★第17話★


「上田さんっ!」
「上田先生、しっかりするんじゃっ」
 奈緒子と石原が同時に声をかけたが、上田はうなだれたまま何の反応も示さない。
「上田先生っ!」
 石原が上田の体を大きくゆすった時に、それは起きた。上田はうなだれたままの状態で突然立ち上がり、一瞬ホッとした表情になった石原を勢いよく突き飛ばしたのだ。石原の体は豪快に飛び、柵にぶつかった。
「う、わぁっ?!」
「えっ、石原さん?!上田、何して…」
 何が起きたのか理解する間もなく、次は横にいた奈緒子に、上田は手を伸ばした。
「きゃぁっ?!」
 その大きな上田の手は、奈緒子の細い首を捕らえていた。その勢いで後ろへと倒れ込み、上田は奈緒子に覆い被さるような体勢になった。
「う…ぐっ…」
 体の大きい上田、それだから、力も普通の人よりはあるはずだ。それが今、奈緒子の首を締めるために使われているとは、誰も予測できなかった。
「っつ…う、上田先生?!何しちょる…いてて」
 突き飛ばされた拍子にどこか打ったのか、石原も動けないでいた。ただ奈緒子が上田に首を締められている様子を、見ている事しか出来ず歯を食いしばった。
「何や?何が起きた?!石原ぁっ」
 上で起きている状況が分からない矢部が叫ぶ。
「あ、兄ィ!こっちに来てつかぁ!大変なんじゃ、上田先生が姉ちゃんの首締めちょるんじゃ」
 石原は何とかしようと体に力を入れるが、どうしても動けないので、出せる限りの大声で矢部を呼んだ。
「な、何やて?センセーが…」
「馬鹿どもが、だからやめろと言ったのに…あの男は術にはかかったが、暴走しやすいから繋いでいたのに…」
 妖術使いが小さく唸った。
「そぉゆう事はもっと早くに言わんかいっ!菊池、ここ頼んだで!」
「え、あ、はい…」
 菊池に妖術使いを任せ、矢部はテラスに向かうべく全力で走り出した。だがこれでは間に合わないだろう。
「くっ…うぐ…」
 呼吸器官が圧迫され、息が出来ない。苦しくて、何が起きているのか理解できない。奈緒子は何とか片目を開けて、自分が置かれている状況を理解しようと試みた。目の前にいるのは自分の首を締めている冷たい表情の上田…
「う…えだ…」
 その目は、先ほどの菊池や伊藤たちと同じように虚ろで、操られているというのがすぐに分かった。
「こ…の、た…んじゅん、ばか上田っ!」
 叫ぶのと同時に、奈緒子は右手をじゃんけんのチョキの形にして、思いっきり上田の目を突いた。
「うおぉぅっっ!」
 それは見事にヒットし、上田は痛みのあまり奈緒子の首から手を離し、床に転がって悶えた。
「えほっ、げほげほっ…」
 喉を押さえ、咳き込みながら立ち上がったが、足元がふらついている。それでも奈緒子は、少し離れた位置で両手で目をかばい、床の上を痛みで転げ悶えている上田の方に向かって歩き出した。
「姉ちゃん待つんじゃ、今兄ィが来るからそれまでこっちに…」
 奈緒子の身を案じて石原は言ったつもりだったが、すぐに口をつぐんだ。奈緒子が何かをしようとしているのが、見て取れたから。
「ぐっ、つ…」
 奈緒子は上田が仰向けになった時に、お腹の辺りの座る形で乗っかり、上田にとって身動きが取れないような体勢になった。
「上田…さん」
 そして目を押さえる手をよけ、上田の頬を両手で覆うように掴んで持ち上げると、奈緒子はじっとその顔を見つめた。上田はまだ目が痛いのか、涙の滲んだ目をしょぼしょぼとしばたき、そこにいる人物を見定めるようにしている。
「上田さん」
 かすれる声で、奈緒子は上田の名前を呼んだ。上田はそれにより、自分の上にいるのが奈緒子だと言う事を理解したのか、目を細めて奈緒子の顔を見つめようとした。虚ろな眼差しのまま。
「上田さん」
 奈緒子の瞳から、雫が零れ落ちた。上田の顔に。
「ただの顔見知りなんて、嘘ですよ?」
 石原は詳しい事は聞いていなかったので、奈緒子が何を言おうとしているのか分からなかったが、それはとても、美しい光景だと思った。
「やめ…ろ」
 奈緒子の言葉に、上田が少し反応を見せた。目の前の全てのものを振り払うかのように、奈緒子の手をも払おうと腕を動かす。
「上田さんっ!」
 ポロポロと、雫が幾つも上田の顔に零れ落ちる。奈緒子は振り払われないようにしっかりと上田の顔を支え、上田の額に自分の額をこつんと当てた。
「上田さんは…」
 そのまま奈緒子は無理やり微笑みながら、囁くように続けた。
「私の一番大切な人なんですよ」
 伝わればいい。直接自分の口から、普段は決して言えないような事だけど、この言葉には嘘も偽りも、誤魔化しも無い。ただただ素直な気持ちなのだからと、奈緒子は笑顔を崩さないように、一度額を離した。
「ねぇ上田さん」
 奈緒子の言葉を聞きながら、上田は抗う事もやめ、ただぼんやりと、奈緒子の瞳から溢れて零れ落ちてくる涙を見つめていた。なぜ奈緒子が泣いているのかも分からず、壊れたマリオネットのように。
「ねぇ…一緒に、帰りましょうよ」
 最後の言葉を口にして、奈緒子は上田の顔に自分の顔を寄せた。石原の目にはまるで、それはおとぎ話の中の、毒林檎によって死の眠りに落ちた白雪姫に、その死の呪いを断ち切る口付けを落とす王子のような印象に映った。
 ──戻って、お願いだからいつもの上田さんに戻って…そう強く願いながら、フワリと自分の唇を上田の唇に合わせた。その瞬間、地下全体の空気が僅かにびりびりと震えた。だがそれに気付く者は誰もいない。
 奈緒子が上田から顔を離した時になって、ようやく矢部が肩で息をしながらこの場に到着した。
「な…なんや、この状況は」
 ボソリと呟いた矢部の声の反応するかのように、上田の手が伸びた。
「YOU…」
 上田の小さな囁きが耳に届いたかと思うと、その長い腕が奈緒子の背中に回り、そのまま奈緒子の体をきつく抱きしめた。
「上田さん…戻ったんですか?」
 その様子に、奈緒子は確認するために上田の腕を振り払い、先ほどと同じように両頬を支えて顔を見つめた。上田の顔は涙で濡れている、けれどこの涙は、奈緒子がこぼしたものではない。上田自身の瞳から溢れた、悲しみの涙。
「YOU、俺は…」
 悲しそうに顔を歪めてはいるものの、その目は、確かにいつもの上田の眼差しだった。奈緒子の瞳から、一気に涙が溢れ大粒の雫がポロポロとこぼれた。
「上田っ…」
 そして今度は奈緒子の方から、上田をきつく抱きしめた。
 ──戻ったんだ。上田さんが元に戻った…嬉しくて涙が止まらない。その様子を少し離れた所で、矢部と石原が微笑ましい表情で見ていた。
「何やよう分からんけど、万事解決やな」
「兄ィ、愛の力は偉大じゃのぉ。ワシ、感動して涙が…」
 石原は本当にうっすらと涙を浮かべている。呆れながらも暖かい眼差しを、矢部は石原に向けたのだが…
 ぐらぐらと足元が揺らぎ、石レンガの壁からパラパラとレンガの欠片が落ちてくる。
「な、何や?」
「や、矢部さん!!」
 下から、妖術使いを押さえているはずの菊地の声がした。矢部は様子を見るためにテラスに移動したのだが、目に映ったのは、菊池ただ一人。
「菊池!お前、妖術使いはどうしたんや?」
「それが、押さえつけていたはずなのに、気付いたらいなくなってたんです!」
 菊池は全くもって不思議そうな表情で、妖術使いが絡まっていた網を調べている。
「いなくなったんはいつや?」
「今ですよ、大きくここが揺れたのとほぼ同時でした」
 段々崩れが激しくなってきて、矢部は嫌な予感がして辺りを見渡した。
「菊池…先に階段の部屋に戻っとれ、何かヤバイで…」
「え?あ、はい…」
 菊池が走っていくのを見送り、すぐに石原の元に駆け寄った。
「お前、大丈夫か?立てるか?」
「さっきは背中強く打ったんじゃけ立てんかったけど、今はもう大丈夫じゃけぇ。それより、兄ィ、何かおかしいのぉ、屋敷全体が揺れてるようじゃ」
「お前も感じとったか、オレもそう思ったんや」
「矢部さん…?どうしたんです?」
 奈緒子もその異様な雰囲気に気付き、不安そうに顔を歪めた。
「山田、上田センセー立てそうか?」
「上田さん、どうです?」
 矢部に問われ、すぐに上田自身に確認を取るが、上田は首を横に小さく振りながら唸った。
「体が、重い…」
 矢部の耳のもそれが聞こえたようで、矢部はすぐに上田の腕を自分の肩に回して支えた。
「ここ、崩れるかもしれへんで。妖術使いもいつの間にか逃げよった…俺らも早く出んと…」
「あ、はい」
 逆の腕を自分の肩に回し、奈緒子と矢部の二人で上田を支える形になった。石原はまだどこか痛いのか、ふらつき気味だ。そのまま四人は急ぎ足で、菊池同様に、元来た道を戻った。

つづく
 
   


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