★第19話★


 奈緒子はずっと目を閉じていた。テラスから飛び降りる瞬間も、湖面に体が叩きつけられた時も、身動きの取れない上田と一緒に沈んでいく時も。
 さっき、術にかかり暴走していた上田に首を締められていた時も苦しかったが、今も苦しい。どんなに足掻いても体はどんどん沈んでいくし、酸素が欲しいのに周りは水しかない。しかも時期が時期だけにかなり冷たい。
 あぁ、死じゃうかもしれない…固く目を閉じたまま、奈緒子は繋がっている上田の手を握り締めながら思った。だが突然、引っ張られる感じがなくなったので、驚いて目を開けた。
 この湖は、水中も美しいのだなと場違いな事を思ってしまったのだが、次に目に映ったのは、自分と上田の腕を繋ぐ赤いマフラー、手はつながれたままだ。上田を抱えるように持ち上げている菊池の姿も見つけ、奈緒子はほっとした。と、突然逆の腕を強く引っ張られた。掴んでいるは石原だ。
 ──ザパァッ…四人の頭が一斉に湖面に浮かんだ。
「う、上田先生重い…」
 菊池がガボガボと唸った、上田を抱えているのだから無理もないだろう。
「姉ちゃん大丈夫かいの?」
「えぇ、まぁ。…矢部さんは?」
 周りを見渡したが、奈緒子たちの後に飛び降りたはずの矢部の姿は見当たらなかった。
「あ〜、兄ィはのぅ…アレがのぅ、ちょっとのぉ…」
 その問いに、石原が苦笑いを浮かべて妙なリアクションを取ったので、奈緒子はピンときた。
「アレですね…だから押さえて飛べって言ったのに」
「まぁそーゆうわけなんじゃけど、今はボート取りに行っちょるよ」
「ボート?」
「ワシらがボートの方に向かって泳いで、兄ィがワシらの方にボート持ってくれば、時間半分節減できるじゃろ?」
 石原はいつにもましてニコッと爽やかに微笑んだ。よく見ると、水に濡れてしまったせいか、ポマードで固められていたオールバックがくずれてしまっている。
「それもそうですね…」
 見慣れないものが珍しいのか、会話しながらも奈緒子があんまりじっと見ているので、石原は気恥ずかしそうに手櫛で髪をかきあげて、無理やりオールバックに慌てて直した。
「姉ちゃん、腕繋がったまんまじゃ泳ぎ辛いじゃろ?ほどいたらどうじゃ?上田先生はワシと菊池で支えるけん」
「あ、大丈夫です。手、離したら気が抜けちゃいそうで、むしろ危ないんですよ」
「そぉか?菊池はどうじゃ、大丈夫か?」
「先輩、僕は大丈夫じゃなさそうです…重くて」
「仕方のない奴じゃのぉ…分かったけぇ、代っちゃるから」
 来る時はあんなに元気だったのに、菊池はこの短い時間にすっかり疲れてしまったようだ。石原と上田を支える役を交代すると、ぐったりしながらもなんとか先陣をきって泳ぎ始めた。
「上田さん、大丈夫ですか?」
 さっきから一言も口を開かない上田を心配し、奈緒子は声をかけた。
「あ、あぁスマン…何だか体痺れて…」
 本当にすまなそうな表情で言うので、奈緒子は黙って微笑んで、前を向いた。丁度その時、向こうの方に影が見えた。ボートの影だ。
「あれ、ボートじゃね?」
「そうみたいですね…」
 多分矢部だろう…
「おーい!お前ら大丈夫かぁ?」
 声がして、つい笑みがこぼれた。一生懸命漕ぐ矢部の姿は、こうして見るとなんだか妙でおかしい。
「兄ィ!こっちじゃぁ」
 石原が、ボートから顔を覗かせる矢部に手をバシャバシャと振った。
「石原!水しぶきあげるな!」
 豪快に水を被って、奈緒子が不機嫌になる。
「あ、すまんのぉ」
 ボートは一度、勢いで奈緒子たちを通り過ぎてしまったが、今度はゆっくりと近付いて、湖面に静かに止まった。
「上田さんを先に上げましょう?」
「そうやな。オレが引き上げるから、お前らで持ち上げろ」
「あ、兄ィ、その前に姉ちゃん上げてからの方がえーと思うんじゃ。手、繋がったまんまじゃけん」
 上田を引き上げようとした時、石原が慌てて口を開いた。
「ん?何で繋がったままやねん…ほどきたないんか?」
「えぇ、まぁ…」
「しゃぁないな、ほな先に山田来い」
「はい、すみません」
 矢部が手を伸ばしたので、とりあえず掴んで引き上げて貰い、奈緒子はボートの中に転がり込んだ。腕が繋がっているので、次はそのまま上田を引き上げる。
 体の自由が利かない人間の体は、とても重い。ボートからは矢部と奈緒子が引っ張り、下からは菊池と石原が懸命に押し上げ、上田の体は引き上げられた。ぐったりしている。
「上田さん、大丈夫ですか?上田さん?」
 いつの間にか意識を失ってしまっていたようだ、ぐったりとしたまま目を閉じている。奈緒子はそこで、やっと二人の腕を繋ぐマフラーを解いた。そして着ていたコートを脱ぎ、上田の下に敷いてやった。
「上田センセー、大丈夫そうか?」
「さっき、体が痺れてるって言ってたんです。だから妖術使いに痺れ薬か何か打たれたんでしょう、大丈夫ですよ」
「そうか、そら良かった…しかし問題が起きたな」
 一瞬ホッとした矢部の表情が崩れたので、何事かと奈緒子は首をかしげた。
「元が四人乗りやろ、このボート…」
 今乗っているのは三人なのだが、上田を横にしている為、もう乗るスペースがないのだ。
「あ…」
 矢部の言葉の意味に気付き、慌てて湖面に目をやる。そこには石原と菊池が、苦笑いを浮かべたままそこにいた。
「だ、大丈夫ですか?」
「ワシらは大丈夫じゃけん。ほら、このロープ掴んどるけ、早ぉ岸に行こう」
 石原は掴んだロープを見せて笑ったが、菊池は泣きそうな顔のままうなだれてしまった。元が潔癖症なので、こういう状況も嫌らしい。
「考えたって解決策もないな、ほな行くで」
 そして矢部はオールを漕ぎ始めたのだが、一人では結構辛いらしい。
「矢部さん、私も手伝いますよ」
「おう、頼む」
 奈緒子もオールを漕ぐのを手伝ったが、女手には少しきつい。だが後ろの方でロープにつかまっている二人の事を考えると甘い事も言えないので、一生懸命漕いだ。気付くと、空はうっすらと赤く染まっている。漕ぎながら腕に目をやる…
「5時…」
「あ?何や?」
「あ、いえ…もう5時なんだなぁと思って…」
「もうそんな時間か?どおりで夕日が目に痛い思たわ」
 そう言いながら、矢部はぎょろっとした目を何度もしばたいた。しばらくして岸辺に着くと、管理小屋から男性が飛び出してきた。
「君達!どうしたの、そんな格好で…」
 五人ともずぶぬれなので、その言葉にも頷ける。
「あの…」
「廃墟の洋館が崩れましてね、命からがら逃げてきたんですよ」
 男性の問いには、奈緒子を遮り矢部が答えた。
「崩れた?!」
「えぇ、豪快にね。明日にでも警察寄越すので、あまり近寄らんようにしはってくださいね」
「警察?」
「あぁ、申し送れましたが、自分、こーゆう者ですんで」
 矢部は濡れそぼった上着から警察手帳を取り出し、男性に見せた。
「警察のお人でしたか…あれ?人数増えてない?」
 湖から上がる二人と、まだボートに横たわる上田の姿に気付き、男性は目を丸くしながら言った。
「向こうで落ち合った知人なんですよ、気にしないでください」
 この後は男性に協力してもらいながら上田を管理小屋に運び、矢部は電話を借りて警察に連絡を取ったりしていた。
「君等、大丈夫?そのままだと風邪ひくよ」
 男性はどこかからTシャツやらの衣服を用意してくれた。
「あ、そういえば私、着替えの服持ってきたんだった…東大、車の鍵!」
「はい、どうぞ」
 奈緒子は一人小屋を離れ、駐車場に置いてある空色のワゴンアールに走った。周りに人影も見当たらなかったので、車内で着替えを済ませ、小屋に戻って目を丸くした。

つづく
 
   


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