★第7話★


 展望台を離れて五分ほど経ってから、矢部はふと思い立って懐から携帯電話を取り出した。
「菊池、ケータイの電源…切っとけよ」
「え、何でですか?」
「今はこっちに集中せなあかんやろ」
「あぁ、そうですね」
 赤信号で停止したのを幸いと、菊池は上着の内ポケットに手を入れ、携帯電話を取り出した。矢部はメールをチェックしている。
 奈緒子は後ろの座席で、仕事を休ませてしまった二人に悪いな、と思いつつ、それを口に出すのはやめた。
「あの、矢部さん…」
 菊池がおどおどと口を開いた。
「なんや?」
「今手がけている事件の事で、メールが来てるんですけど…」
「緊急か?」
 複雑そうな表情の菊池をよそに、矢部はメールで淡々と何かを打っている。
「緊急という程ではないんですが、取調べ中の参考人にマエがあったとかで」
「だからどうしたっちゅうねん、公安の刑事はオレらだけやないんや。むこうに任しとき」
 メールを打ち、送信も終えたようで、矢部はそう言いながら携帯電話の電源を切った。
「そう…ですね」
 しぶしぶと、菊池も続いて携帯電話の電源を切ってそれを鞄に入れた。信号が青に変わり、車が動き出した。
「あと二十分ぐらいやろ?」
「こっちの道は思ったよりガラガラだったから、予想より早く着きそうですよ。ざっと見積もって、十分くらいでしょう」
「そうか…山田、大丈夫か?」
「え…えっ?なんですか?」
 突然話をふられ、奈緒子は慌てて顔をあげた。矢部が背もたれ越しに奈緒子の方を見ている。
「さっきから黙って…具合でも悪いんか?」
「酔いました?」
 菊池もバックミラー越しに様子をうかがった。
「あ、いえ、大丈夫です」
「そうやろな、お前、車酔いするほど繊細ちゃうもんな」
「失礼なっ!酔った事ぐらいありますよ」
「ほぉ…いつや?」
「えっと、長野にいる頃に、お正月のお神酒を盗み飲みして…」
「お前…それ意味がちゃうやろ」
「えへへへ」
 奈緒子の笑い声に、矢部は呆れてため息をついた。車は順調に山を降りていく。こんなに肌寒い時期なのに、木々の緑がいやに眩しい。と、突然視界が開けた。
「あ…」
 目の前に広がったのは、あの湖。
「本当に綺麗な湖ですよね」
「あ、菊地さんもそう思いました?不思議なくらい綺麗ですよね」
「ホンマやな、吸い込まれそうや」
 菊地の言葉に、奈緒子も矢部も、目を細めて同意した。
「十時前には到着やな…着いたら軽く何か食べとこうか」
 湖が目前に迫って、矢部がふと口を開いた。
「そうですね、小腹も空いてきましたし」
「え、さっき駅弁食べたばかりじゃ…」
 菊地の呆れる声に、奈緒子は苦笑を浮かべた。
「昼までに事が済むかわからへんからな、何事も先を読んで行動するのが刑事や、覚えとき」
「あぁ、なるほど…」
 矢部の刑事論というものは、なかなか的を得ているようでちょっと面白いな…と、奈緒子はぼんやり思い、矢部の後頭部を眺めた。
「山田、何か食べたいものあるか?」
「えーっと…焼肉とか」
「…お前はそればっかやな。軽くや、軽く。菊池は?」
「僕は何でも構いませんよ、そんなに入りそうにないし」
「いいじゃないですか、焼肉を軽く食べましょうよ」
 もう随分食べていないなと思いつつ、奈緒子は身を乗り出して矢部の肩をつかんだ。
「痛いんじゃ、ボケ!ってか焼肉は軽く食うもんちゃうやろ」
 随分強く掴んでしまったようで、不機嫌そうに顔をゆがめて、矢部は奈緒子の手を払った。
「あ、すみません、つい…」
 エヘへ、と笑う奈緒子を一瞥し、矢部は何か考え始めた。
「ここは無難に蕎麦やな、ジャパニーズヌードルや」
「お蕎麦…質より量で勝負ですね」
「どんだけ食べる気やねん!まぁ、えぇわ…菊池、とりあえずそれなりの店見つけたら車入れろ」
「はい、分かりました」
 すぐに店を見つけたようで、菊池はその店の駐車スペースに車を滑り込ませた。
「ほぉ〜、ええ趣の店やないか」
「隠れた名店って雰囲気がしていいですね」
 車を降り、店を眺めながら矢部と奈緒子が思い思いに言った。古い日本家屋のような、なかなか立派な建物だ。
「お前、質より量とか言うたら失礼やで」
「じゃぁ質と量を…」
「あほ…」
「早く入りましょうよ、二人とも」
 奈緒子と矢部の遣り取りを、菊池が入口付近で眺めながら言った。店内に入ると、どっしりとした落ち着いた雰囲気で、奈緒子は思わず気後れした。
「いらっしゃいませ、三名様ですか?」
 奥から店員が現れた。三人をそれぞれ見て、ちょっと顔をしかめている。無理もない、この顔ぶれはなかなかに異様だ。
「はい、三人です。あ、禁煙席でお願いします」
「かしこまりました、こちらへどうぞ」
 案内されたのはなぜか個室で、掘り炬燵式の座敷だ。それも結構広い。
「三人だけなのにこの広さって、なんか緊張しません?」
 奈緒子がそっと矢部に耳打ちした。
「お前みたいな貧乏人は、こーゆう店に縁がないからなぁ…だいたいこんなもんやで」
 どかっと上座に座りながら矢部は応えた。
「メニューが決まりましたら、そこのボタンでお知らせください」
 そう言いながら店員が座敷を離れたので、奈緒子と菊池も、お互い向かい合うような形で席に着いた。
「貧乏で悪かったな!えーっと、どれから食べようかな…いっ?!」
 メニューを開いて、思わず声が出た。
「なんやねん、変な声だしよって…」
「ざる蕎麦一枚三千円って…これ、桁違いませんか?」
 目を真ん丸くして、メニューを食い入るように見る。
「三千…ちょっと高いなぁ…」
「そうですか?僕が家族とよく一緒に行く店も、こんな感じですよ。ちょっと安いかな?」
「安い?これが??」
 菊池は金持ちのボンボンだと言っていた矢部の顔を窺いながら、奈緒子はとりあえずてんぷら蕎麦を頼む事にした。
「金額見て遠慮せんとこがお前らしいな…オレは鴨南蛮」
「じゃ、店員さん呼びますね」
 結局菊池はカレーうどんを注文したようで、五分くらいで物が来た。
「「「いただきます」」」
 声を揃えて食べ始める…
「ウマイっ!やっぱ高いだけありますね」
「名店やな」
「そうですね〜」
 十分もかからず完食した後、矢部は「ちょっと…」と言って席を外した。
「美味しかった〜、帰る時もまた食べたいですね」
「そうですね、帰りは四人で」
 何も考えていなさそうな菊池の一言に、奈緒子は心がちくりと痛んだ。
 ──上田さん…ご飯食べてるかな?
 無事でいてくれればいいと、改めて思った。

つづく
 
   


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