「 愛が急(せ)く 」



 違う。

 矢部は自身に強く言い聞かせた。
 違う、と。
 これは、この感情は違うと。

 でも…本当はわかってる。

 はっきりと確信したのは、いつの事だったろうか。
 おかしい…と思ったのは?
 ふと、思いを馳せる。

 仕事の合間に、菊池をまいて路地裏の小さな公園に逃げ込んだ。
「あー、疲れた」
 円形の小さな公園…というよりは、広場という方がしっくりくる。
 矢部は、所在なげに据え置かれた小さなベンチに腰を下ろして、広場の中央に佇む一本の木をぼんやりと眺めた。
 季節は秋。赤らみかけて白くかすんだ空は、高い位置で涼しげに揺らいでいる。
「…松茸食いたなってきたなぁ」
 ぽつりとつぶやく。
 ─── タッタッタッタ…
 どこからともなく、足音。音のする方に顔だけ向けて、何だろうと首を傾げていると、ビルの影から人影。
「あ」
 見覚えのある顔。矢部には気づかずに、広場の石畳をタンッと軽快に踏んだ。
「にゃっ?!」
 と、踏んだ場所が悪かった。秋色になって散った落ち葉がそこに少したまっていて、昨日は確か雨だった。
 …滑って豪快に、前につんのめる。
「あたー…」
 自分が転んだわけでもないのに、矢部は思わず片手で自分のおでこを押さえ、痛々しそうに顔を歪めた。
 …顔面からいきおった。そう心の中でつぶやきながら、立ち上がり駆け寄る。
「おいおい、大丈夫かぁ?」
 声をかけ、手を貸す。彼女は顔を上げて手をつかんで「あ」と声を上げた。
「矢部さん」
「あぁあぁ、顔、擦りむいてからに…余計見れん顔になっとるわ」
 気恥ずかしそうに、彼女は片手で自らの頬に触れ、顔をしかめた。
「っつ…」
「痛いんか?」
「ええ、まぁ…」
 そら、あれだけ豪快にこければ痛いのも無理ないわな…矢部は心の中で呟きながら、彼女の手を引いた。
「ちょっと座っとれ」
 さっきまで自分が座っていたベンチに腰掛けさせ、噴水の方へと足を向ける。
「矢部さん?」
 背中に彼女の、高い綺麗な声がぶつかる。少しして彼女の前に戻ってきた矢部の手には、濡らしたハンカチ。
 有無を言わさず、それを彼女の顔の、擦りむいたところに当てた。
「にゃっ?!し、しみっ…」
 ダンッと、彼女は思わず矢部を跳ね除けた。
「っと…あ、やっぱしみたか?」
 押された拍子に少しバランスを崩すが、所詮女の力。大した事はない。
「ったりまえじゃないですか!」
「そやかて、顔、泥だらけやで。ばい菌入っても嫌やろ?」
 少し申し訳なさそうに、矢部は再度、ハンカチを顔に寄せた。
「それも、そうですけど…」
 今度は顔をしかめるだけど、彼女は矢部のその行為を拒む事はしなかった。この行為が、優しさや気遣いだと心得たからかもしれない。
「お、我慢して偉いやないか」
 転んだところから目撃したせいか、矢部の彼女に対する発言が、どこか幼子に対するようなものになってしまっている。
「しますよ、そりゃ、大人ですもん。子ども扱いしないで下さい」
 ははっと、声を上げて笑う。反対に、彼女は少し不機嫌そうに。
「子供やろ。オレから見たら、そんなもんや」
 泥を綺麗にふき取った後で、彼女はふっと微笑んだ。
「それもそうですね」
 その笑顔が、あまりにも綺麗で…

 正直、そのあとの事はよく覚えていない。
 何となく、「ありがとうございます」と言って立ち去る彼女の後ろ姿だけは覚えてる。ピンと伸ばした背筋と、左右にわずかに揺れる黒髪が瞼の裏に焼きついている。
「…傷に塗る薬くらい施したれば良かったかな」
 ドカッとベンチに崩れるように座り込み、何となく口にした。本当は全然違う事が頭をよぎっているのに、それを否定するかのように。

 違う。

 とりあえず否定してみる。
 無駄な足掻きかもしれないと分かっていながら。

 違う。
 違くない。

 腹の立つ事に、否定を否定する声が聞こえる。
 違くない。って…ガキの押し問答やあるまいし。自嘲気味に笑みながら、今はもう見えない、彼女の後ろ姿を見つめる。
 胸を占めるのは、熱い想い。
 いい年して、何を考えているのだろう…自問するが、答えは出ない。

「絶対に、違う」
 小さくポツリと呟いて、自らの目を覆う。全てを否定するかのように。
 大体、だからどうだと言うものでもないだろう。さきほど彼女に言った言葉を思い出す。
 下手したら、自分の娘といってもおかしくない年齢の、小娘じゃないか。
「オレは、認めない、こんな気持ちは」
 
 嗚呼、愛が急く。
 違うと叫ぶ理性を、押し騙す。
 違くないと、否定する。
 否定を否定する。
 お前は、彼女に恋をしたのだと。

「阿呆かっちゅーねん!」
 とりあえず、口に出して叫んでみる。
 否定したところで、何かが変わるわけでもないのだと分かっているから。

 愛が急く。
 愛が急く。
 愛が急く。
 否定しても無駄だとはやし立てる。
 どうすればいいかの答えも出さずに、ただ、急く。

「別に、想うだけならえーやんか」
 
 嗚呼、愛が急く。
 答えなど、すぐに出す必要はないのだからと。
 例えどんなにこの先、この身が張り裂けそうな程に想いが強くなったって、今、それを消す事などは出来ないのだから。
 今はただ、このまま。
 恋人になりたいとか、一番になりたいとは思っていない。
 ただ、恋に落ちただけ。

 嗚呼、愛が急く。






乾いた月で矢部楓話を書きつつ、ウエヤマを書いたその直後にこんな話を書くなんて、私も結構えー根性しとりますがな。
いわゆる「矢山片想い」というカテゴリで。
でも単純な片想いというヤツですか?
…片想いに関しては得意分野です(切な・汗)

2004年9月26日


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