★第一話★


 眩しい陽射しと、小鳥のさえずりで奈緒子は目を覚ました。そこは池田荘の自分の部屋で、しっかり布団の中に入っていた。
「あぁ、やっぱり、夢だったんだ…」
 ほっと息をついた時、ダンダンダンと、玄関の戸を叩く音がして、奈緒子はフラフラと戸を開けた。
「山田〜、起きたのかい」
 池田荘、大家のハルが、ひどい訛りで口を開いた。
「あ、大屋さん。おはようございます」
 家賃は三ヶ月先まで、上田に払わせていた事を思い出し、にこやかに応対した。
「おはようございますじゃないわよぉ、全くあんたったら、それでも年頃の女かい」
「え、何の事ですか?」
 何の事かと首をかしげると、ハルは呆れたように大きなため息をついた。
「あんた、昨夜アパートの前に倒れこんで寝てたのよ」
「えっ…」
 そこでやっと、自分が服を着たままだという事に気が付いた。
「ゆすっても叩いても全然起きないし、真っ青な顔してたから、あたしとジャーミィで部屋に運んで、布団まで敷いてあげたんだから」
 ハルの声を聞きながら、チクリと痛む肩を、空いた手で掴んだ。
「あ…あぁ、そうだったんですか、どうりで…昨日はちょっと疲れてて、ご迷惑おかけしました」
 努めて明るく言ったつもりだったが、顔は笑っていなかった。それでもハルは、訝しげながらも納得し「そうかい」と言って自分の部屋へと戻っていった。
「夢じゃ…ない」
 ハルが去ってから、奈緒子は着ていた服を脱ぎ、鏡で自分の肩を見てみた。小さな、針を刺したような痕がある。
「なんで、なんで上田さんを…」
 微かに震える肩を押さえ、奈緒子は服を全部脱ぎ、新しい服に着替えた。もしかしたら…ふとある考えが頭を過ぎり、今日はバイトを休んで科技大を訪ねる事にした。
 もしかしたら、自分は本当に疲れていて、アパートの前で眠りこけて、それで嫌な夢を見たのかもしれないと。針の痕は知らない内に虫に刺されたのだろうと、淡い期待を抱いて。
 ──コンコン。大学に到着した奈緒子は、行き慣れた上田の研究室に足を向け、戸をノックした。反応はない。
「上田…さん?」
 恐る恐るノブを回すと、カチャリ…という音がして、戸は開いた。室内はいつもと同じ。窓にはブラインドカーテンがかかっており、隙間から陽射しが入り込んでいる。黒いソファの応接セットも、バーカウンターも、ごちゃごちゃ本やレポートなどが置かれた机も、全くいつもと変わらない。
 いつもと違う点は一つだけ。この部屋の主である、上田がいない事だ。
「授業中…かな」
 少しだけ待ってみようと、奈緒子は応接セットのソファに腰を下ろした。ところが一時間経っても、二時間経っても上田は戻ってこない。とうとう、最後の授業が終わる時間帯が過ぎても、上田は戻ってこなかった。
 ドクドクと、嫌なリズムで脈打つ心臓を押さえつけ、奈緒子は研究室の電話に手を伸ばした。まず上田のマンションの番号を押した。けれど、虚しく響くコール音は十回目で留守番電話に切り替わった。
「上田…私だ、山田だ。コレ聞いたら、聞いたら…矢部さんの携帯に電話かけろ!いいな!」
 今ほど携帯電話が欲しいと思った事はない。ガクガクと震える手で、今度は机の上に散らばっている書類の中から科技大の封筒を探し出し、事務局の番号を押した。
『はい、日本科学技術大学、事務局です』
 女性の柔らかい声が聞こえ、奈緒子は呼吸を整えながら口を開いた。
「あの、山田と申しますが、そちらの…物理学の上田次郎教授を、お願いします」
『少々お待ちください』
 受話器からエリーゼのために♪が流れ出し、少しして校内放送がかかり、上田の名前が呼ばれた。それが数度繰り返されると、受話器から流れていたメロディが止まり、先ほどの女性の声が聞こえた。
『申し訳ありません。上田教授は、本日大学を休んでおりまして…』
「そう、ですか。ありがとうございます」
 一層強くなる震えに耐え切れず、受話器を置いた途端に、奈緒子は床に膝をついた。
「どうしよう…」
 まだ最後の望みがあると、奈緒子はもう一度電話に手を伸ばした。手が震える為、番号を正しく押せずに何度も間違えた。
「あぁ、もう…お願い治まって」
 何度も息をつき、十数回目になんとか間違えずに正しい番号を押し、受話器を耳に押し付けた。
「お願い、早く、お願い…」
 数秒のコール音の後、声が聞こえた。
『はい、愛と正義の警視庁、公安の矢部です〜』
 明るい関西弁が聞こえ、奈緒子はほんの少しだけ、胸が軽くなった。
「あの、矢部さん?山田ですけど」
『なんや、お前か。上田センセーかと思たわ』
「あの、上田さんから、電話きてませんか?」
『あ?きてへんけど…お前アレやろ、センセーの研究室にいるんやろ?センセーそこにいるんとちゃうんか?』
 ──ガコッ…矢部の言葉を聞いて、最後の望みまで打ち砕かれた事を知り、奈緒子の手から受話器が落ちた。
『うぁ?!何や今の音…どうした?山田?おーい…?』
 床に叩きつけられた電話の受話器から、矢部の声が聞こえ、奈緒子は慌てて拾い上げた。
「あ、ごめんなさい。受話器落としちゃって…あの、上田さんから電話あったら、私の家にかけるように伝えてくれませんか?」
『何でオレがそんな伝言板みたいな真似せんとあかんのや。あのな、オレはいっぱい事件抱えてて忙しいんや。お前人をこき使いすぎやで…』
「あ、やっぱりいいです。かわりに…上田さんの居場所、捜しておいてください」
『だから忙しいっちゅーとるやろが、ボケッ!』
 矢部と話しているうちに、奈緒子は落ち着いていく自分を感じた。
「お願いします、矢部さんしか頼る人、いないんです」
 今は…そうだ。こういう事はやはり、本職の人間に任せるのがいい。
『ったく、しゃぁないな…今回だけやで』
「ありがとうございます…」
 それでも、あれが夢だとはまだ言い切れない。今も、不安で胸が押しつぶされそうになる。
『なんや、山田、お前…何かあったんか?』
「え…?」
 突然受話器の向こうから、矢部が心配そうに言った。
『追い込まれとるよーな声やで、どうした?』
「…あの、とりあえず、お願いした件、片付いたら話します」
『ほぉか?まーえぇわ、じゃぁな』
 願わくば願わくば、矢部が上田の居場所を突き止めてくれますように…奈緒子は帰る道すがら、必死で祈った。

つづく
 
   


■ 入口へ ★ 次項へ ■
(前のページに戻る時は、ブラウザの戻るをクリックしてください)
サイトINDEXに戻る
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送