★第12話★


 銀縁の眼鏡を一度外し、グレーのハンカチで拭いた後、中年男性はそれをかけ直し、矢部を見た。
「奇遇?」
「自分は今有給休暇中でして、ここには観光で来てるんですよ。課長もですか?」
 フン…と鼻で笑いながら、警視庁公安課長の伊藤は矢部を睨むように見つめ、口を開いた。
「有休で観光?いい身分だな、君は。幾つか事件を持っていなかったか?」
「あー、あれはですね…若い奴に勉強させる為に任せてるんですよぉ」
「君より優秀な刑事は沢山いるからな」
 壁越しから様子を窺いながら、奈緒子はどうにも妙な空気が流れている事を察知した。
「またまた〜、課長は冗談がお好きですな」
「まぁいい、君は山田奈緒子という女性を知っているだろう」
 突然自分の名前が出たので、ドキッとしながら頭を陰に戻した。
「えぇ、まぁ…」
「科技大の上田教授とよく一緒にいる女性だ。君も何度か行動を共にした事があったな」
「はぁ、確かに」
 なぜここで自分の名前が上がってくるのか疑問に思いながら、再び壁越しに様子を窺う。
「その女性を我々は今探している」
 伊藤の他、五人の若い男性が矢部の前に集まった。全員スーツを着ていて、矢部の顔見知りの刑事たちだった。
「山田を探しとるんですか?」
 一体なぜ?と首を捻る矢部に、一人の若い男がきつい目つきで何か紙を見せた。
「山田奈緒子は、先にも述べた上田教授殺害の容疑で指名手配されております」
「はぁっ?」
 若い刑事の言葉に、矢部は思わず素っ頓狂な声を上げた。奈緒子も声を上げそうになり、慌てて自分の手で口をおさえた。
「矢部くん、君は彼女と一緒なのではないのか?」
「いや、そんな事より課長、上田センセーが殺害って…それホンマですか?」
 首を左右に振りながら、矢部は伊藤に詰め寄った。
「恐らくな。遺体は発見されていないが、ある人物からのたれこみ情報だ」
「遺体発見されてへんのに殺害されたって…それ本当に信用できる情報なんですか?」
 詰め寄る矢部に思わず後ずさりながら、伊藤は一呼吸置いて口を開いた。
「君はそんなガセかもしれない情報で、この私が動くとでも思っているのか?」
「あーいやいや、滅相も無い。ただどうにも納得がいかんゆうかなんとゆうか…」
「君の意見など今はどうでもいい…そういえば君は一人なのか?誰かと一緒ではないのか?」
 冷たい視線を感じ、奈緒子は肩を小さく震わせ、辺りを見渡した。
「いえ、一人ですよ…」
「ほぉ、そう言い張るのか。確か菊池くんも今朝から急用だとかで有休をとっていたな…」
 それを聞いて、菊池は身を縮こませた。矢部の表情も僅かに曇ったように見える。
「いや、自分一人です」
 そう言い切りながら、矢部は自分が今どんな顔をしているのか、見たくないと思った。きっと酷い顔をしているだろう、冷や汗まで出てくる。なんだか嫌な予感がする。
「どこにいるんだ、菊池くん!出てくるんだ!」
 伊藤が声を荒げたので、奈緒子の横で菊池は肩を大きく震わせ、恐々と奈緒子の方に目を向けた。
「しっ、そのまま」
 この状況は、まずい。そう直感した奈緒子は、矢部に言われた言葉を思い出しながら、どうしようか迷っている菊池を囁くように制止した。
「出てきなさい!君は官僚候補だろう、犯罪者に荷担するとどうなるか分かっているんじゃないのか?」
 犯罪者…奈緒子の事だというのはすぐに分かった。なぜかは分からないが、伊藤は本気で奈緒子が上田を殺害したのだと思っているようだ。
「課長!本当に自分一人ですて、一人でのんびり英気を養おー思てまして…」
「君は黙っていろ!おい、ここを徹底的に捜索しろ!」
「「はい!」」
 伊藤の声に、五人の刑事たちが一斉に散ったので、矢部にはそれを止める事が出来なかった。
「菊池さん、こっち…」
 近付いてくる足音に、奈緒子は菊池のコートの袖を掴んで窓の開いている部屋に逃げ込んだ。
「山田さん、どうしましょう…僕ら」
「しっ!」
 古びた木製のクロゼットの中に入り込み、息を潜めていると、バタバタと外で足音が聞こえた。
「菊池さん、本当にごめんなさい。巻き込んでしまって…」
「いえ、僕は…」
 暗闇で小さく奈緒子が謝ると、菊池はとんでもないと言うように、同じく小さな声で答えたが、何だか言いよどんでいる。
 ──カチッ、カーン、カーン、カーン…突然大きな鐘の音が辺りに響いた。
「う、わっ?!うるさ…」
 奈緒子は思わず耳をふさいだ。どうやらこの洋館の四階部分には大時計があるらしい、外観からは見えなかったが、その時計の鐘が鳴っているのだ。
「こんな時に…」
 矢部も両手で自分の耳をふさいでよろけた。ふさいでいるものの、鐘の音に混じってかすかにオルゴールのようなメロディが聞こえる。仕掛け時計らしい。
「廃墟のくせに…」
 奈緒子が小さく呟いた瞬間、菊池が奈緒子の腕を掴んでクロゼットを飛び出した。
「え?き、菊池さんっ?」
 鐘の音もオルゴールのメロディも止まっていたが、菊池の様子がおかしい。息を潜めるでもなく、半ば乱暴にバルコニーに出る。腕を払おうとしたが、かなりの強い力で掴まれている為、それも出来ない。
「課長!」
 そして大声で伊藤を呼ぶ。
「ばっ、菊池、お前…」
「やはりいたか。菊池くん、彼女をこっちに連れてきたまえ」
 焦る矢部を余所に、菊池は伊藤の声に従い、奈緒子の腕を引っ張る。
「ちょっ、菊池さん?どうしちゃったんですか?」
「何してるんや菊池!」
 咄嗟に駆けてきた矢部が強引に菊池の手を払いのけ、奈緒子は自由になったが、この状況が最悪な事に変わりは無い。
「何って…上司の命令ですから」
 うわ言のように呟く菊池の顔を覗き込むと、虚ろな目つきだ。その時にふと気付いた。再び一箇所に集まった伊藤と五人の若い刑事、そして菊池と、七人とも口調や足取りはしっかりしているのに、目つきが怪しい。
「矢部さん、これって…もしかしてピンチですか?」
「もしかせんでもピンチやろ。菊池の奴、一体どないしたっていうねん」
 じりじりと詰め寄られながら、奈緒子と矢部は言葉を交わす。
「さっきの、鐘とオルゴールの音が聞こえた時から急にあんな風になったんですよ」
「あぁ、仕掛け時計みたいな音やろ?オレは耳ふさいでたからかすかにしか聞こえへんかったけどな」
「矢部さんも耳ふさいでたんですか?」
「やかましかったからな」
 操られてる?鐘の音とオルゴールの音色に何か仕掛けを?ふっと七人に目を遣りながら、奈緒子は考えを巡らせた。
「矢部くん!何をしているんだ、君は刑事だろう、彼女をこっちに寄越すんだ」
「そうですよ矢部さん、さぁ!」
 七人が口々に言う中、奈緒子と矢部はじりじりじりと追い詰められていく。
「矢部さん、皆様子が変ですよ。もしかして妖術使いに操られているのかも」
「操る?そやかて、菊池はさっきまで普通やったやないか」
「時計ですよ。さっきの時計に何か仕掛けが施されていて、集団的に催眠術をかけてるんです」
 菊池の変貌振りといい、六人の刑事の妙な雰囲気といい、恐らく間違いないだろう。
「そうかもしれへんな、課長があーゆう風になるん、初めて見たし」
 矢部は納得したように頷いたが、七人が催眠術にかけられているという事実がわかっても、状況は全く改善されない。
「もう後が無いぞ、大人しくこっちにきなさい」
 伊藤が、手のひらを返すように優しく奈緒子に声をかけた。その言葉通り、もう後は無い。矢部と奈緒子は、バルコニーの終わりを示す段差になった部分を踏みしめていた。
「あかんな…」
 ──ピラリラ〜♪矢部が小さく呟いた時、どこかから電子音が聞こえた。携帯電話の着信メロディのようだ。それは聞き覚えのある、ある刑事ドラマのテーマソング…
「何だ?誰のだ?」
 ざわつく空気の中、矢部が奈緒子の前に一歩踏み出した。
「矢部さ…」
 ──ドンッ…不思議そうに声をかける奈緒子の肩を、矢部は軽く押した。思わず奈緒子は後ろに足を下げ、気付く。そこに地面が無い事を。
「え…?」
 フワリと、ほんの一瞬だけその軽い体が宙に浮いたような錯覚に襲われ、状況を把握するのに時間がかかった。
「あっ!」
 矢部以外の全員が息を飲む中、絶望という名の縁で、奈緒子は一人取り残されてしまったような気がした。

つづく
 
   


■ 入口へ ★ 次項へ ■
(前のページに戻る時は、ブラウザの戻るをクリックしてください)
サイトINDEXに戻る
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送