「 愛の呼ぶ方へ 」



 いつからだろう…
 その眼差しの先に自分が居たのは。
 正直なところ、少し、ほんの少しだけ嬉しくて、でも気付いちゃいけないような気がした。

 最初にその視線に気付いたのは、忘れもしない。
 三日はまともなものを口に出来ず、空腹と照り付ける陽射しに妙な汗をかき、涼しげな喫茶店のガラス張りの窓辺に立ちすくんでいた。
「あぁ…涼しそう、美味しそう」
 店内にいる客と思しき連中は、揃いも揃って涼しげな微笑を浮かべ、それぞれに食事をしていた。

 目に毒だ。

 そんな事を思いながらも、目を逸らす事も出来ずに、ただじっと立ちすくんでいた。
 と、ガラスに二つの目玉が映っているのが目に入った。
「ん?」
 自分のずっと後ろの方、人並みの中で、自分を見ている眼。普段はこぼれ落ちそうな程のその目を見開き悪態をついてくるのだが、その時は違った。
 細めた眼差しは、どこか何故か、慈しむような程優しげで…

 鳥肌が立った。

 寒いとか怖いとかじゃなくて、単純に、身が震えたような感覚だ。くるっと踵を返し、その目を捕らえた。
 瞬間、ぱっと目を見開き、口元ににやりと笑みを浮かべてこちらへと彼は歩いてきた。
「食い逃げの算段でもしとったんかい」
 いつもの悪態。
「なっ、失礼な事言わないでください!ただ見てただけです!」
「見てただけやと?そんなんが通じる思とるんか」
 にやりとした表情をくずしもせずに、ぺちぺちと額を叩いてくる。
「にゃっ?!たっ…おでこ叩くのやめてくださいっ!」
「嫌や」
 より一層に、彼は奈緒子の額をぺちぺちと叩き続ける。
「にゃー!やめろっての、このヅラ!」
「それは言うなぼけぇっ!」
 傍から見ればまるで子供の喧嘩。奈緒子自身もそれは分かっているのだが、なぜか止められない。
 ぺちっ。今までになく強めに叩かれた時、ぐにゃりと視界がゆがんだ。
「あ…」
 暑さと、空腹からくる眩暈だと、自分でも分かっている。
「あ?って、おい、山田?!」
 身体が崩れ落ちる前に、優しい腕に支えられた様な気がした。

 気がついた時、暑い陽の下ではなくて、涼やかな空気の流れる場所に居た。身体は横たわられていて、でも柔らかいベッドなのではなく、固めのスプリングの椅子の上だった。
「あ、れ?」
 ぽやぁっと、辺りに目を向ける。首を動かすと、額から何かがぽとりと落ちた。
「ん?」
 それは、変な柄模様のハンカチ。
「あぁ、動かんでえー」
 それを拾い上げようと身体を起こした時、近くから声をかけられた。
「あ、矢部…さん」
 奈緒子より先にそのハンカチを拾い上げ、優しく微笑んでいる。
「お前、もぉちょっと横になっとったらえぇわ。これはオレの奢り」
 コトンと、テーブルの上にグラスを置く。レモン色の液体が入ってる、そして柑橘系の香り。
「いただきますっ!」
 喉が渇いていた。だから、それだけ言ってグラスをひっつかみ、ゴクゴクと喉を鳴らして中身を口に流し込んだ。
 それは、グレープフルーツジュース。他に別の甘みを感じるから、蜂蜜か何か入っているのだろう。
「はー、美味しかった」
 一気に飲み干して、何とか一息ついた。
「ちょっと休んだら、腹に軽く何か入れたらえーよ。そんくらいなら奢っちゃる」
 向かいの席に腰掛けて、彼は微笑んでいる。手元には、白いコーヒーカップ。
 …ああ、ここはあの喫茶店の中なんだ。
「…珍しいですね、矢部さんが優しいのって」
「何言うとんのや、オレはいつかて天使のように優しいやないか」
「は?何のようにですって?」
「天使や、て・ん・し」
 ケラケラと笑う横顔に、外の陽があたり、少し眩しく見える。よほど聞いてみようかと思った。

 どうしてそんなに優しくしてくれるんですか?

 でも、聞けない。聞いてはいけないような、気がする。
「じゃぁ遠慮なく…カレーライスとスパゲティとチャーハンと」
「ちょい待てぇ、空腹時にそんなん仰山入れたら、腹痛なるで?」
「お腹がいっぱいになれば問題なしです、オールオーケー」
 彼は、やれやれという表情を浮かべてから、近くを歩いていた店員に大きな声でメニューを注文していた。
「…あとで逮捕とか言わないでくださいよ」
「何でや」
 半ば無理やり、椅子に横にさせられてから、所在投げに視線を彷徨わせながら口を開く。
「何でって…さっき、食い逃げの算段がどうとか言ってたじゃないですか」
「ああ、アレか。う〜ん、さすがオレや、犯罪を一つ防いだ」
「は?」
「言ったやろ、オレの奢りやって。オレが金払うんや、食い逃げなんて有り得へんやろ」
「え?あ、そうか。あっ、で、でも、奢ってやったんだから言う事聞けとかなしですからね!」
 ふっと、彼の視線とかち合った。なんだか悲しそうな、でも、優しそうな…
「お前なぁ、もぉ少し人を信用せぇよ」
 ぽん、と、額に手を当てる。叩くような手つきじゃなくて、額に何かを付けるような…あぁ、さっきのハンカチか。
「そんな事言って、信用してないのは矢部さんの方じゃないですか」
「あぁ?」
 
 何を、考えているのか読み取れない。

 運ばれてきた料理を綺麗に平らげて、食後のコーヒー。
「よぉ入るな」
「美味しかったです、ご馳走様です」
 両手を合わせて、礼を言う。
「良かったな」
 店内の静かな雰囲気と、カチャカチャと言う食器の重なるかすかな音。ひそひそと交わされる客たちの声。
「喫茶店って、いいですね」
「何がや?」
 うるさくない音楽が、店内をめぐる。
「何か、外とは違う空間じゃないですか」
 大きなガラス一枚隔てて、少し前まで自分はそっち側でこっち側を羨ましそうに見ていたのに。
「そぉかもしれへんな」
 今はこうして、暑ささえ届かない心地よい店内で、ゆっくりくつろいでいる。この男と、二人で。
「何か、不思議な感じ」
 コーヒーを少し口に含み、彼の顔を窺う。聞いてみたい事が、もう一つあったから。
「何や、人の顔じろじろ見てからに…あ、ようやっとオレの魅力に気付いたんか?アカンアカン、上田センセとやりあう気はないで」
「なっ、何言ってるんですか!上田さんとは何でもないです!」
 はははっと、笑う。からかってるんだ、こいつ私をからかって遊んでるんだ。仕事をサボって出来た暇つぶしに…
「ムキになるところが怪しいで、ホンマに関係ないならな、笑ってやり過ごせるもんや」
「なっ…?!」
「お前の考えとる事くらい、お見通しや。もぉちょっと素直になった方がえーで」
 何もかも見透かしたような目で、からかうような口調で。
「う、うるさい、馬鹿ヅラ」
 何も言い返せない。だから、小さく責める。
「ヅラ言うなゆーたやろうがっ、奢ったらへんで」
「あ、ご、ごめんなさい!」
「そぉそぉ、素直が一番や」
 聞いてみたい。

 どうしてそんなに優しいんですか?
 どうしてそんな風に優しく笑ってるんですか?
 どうして私の事からかうんですか?

 でも聞いちゃいけない。
「矢部さん、仕事はいいんですか?」
「優秀な部下がおるからえーんや」
「その優秀な部下に追い越されますよ」
「無理無理」
 聞いたって、どうせいつものように流されるだけだ。
「分からないですよぉ〜」
「オレを追い越すんは絶対無理や」
「どっからくるんですか、その自信は」
 
 店を出たのは、暑さもおさまった夕方ごろ。空が赤らみはじめた頃。
「どうもご馳走様でした」
「えーよ、礼は。オレが好きでやった事や」
「や、矢部さん優しいと気持ち悪いんですけど」
 暑さはおさまっているが、それでも特有の熱気に、思わず眉をひそめる。
「じゃぁ礼を要求したるわ」
「えっ、さっき何もいらないって言ったじゃないですか」
「大した事やない、今度お前の手品、オレに教えろや。宴会芸に使えそうなやつ」
 店を出てから、何となく同じ方向に歩いていく。
「宴会?むしろ私を呼んでくださいよ、その宴会に」
「会費取るで」
「あ、遠慮します」
 不意に立ち止まる。
「矢部さん?」
「今度でえーから、今日はもう帰りぃ」
 あぁ、ほら、その顔。
「まぁ、いいですけど」
「ほな、今度な」
 お互いに踵を返して、背中合わせに歩き出す。あの顔、ですよ。あの、優しそうな、嬉しそうな…でも、寂しそうな。
 少し歩いたところで、目前のデパートの大きなショーウィンドウが目に入った。群れる人並みの影を映し出す、ガラス。
 
 二つの眼が私を見ている。

 どうしてですか?
 どうしてそんな目で、私を見るんですか?
 もしかして私の事…

 気付いちゃいけない、聞いてはいけない事のような気がした。

「でっかい目…」

 小さく呟いて、奈緒子は歩き出す。その視線に気付かないようにすたすたと早足で。今もまだ、二つの眼は彼女を捕らえて離さない。
 いや、離せない。






題と関係ないストーリーでした。
片想い第二弾(笑)


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