「 愛 色 遊 戯 」



 目が覚めて、これはまずいと思った。
 なんと言うか、ひどく…まずい夢を見てしまったから。
「なんつー…」
 言葉が後に続かないのは、あまりにも信じがたい、願望を表した夢だったからかもしれない。
 心なしか紅潮した頬に手を遣ると、熱を帯びていた。
「あっかんなー…」
 頬に手を当てたままで、しばらく布団から抜け出せなかった。


 ─── 遊戯。
 (遊び戯れる事)
 ─── 戯れる。
 (面白がって遊ぶ、ふざける、冗談を言う、みだらな事をする、男女がいちゃつく)


 パタン…机の上に開いていた国語辞典を、矢部は慌てて閉じた。心臓がバクバク鳴っている。
「矢部さん?何やってるんですか?」
 矢部のその行動を不審がって、菊池が茶色い髪を揺らしながら斜め上から覗きこんできた。
「うっさい、覗くな!」
 その菊池に、矢部は斜め下から豪快に拳を突き上げパンチをお見舞いした。
「あいたっ?!何するんですかー、ちょっと見ただけなのに…」
 殴られた事に気を取られ、菊池は気がつかなかった。矢部の頬が僅かに赤くなっている事に。
「うるさい言うとるやないか、はよどっか行け」
「ちぇっ、つれないなぁ…」
 そっけない矢部に気をそがれたのか、菊池はぶつぶつと文句を言いながら部屋を出ていった。後には、矢部が一人。いつの間にか、他の同僚たちも仕事に出ていってしまったようだ。
「最後の二つは…やばいんちゃうか?」
 思わず、頭を抱えてしまう。


 みだらな事をする、男女がいちゃつく。


「いちゃつくはまだ許せる、そやけど…」
 でもその前の、みだらな事をするという一文が頭から離れない。
「みだらって…」
 押さえたはずなのに、再度頬が紅潮していく。
「あーアカンアカン、何考えとんのやっ!」
 自分に言い聞かせるように、矢部はバンッと机を豪快に叩いて席を立った。が、どこかに用がある訳では無い…大きく深呼吸をしてから、改めて腰を下ろした。
「オレは阿呆やな…」
 はぁ…と大きなため息をわざとらしくついて、自分を嗜める。けれど、一度頭の中に思い描かれた映像は、そう簡単には消えてくれない。
「こらあくまでオレの勝手な妄想や、実際そうとは限らんやないか…忘れろ忘れろ」


 夢の中で、彼女は艶やかな髪を揺らし迫ってきた。
『矢部、さん』
 迫られるがままに、手を頬に遣り、髪に触れた。
『クスクスクス』
 くすぐったそうに笑いながら、彼女は答える。真っ白い、てらてらした布っ切れで出来てるキャミソールから覗く脚や腕や、肩の白さが眩しくてどきどきした。
『ね?』
 何かを問うてくる眼が、黒曜石のように艶めいた輝きを放ち、猫のように体を寄せてくる。
『ほら、ね?』
 だが、欲望に流され抱き寄せようとすると、気紛れに逃げる。本当に、猫のようだ。
『ふふ、クスクスクス』
 何度もそれの繰り返し。ようやく伸ばした手が掠め取ったのは、その華奢な体ではなく白いキャミソールの裾。滑るような触感に、煽られるかのようにその身を抱きしめた。
『きゃぁ』
 共に柔らかいマットの上に倒れ込んだ時、あまりに顔が近くて、思わず顔を逸らしてしまった…多分それがいけなかったのだろう。


 所詮は夢なのだと思い知らされるかのように、無常にもそこで目が覚めてしまったのだ。
「あ〜〜ぁ、あぁ…」
 歌うようなため息、頬杖を付いて見遣った窓の向こうには、薄いグレーの雲。
「遊び、戯れる…か」
 もし、あの時、目が覚めずにいたら…自分はきっと、あの体を欲望のままに抱いていただろう。だから、今思えば目が覚めて良かった。
 夢とはいえ、そんな事をしてしまえばこの気持ちは押さえが効かなくなる。実際に触れたいと思ってしまうだろうし、もっと先を求めてしまう。正直言って、それが怖い。
 ───トゥルルルルル…
「ん?」
 唐突に、電話が鳴った。室内にいるのは矢部ただ一人…仕方なく受話器を取って耳に押し当てた。
「うぉ〜い、公安五課ぁ」
 気だるそうな声に、電話の向こうの人間は少し呆れたように、用件だけを告げた。
「あー、はい、わかりましたわ、ほな」
 簡略的な遣り取りの後、静かに受話器を置く。
「あいつはホンマ、しゃぁないねんなぁ…」
 小さく息をついて、おもむろに、机の上に無造作に置かれた携帯電話を手に取った。付き合いづらい相棒に、外回りの連絡だ。


 そこは小さな公園。寂れた野外ステージの脇に、彼女は立っていた。
「お前はホンマに勉強せぇへん奴やなぁ」
 彼女の隣には、紺色の制服を着た交番勤務の警察官。なかなか屈強そうな体付きだ。
「今日は一人なんですか、東大はどうした」
 彼女…奈緒子は、むすっとした表情のままでちらりと矢部を伺いながら、ボソッと口を開いた。
「知るか。寒いから外回りは嫌ですとか言い腐りやがった…使えん部下や」
 オレかて寒いの嫌やねん…と続けて、小さく肩をすくめた。
「へぇ〜〜」
 やる気なさそうに、ふて腐れた表情奈緒子の声を聞きながら、矢部も大きく息をつく。
「まぁえーわ。ほな、後は任せてもらえまっか?」
 矢部の言葉に頷くと、制服警官は引継ぎを終えてその場からいなくなった。後に残されたのは、奈緒子と矢部。
「…さむっ」
 ひゅうひゅうと吹く冷たい風に、奈緒子は思わず身をすくめた。長い黒髪が風に乱されてぐちゃぐちゃだ。
「ホンマや、こないなトコ、長くはおれへんな」
 こっちに来いと続けて、矢部は唐突に歩き出した。奈緒子が慌てたように後を追う。
「どこ行くんですか?」
「どこだってここよりゃマシや」
 カーキ色のトレンチコートのポケットに両手とも入れたままで、スタスタ先を急ぐ。落ち着いた先は、公園の脇にある小さな団子屋。
「くは〜、あったまるぅ…」
 店内の奥に、小上がり。なんだか懐かしい感じの藍染めの座布団に、奈緒子と矢部は向かい合わせに腰を下ろしていた。奈緒子は両袖を少し伸ばして、湯のみを手に満面の笑顔を浮かべている。
「お前はお手軽やな…おばちゃん、みたらし二皿」
 矢部はコートを脱ぎながら、店頭に立つ女性に声をかけた。
「あっ、あとつぶ餡こし餡も二皿ずつ!」
 負けじと追加注文する奈緒子を、矢部は呆れながら見つめた。
「誰が金払うと思うとんねんっ、少しは遠慮せんかボケェ!」
「もう頼んじゃいましたもーん。わーい、矢部さんのおごり★」
 はぁ、と息をついて、足を崩しながら矢部は苦笑をうかべ、自らもお茶をすすった。少しして、注文の品が運ばれてきた。
「おぉ、うまそうな団子だ。いただきまーす」
 早々と手をつける奈緒子をよそに、矢部は黙ってお茶を口に含む。
「おいしい〜、しあわせ〜」
「そら良かったな」
 はき捨てるような矢部の言葉に、奈緒子は団子を口に運ぶ手を休めた。そして矢部を、見つめ返す。
「って、矢部さんは食べないんですか?」
「お前の勢いに負けて食う気失せたわ、気にせんと全部食ってえーぞ」
「えっ、本当ですか?やった!」
 ぱくぱくぱくと、後は一気に平らげる。はー、食った食ったと満足そうに笑う奈緒子を見て、矢部はようやっと口を開いた。
「で?」
 ただ、一言。
「で…って?」
 食後のお茶をすすりながら、奈緒子も返した。
「弁解を聞いたる言うてんねや」
 途端にむっとした表情になる奈緒子、野外ステージの脇に立っていた時の表情と同じだ。


 公安五課にきた電話は、矢部を名指していた。なにやら一騒動あったようで、その当事者が、頼むから矢部を呼んでくれと制服警官に言ったらしい。。
 髪の長い、貧相な小娘…連絡を受けた警視庁の交換手は、制服警官の言葉をそのまま矢部に伝えた。もちろん騒動の内容も。女が、中学生くらいの少年に喧嘩を吹っかけていたという。
「だって、あの中学生がぶつかってきたせいで、バイトでもらった肉まん、地面に落としちゃったんですよ!」
 たまたまその辺を見回っていた、近くの交番の警察官が間に入ってきたという。
「だからってお前、チュー坊相手に胸ぐらつかんでってのはやりすぎとちゃうか?」
「あり得ません!まだ一口しかかじってなかったんですからっ!」
 その言葉に、呆れるしかなかった。けれど、ぷりぷりしながらお茶を飲む奈緒子を見ていると、微笑みたくなる。
「お前の食い意地は、何やコワイもんがあるなぁ…」
「当たり前ですよ!あのガキ…今度会ったらぶっ殺してやる…」
「あぁ、そやったらしばらくはお前の後つけて、殺人の現行犯で逮捕やな」
 むかむかしていた奈緒子の表情がきょとんとしたものになり、訝しそうに矢部の方を窺う。
「冗談ですよ」
「わかっとるがな」
 お互いに顔を見合わせて、クッと、おかしそうに笑った。
「なんか、今日の矢部さん、変ですよ?」
 くすくすと、無邪気に笑う奈緒子。
「呆れとんのや」
 腕を伸ばし、笑いこける奈緒子の髪をぐしゃぐしゃと掻き撫で答える。一瞬怪訝な表情を浮かべる奈緒子だったが、ふっと笑み、矢部のその手を払った。
「やめてくださいよ、さっきの風ですでにぐちゃぐちゃなんですから」


 ふと気づく。こういうのも、遊び戯れると言う事に当てはまるんじゃないかな?と。
「どうしたんですか?」
 ひょいっと、奈緒子が髪を整えながら顔を覗き込んできた。テーブルを挟んではいるが、ちょっと近い。
「何や、お前、顔が近いで?そんなにオレにチューしてほしいんか?ん?」
「なっ、ちっがいますよ、何言ってんですか…あ、どっかのネジでも外れたのか?」
「ロボットやあるまいし…ネジって何やねん」
「ネジはネジですよ、ほら、その下にあるんじゃないですか?ネジの抜けた場所が…」
 奈緒子の指先が矢部の頭部を差していて、今度は矢部がむっとする番だ。
「やめぃっ!」
 きゃはは、と女子高生のようなきゃらきゃらした笑い声。夢の中での艶めいたものとはまるで違うけど、そんな奈緒子に自分は恋をしたんだと思うと、どうにもくすぐったい。
 ともすれば、それは無邪気そのものなのかもしれない…


 自分にはこれで十分だ。夢の中のような、色っぽい関係じゃなくていい。いや、むしろこれでいい。
「真面目な顔して、何考えてんですか?」
 何もついていない串を咥えて首を傾げる奈緒子、再度顔を覗き込まれて苦笑する。
「なーんも考えとらん」
「ふーん」
 つまんなそうな表情…うん、これでいい。ふざけあったり冗談を言い合ったり、時にはじゃれてみたり。
「何や、お前まだ食い足りないんか?」
「ええ、実はそうなんです…って、何言わせるんですか。これじゃぁまるで私、食い意地の張ったがめつい女みたいじゃないですか」
「みたいやのーて、まんまやんけ」
 意味合いは違くても、これは遊戯。
「う…」
 むー…と口ごもる奈緒子を見て、笑う。そんな自分が少し、不思議だ。
「しゃぁない奴や、そんだら今日はもう無罪放免、実際は未遂やしな。取り調べも終わった事やし、最後に肉まん一個買うたるわ、未練が残っとるんやろ?」
「え?な、何で考えてる事が分かるんですか?もしかして読心術?」
 おもむろに立ち上がり、清算を済ます矢部の後ろについて奈緒子は店頭に並べられた団子を名残惜しそうに見つめた。
「読心術なんて大層なもんなくても、お前の考えとる事くらい誰にでも分かるっちゅーねん。お見通しや。っちゅーか、土産の団子を買えとかいうような目で見るなや」
「あぁ、づらっとお見通しってわけですか。いーですよーだ、ケチンボ」
「づらとか言うなぼけぇ!」
 二人並んで、店を出て歩き出す。近くのコンビニに行こう、肉まんを買いに。
「づらっとですよ、づらっと」
「繰り返すなっ!」


 うん、これでいい。だって、なぁ?楽しいやないか。






矢山片思い第3弾、矢部妄想編(笑)
「遊戯」の意味を調べていたら、面白いように筆が進んだ…です。
何かこう、小さな幸せを噛み締めてる矢部さんって感じです。
実は次のネタも決まってる。んー、題は何だったっけ?

2004年11月12日


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