★第10話★


「山田さん、ちょっと聞きたいんですけど…」
 奈緒子の前を歩く菊池が、矢部には聞こえないよう小声で言った。
「なんですか?」
 矢部には聞かれたくないのだろうかと、奈緒子もなんとなく小声で答えた。
「さっきボートで言ってたテューペィなんですけど、学校とかじゃ教えてもらわない単語ですよね、よく知ってましたね」
 思わず肩の力がガクッと抜けた。
「あぁ、それですか…上田さんの研究室に置いてあった和英辞書で調べたんですよ、いつか使えるかな〜とか思って」
「はは、そうなんですか」
 まさか今日使うとは思わなかったと奈緒子は続け、ふと矢部を見遣った。じろりとこっちを見ている。
「あ…聞こえました?今の…」
 恐る恐る訊ねると、矢部はフイと顔を前に戻し、小さく答えた。
「聞こえへんけどオレに関する事やろ、そんな気がする」
「あ、はは、そうですか…そんな事ないですけど、ね」
 気まずい空気が流れる中、十分ほどして矢部が立ち止まった。奈緒子は最後尾にいるので、どうして立ち止まっているのか分からない。
「矢部さん?もしかして怒ってるんですか?」
 さっきの事を思い出しながら声をかける。
「別にそんなんちゃうわ、ここで道終わりやから、知らせようかな思て立ち止まったんや」
「道が終わる?」
「洋館の、まん前に出るで」
 そう言いながら、矢部は一歩ずつ前に踏み出した。神妙なその態度に、なぜかざわつく胸を押さえながら、菊地とその後に続いた。
 急に前が開けて、奈緒子は心臓が止まりそうなほど驚いた。矢部と菊池の肩越しから見たその洋館は、道すがら新幹線の中で見た夢で見たのと、全く同じ外観だったから。
「洋館っていうより、お城みたいですね」
 菊池の呟く声が耳に入り、奈緒子はがくがくと震えた。
「石レンガの外壁かぁ、ここに住んどった富豪っちゅうんは、大金持ちやったんやなぁ。オレもこんな別荘欲しいわ」
 同意を求めようと振向いた矢部が、奈緒子の様子に気付き駆け寄る。
「どうした?具合悪いんか?」
 奈緒子はその場に膝をつき、真っ青な顔で、今にも泣き出しそうな表情で、がくがくと震え続けている。菊池も慌てて駆け寄った。
「山田さん?」
「…知らない、私は何も知らない。何も、知らないっ」
 うわ言のように呟く。
「恐いんか?オレかて恐いん我慢してるんやで、一緒や」
 小さな子供を宥めるかのように、矢部は膝を折って目線を合わし、優しく言ったが奈緒子は首を左右に振った。
「これから何が起こるか不安なんですか?」
 菊池が矢部に続き声をかけたが、それにも奈緒子は首を横に振るだけで、何も答えなかった。
 ──何であんな夢を見たの?心の中で自問自答する。奈緒子が今感じているのは、恐怖でも不安でもない。自分に対する、嫌悪感。
 霊能力なんて存在しない、超常現象なんてありえない。そう言っているはずの自分自身に、未来予知のような力がある事に対する、不信感。
「しっかりせえっ!」
 静かな森に、突然矢部の声が響いた。驚いて顔をあげると、矢部は怒ったような恐い表情で、奈緒子を見つめている。
「や、矢部さん?」
 菊池もその横で、驚いたように矢部を見ている。
「オレはこれから何が起こるんか、恐いし不安や。お前かてそれはあるやろう、その気持ちはよう分かる。でもお前はそうじゃないとか首振る始末や、じゃぁ何に怯えてんねん?オレはお前やないから、その気持ちまでは察せへんやで。支えたくても、それも出来へん…」
「矢部…?」
 奈緒子は、こんなに真剣な矢部を見るのは初めてのような気がして、目を丸くした。
「そやから…しっかりせえ言うんや。お前が上田センセーを早く助けたい言うたんやろ、そやからオレは、手ぇ貸してるんや。お前が上田センセーしか信用してない言うんなら、黙っててもええから、ちゃんと前を向け」
「そんな…」
「オレらには言えないんなら、言わんでええから、せめていつもみたいにオレらを先導せぇよ…」
 矢部は段々と声を小さくしながら、最後には呟くように言った。
「矢部さん、私…」
「あぁもう、自分で何言うてるかわからんなってきた」
 首の後ろをガシガシとかきながら、矢部は顔を背けた。
「ご…ごめんなさい」
「謝らんでええ、オレもなんか、イライラしてた」
「いえ、ごめんなさい。私、一人で悪い事ばかり考えて、自分一人だけ怯えて…恐いのも不安なのもあるのに、矢部さんと菊地さんの事、全然考えてませんでした」
 立ち上がり、奈緒子は膝についた土を払いながら言った。
「山田?」
「私だけが悲劇の主人公のようで…本当にごめんなさい」
 深々と頭を下げて、奈緒子は目を固く閉じた。そしてこぼれそうな涙を振り払うように顔をあげて、いつものぎこちない笑顔を浮かべ、改めて口を開く。
「矢部、東大…行くぞ!」
 スタスタと洋館に向かって歩き出す奈緒子を見ながら、矢部は苦笑した。菊池は唖然としている。
「なっ…立ち直り早いやっちゃな、呼び捨てすんな言うとるやろがっ!」
「いいからいいから、ほら、早く早く」
 なぜかは分からない。あんなに全身を包んでいた恐怖は、もう無かった。震えもおさまり、前を向いていられる。矢部の存在がこんなにも心強かったのだと、奈緒子は感じた。
 洋館を囲う黒い鉄柵の門は鎖で鍵がかけれれているようだが、その鍵は外れていた。三人はそこで立ち止まり、改めて洋館全体を見遣った。
 大きな観音開きの扉の高さから見て、それぞれの階は天井が高い事をうかがわせる。3階の上がバルコニーになっていて、4階部分が一回り狭くなった作りのようだ。
「つい見とれてしまったわ…」
 ふと矢部が口を開いた。奈緒子と菊池もはっとした。
「あ、私も見とれてました」
「僕も」
「なんやろな、不思議な感じや…」
「そうですね、とりあえず入ってみましょうよ」
 奈緒子が先陣を切って門を抜け、扉に手をかける。
 ──ギギギギ…重々しい音と共に、扉は割りと簡単に開いた。中は薄暗い。
「おじゃましまーす…」
 小さな声で呼びかけながら、そっと中に入る。中は異様なほど静かだ。
「静かですね」
 奈緒子の後ろで菊池が言った。
「ホンマに出そうやな…」
「恐いのか?矢部」
「当たり前や…ってか何べん言わせるんやお前は。オレはお前よかずーっと年上なんやで、呼び捨てやめろっ」
 静かな屋敷内に、矢部の関西弁が響いた。
「しーっ、静かにしてください」
 注意した奈緒子を睨みながら、お前のせいや!と矢部は小さく呟いた。
「それはどうでもいいですから、先に進みませんか?」
 奈緒子と矢部の遣り取りを見ていた菊地が小さな声で言った。
「それもそうやな」
 少し進むと、二階に続く階段を見つけた。
「…上行くか?」
 階段の前に立ちすくむ奈緒子に、後ろから矢部が声をかける。奈緒子は少し何かを考えて、自信なさ気に口を開いた。
「えと…地下室とか探しませんか?」
 出来る事なら妖術使いとは対面したくない。それなら例の夢を頼りに、上田を見つけるのが先決だろう。
「地下室?そんなもんあるんか、ここ」
「え?えっと…ほら、大富豪の住んでたお屋敷ですよ、秘密の地下室とかありそうじゃないですか?」
「あぁ、勘やな。お前勘だけは結構鋭いトコあるからな」
「僕の家にもありますよ、地下室」
 今まで静かにしていた菊地が、爛々と目を輝かせて言ったので、矢部と奈緒子はほぼ同時に菊池の顔を見るべく首をぐるりと捻らせた。

つづく
 
   


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