を飲み込んだ事を確認してから、再び寝かせ、布団を顎の辺りまでかける。
「…アカン、また移りそうや」
 不可抗力、仕方ない事。そう自分に言い聞かせながら、矢部は赤くなったまま寝室を離れた。洗面台で何となく鏡を見ると、馬鹿にみたいに赤くなっていて、何度も冷たい水で顔を洗った。
「あの熱や、かえちゃんは何も覚えとらん。今は…看病の事だけ考えるんや」
 二・三度頭を振って、大きく息をつき寝室へと戻ると、楓はすやすやと眠っていた。時々、ううん…、と呼吸を荒げてうなされるような素振りを見せるが、その時は静かに髪を撫でた。

 真夜中、楓は朦朧とした意識のまま、目を開けた。ぼんやりと天井を見つめてから、横を見遣る。
「あぁ、起こしてしもた?」
 そこには穏やかに、楓の手を握り締めて、髪を撫でる矢部がいた。
「ケ…ン、おにーちゃ…」
「ん〜?」
 少し、さっきより楽だ。
「ずっと、そばに?」
「うん?そやねぇ…」
 その矢部の言葉が温かくて、優しくてホッとした。
「…おにーちゃんに、移らない?」
 ふっと心配になって尋ねるが、矢部は微笑んだまま小さくこくんと頷いて、囁くように口を開いた。
「一回ひいて、免疫ついたから大丈夫やで」
 そして、ごめんなと続ける。
「ごめん?」
「移してもうて、ごめんな」
 優しくて、悲しい声。楓は慌てて首を振ったが、その拍子に眩暈。
「あぁ、そないに頭振ったらあかんよ。目ぇ、クラクラするやろ」
 そっと頭を支えられて、照れくさそうに微笑んだ。
「うん、目、回った」
「はは、さて熱は下がったかなぁ?」
 体温計の存在を忘れたのかどうか、矢部はどれどれと言いながら、楓の額にコツンと自分の額を当ててきた。
 なぜか、楓はドキンとした。今まで一緒にいた中で、一番顔が近かったからかもしれない。
「おに、ちゃ…ん?」
「ん、少ぅしやけど、下がったみたいや」
 さっきより楽になったんちゃう?そう聞かれて、ただ頷く事しか出来なかった。
「そか、そしたら…えーもん持ってくる」
 そう言いながら、するりと繋がれていた手を離す矢部。手が離れる瞬間に、心に隙間風のようなものが吹いたような気がした。
「ほら、えーもんやで」
 すぐに戻ってきた矢部の手には、なにやらカップ。そして銀色の、小さなスプーン。
「何?」
「アイスクリームや、奮発してハーゲンダッツの買おてきたんやで」
 にこにこと、矢部は楓が横になっているベッドの脇に腰を下ろして、楓が体を起こすの助けた。
「あいすくりーむ…?」
「喉、痛いやろ?それに熱もある。そーゆう時は冷たくて喉越しもいいコレに限る」
 ほら、あーん…そう言いながら、スプーンですくったそれを楓の口元に近づけてくる。
「あー…」
 思わず口をあけて、楓はスプーンを咥えた。ひやり、と優しい甘さのアイスクリームが口の中に広がり、喉を伝う。
「おいしい…」
「な?」
「うん」
 楓は思う。幼い頃の事…おぼろげな記憶の中で、母や父がしてくれた。懐かしい、そう思うのと同時にふわりと心が温かくなる。
 得る事の出来なかった想いを、今こうして時空を越えて感じさせてくれる矢部に、ただ感謝する。大好きなケンおにーちゃん、ありがとう…と。
「ん?どしたんや?」
 スプーンを咥えたままで嬉しそうに頬を緩ませる楓に、矢部は首を捻る。
「ふふ、おいしい」
 アイスクリームを1パック、綺麗に食べた楓は自分で薬を飲んで、ベッドに身を沈めた。静かに寝息をたてて穏やかに眠るその様子に、矢部はホッと息をついた。

 翌日、楓の熱は平熱に戻っていた。
「熱は下がったけど、今日の散歩はなしやで」
 楓の髪をくしゃくしゃ撫でながら、矢部は言う。
「うん、ぶり返したら元も子もないもんね。でも明日は…」
「今日一日様子を見てから、や」
「うん」
 穏やかに静かに、一日は過ぎていく。共に生きていく日々は、かけがえのない日々。二人はそれぞれに、思っていた。この日々は一日も欠かす事無く続いていくだろうと。
 何の根拠もないままに…


 つづかない(だって番外編だもの/笑)


つづかないとは書いたものの、本編の中の、書く予定ではなかった一節であるのは間違いない。
矢部と楓が共に暮らす日々の中の、ふとした数日…かなぁ?
サイト50000HITの記念企画モノ、です。
アンケートとってました、事前に。乾いた月の番外編。
風邪引き話、です。フリー配布ではないのであしからず(本編読まないと意味分からないしね)
2005年5月8日

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