★第9話★


 管理人の男性が用意してくれた遊覧用のボートは、ごくごく普通の木製の、手漕ぎのボートだった。何とか四人乗れそうな大きさだ。
「岸に着いたら、ボートが流されないように、近くの木とかにロープを結んでね」
「はい、どうもありがとうございます」
 奈緒子が礼を言うと、男性はそっと近付いて耳打ちした。
「女の子は君一人なんだから、気をつけるんだよ?」
「あぁ、はい、ありがとうございます」
 苦笑しつつ再び礼を言い、菊池と矢部に続いてボートに乗り込んだ。
「よし、菊池、漕くで!」
「はい!」
 矢部の一言を口火に二人はオールを持って漕ぎ出した。
「矢部さん、さっきの…ハンドルネームの件なんですけど、テジナってなんですか。そのまんまじゃないですか」
 手持ち無沙汰な奈緒子は、とりあえず矢部を相手に話しはじめた。
「他にこれといって、思いつかへんかったんやもん、しゃぁないやないけ」
 矢部は漕ぎながらなので、息をつきながら答える。
「そんな事言ったって、捻りなさ過ぎです」
「なんや、そやったら、ヒンニュウの方が良かったか?」
「おいっ!そうじゃなくて…美人マジシャンとか、他にあるじゃないですか」
 膨れながら矢部を睨むが、それくらいじゃ矢部はひかない。
「お前、自分を過剰評価しすぎや。もっと謙虚に生きなあかんで」
「矢部さんはちゃっかりヤベチャンとか言っちゃってさ〜」
「オレはヤベチャンや、それ以外ないやろ」
 矢部の一言に、奈緒子は意地悪そうに口を開いた。
「ありますよ。テューペィ…とか」
「…っぶ、山田さんうまいですね」
 奈緒子の発言に、菊池は思わず吹き出した。
「なんやテューペイって」
 矢部だけ首をかしげる。
「スペルはTOUPEEですよ、矢部さん」
 クスクス笑いながら菊池が言う。
「TO…?」
 片手でオールを漕ぎながら、逆の手で携帯電話を取り出し、検索し始めた。そして数分後…
「あほかっ、お前うるさいんじゃ!ほっとけっ!」
 涙目で奈緒子をキッと睨みつけた。菊池はまだ口元を押さえて笑っている
「お前も何がうまいじゃ、そんで笑いすぎや!しっかり漕がんかいっ」
 全くもって和やかな雰囲気だ。ちなみに矢部が携帯電話で検索した結果はというと…

     ── toupee
     男性用の入れ毛・かつら (Pi-PPA英和辞書より)

 である。携帯の画面にそれが出た途端、矢部の顔色が青ざめたのはいうまでもないだろう。
 さて、ボートは思ったよりも進まず、矢部と菊池の二人はこの寒い中、汗をかきながら一生懸命オールを漕いだ。
「あ、あの辺じゃないですか?管理人のおじいさんが言ってた岸って」
 ようやくそれらしい岸辺を見つけたものの、そっちに向かうのがまた難しい。
「お前はえぇなぁ、乗ってるだけで」
 矢部はだいぶ疲れてきているようだ。
「男性が二人もいるのに、か弱い女性の私が漕ぐわけないじゃないですか。頑張れ矢部!もうすぐだ!」
「矢部さんやっ!ちゃんと敬称つけんかい!」
「矢部さん、ちょっと休んでてもいいですよ?僕一人でやってみますから」
 あまりに矢部が息を切らしているので、見かねた菊池が口を開いた。見た目より体力があるらしい。
「そーか?じゃぁ頼むで」
 矢部はオールを漕ぐ手を止め、大きく深呼吸した。
「矢部さん、大丈夫ですか?やっぱ年?」
「ちょっと疲れただけや、オレはまだまだこれからや」
 奈緒子の皮肉的な発言を受け流しつつ、何度も深呼吸する。そうこうしている内に、ボートが岸に着いた。
「私、先に下りますね」
 奈緒子が立ち上がり、よっと言いながら岸に下りた。そのままロープを持って、岸辺に突き出ている木の棒にそれをくくりつけた。
「お前って意外に体力あるんやな、ただのぼっちゃんキャリアかと思ってたけど」
「若いですからね」
 矢部と菊池もボートを降りた。
「さぁて、これからもうひとふんばりやな」
 矢部の言葉を聞き、これから進むのであろう道を見つけた。ほとんど獣道といってもいいだろう。
「この崖の上にあるんでしょうね、洋館」
 そして菊池の言葉に、岸からそそり立つ崖を見上げる。
「結構ありそうですね、高さ」
 三人揃って見上げているその様は、どうにも可笑しい。
「まぁ、行くしかないやろ」
 矢部が先陣をきって歩き出したので、菊池と奈緒子もそのあとに続いた。
「うっ…帰りたくなってきた」
 突然菊池が言った。何事かと振向くと、丁度道が始まる辺りで立ち止まって、顔を歪ませている。
「どうした?東大」
 奈緒子が声をかけると、申し訳なさそうに口を開いた。
「靴…汚れますよね?」
「は?」
 その発言の意味が分からず、奈緒子は思わず自分の足元に目をやった。ここ数日、雨は降っていないようで、土は乾いている。
「ここまで来て潔癖症発揮すなっ、ボケ!はよ来んと先頭歩かせるぞ」
「はぁ…」
 潔癖症なんだ、コイツ…奈緒子がぼんやり思っていると、菊池は恐る恐る、一歩だけ踏み出した。
「大丈夫ですよ、菊地さん。そんなに汚れそうにないですから」
「そう、ですか?」
 奈緒子に言われ、もう一歩恐る恐る足を踏み出す。先に進まない…
「だー、何のろのろしとんじゃい!山田!そいつオレの後ろに出せ、引っ張るから」
「あぁ、はい、わかりました。ほらほら、私の前を歩いてください」
「うっわわわ」
 奈緒子が腕を引っ張ると、菊池は嫌が応にも歩かざるを得ず、泣きそうな顔でフラフラと奈緒子の前に出た。
「ほな行くで」
 やっと道に入った菊池の腕を今度は矢部が掴み、三人はのろのろと歩き出した。
「何や、オレだけ倍疲れる…」
 いやいや歩く菊池の腕を掴んでいる矢部が、ため息混じりに呟いた。
「すみません…」
「そう思ぉてるんならちゃきちゃき歩かんかい」
「はぁ…」
 前を歩く二人の遣り取りを聞きながら、文句も言わずについて来てくれたことを、奈緒子は心の中で感謝するのと同時に、さっさと歩け東大!と思った。
 ──ピロ♪ピロリロ♪突然軽快なメロディが響いた。
「あ、メールや…」
 パッと菊地の腕を放し、矢部はコートのポケットから携帯電話を取り出した。
「矢部さん、電源切っておいたのと違うんですか?」
 菊池が不思議そうに聞くと、矢部は届いたメールを読み、何か打ちながら答えた。
「さっきボートの上でアレの意味調べるのに電源入れて、そのまんまやったんや」
「へぇ…」
 カチカチと何か打ち、そして再びコートのポケットにそれをしまう矢部を見ながら、菊池はやっと自分の意思で道をちゃんと歩き始めた。

つづく
 
   


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