[ 第4話 ]


 それは、もう随分と前の事だった。
『矢部、お前、今どこにいるんだ?』
 道の脇に設置してある公衆電話のボックスの中で、矢部は受話器を耳に押し当てていた。
「それが、自分でもよぉ分からんのですよ」
『なんだと?じゃお前…道に迷ったって事か?』
「はぁ、まぁ…分かり易く言うとそぉなります」
『何が分かりやすく言うとだよ、仕方ねーなぁ…』
「はぁ、すんません」
 矢部は公衆電話に向かって、ちょこんと頭を下げた。
『ったく…したらよ、今日はもういいから、帰っていいぞ。どうせ迷ってんなら、その辺の地理とか覚えろ』
 受話器の向こうで、不機嫌そうな声が聞こえたかと思うと、ガチャン…と切られてしまった。
「あっちゃぁ〜、先輩、呆れてたぁなぁ…そやけど帰っていい言われても、どこやねんここ、ホンマ。どぉやって帰ればえーんやろ?」
 受話器を置くと、矢部は辺りをキョロキョロ見渡しながら、頭をガシガシと豪快に掻いてため息をついた。
「しゃぁないなぁ、ちょっと歩いてみるか」
 そう呟いて、電話ボックスを後にする。しばらく歩いて、何となくこの町の全貌を感じとる事が出来た。大きな公園を軸にして立ち並ぶ家々、まったく普通の町のようだ。
 その時ふと、一件の家に目が行った。ごくごく普通の、大きくも無く小さくも無い、ありきたりな家。それでも目が行ったのは、多分、石壁の塀からグッと伸びた、大きな桜の木のせいだろう。
「コレ、桜の木やないか…立派やなぁ」
 塀の下に立ち、矢部は木を見上げた。まだ時期が早いので花は咲いていないが、矢部の手が届く位置の枝に、蕾がちらほら見える。
「一週間くらいで咲くかなぁ…」
 枝を折るつもりではなかったが、つい、腕を伸ばす。
「あっ」
 蕾に触れようとしたその瞬間、頭上から小さな声が聞こえ、矢部はそっちの方に目を向けた。と、同時に目に映ったのは、落ちてくる女の子。
「うっわ?!危なっ」
 咄嗟に受け止めたが、その拍子に矢部は地面に背中をついてしまった。
「いったたた…」
 腕にその子を抱いたまま、矢部は唸る。
「ふぇ…」
 そしてきょとんとしていた女の子は、矢部の腕の中で、急に泣き出した。
「えっ?お、おい嬢ちゃん、どないしたんや?どっかぶつけたんか?」
「うぇ〜ん…」
 戸惑う矢部をヨソに、わんわん泣き出す。明るい栗色の髪がサラサラ揺れた。
「楓?どうした?」
 泣き声を聞きつけたのか、塀の向こうからそんな声がし、この家の主と思しき男性が出てきた。
「あっ…お、お父さんですか?」
「そうですが…?」
「おとぉさーん」
 女の子が泣きながら男性の元へと走っていく。男性は女の子を抱きながら、矢部に手を貸して立たせた。
「その子、急に落ちてきよって…」
「え?あっ、楓!また木に登ったのか?」
「ごめんなさ、い…」
 しゃくりあげながら謝る女の子の頭を優しく撫でながら、男性は矢部に向き直った。
「すみません、娘が…背中、大丈夫ですか?」
「え?」
 矢部は背中を軽く打ったらしく、まださすっていた。
「娘を助けてくださってありがとうございます、どうぞ、うちで休んでいってください」
「そぉですか?じゃ、ちょっと、お邪魔しますわ」
 その男性に誘われるまま、矢部はその家の正面玄関に向かって歩いた。途中、ちらりと表札に目をやる。
 ──椿原。
「どうぞ、こちらに…」
「あ、どうもどうも」
 促され、家に足を踏み入れる。男性は居間のソファに矢部を座らせると、女の子を下ろし、奥に行ってしまった。
 女の子はまだしゃくりあげている。
「あー…大丈夫か?」
 たまらなくなって声をかけると、女の子は矢部の方に、涙に濡れた顔を向けた。少し時間を置いて、コクンと頷く。よく見ると、とても可愛らしい少女だ。
「えー子やな、もう木に登ったりしたらあかんよ?危ないからな」
 未だ背中をさすりながらも優しく言うと、女の子は、またもコクンと頷いた。そして、何を思ったのか、矢部の膝の上にちょこんと座った。
「おじちゃん、ありがと」
 涙を拭うと、ニコッと笑って口を開いた。
「お、おじちゃん?!あっかんわぁ、オレ、まだピチピチの20代やで。おじちゃんは勘弁してぇな」
 膝の上に座られた事も、笑顔でおじちゃんと呼ばれた事も、矢部にとってははじめての経験で、思わず声が上ずった。
「おじちゃんじゃないの?」
「あんなぁ、26歳のこないにえー男捕まえて、おじちゃんはないやろ」
 無垢な眼差しに、つい笑みがこぼれた。
「じゃぁなーに?」
 少女は首をかしげる。
「楓。あぁ、すみませんね…お茶、どうぞ。妻が出かけていて、大してお構いも出来ませんで…」
「あ、気にせんでください…お茶、頂きます」
 奥から、男性が湯飲みを一つと、小さなマグカップを持って戻ってきた。湯飲みの方を受け取り、お茶をすする。
「楓、お兄さんに迷惑だろ、おりなさい」
「やー、かえ、ここがいー」
「楓!」
「やー」
「あ…えーですよ、別にこのままで」
「そうですか?すみません…」
 結局女の子は矢部の膝の上で、マグカップを受け取り、ホットミルクを飲みだした。
「あぁ、失礼しました。僕は、椿原元光(もとみつ)と言います」
「オレ、あ…自分は、矢部謙三と言います」
「かえねー、つばきはらかえー」
 一息ついたところで、三人がそれぞれに自己紹介をした。もちろん矢部の膝の上の少女も。
「楓だろ?もう一回言ってごらん?」
「つばきはらー、かえです。ごさいです」
 小さな手を広げて、少女…楓は改めて自分の名前を口にしたが、きちんと言い切れていない。
「かえちゃん言うんや、ちゃんと年も言えて、偉いなぁ」
「えへへー、矢部のおじちゃんは、いくつ?」
「さっき26って言うたやん…そんでおじちゃんって…オレ、そんなに老けて見えますかねぇ?」
 楓の言葉に落ち込みながら、矢部は椿原に向かって訊ねた。
「そんな事ありませんよ、まだ小さいから…楓、おじちゃんじゃなくて、おにーさんだろ?」
「おにーちゃん?」
「そやな、謙三にーちゃんって呼んでみ?」
「う?」
 楓は首をかしげる。
「う?やのーて、謙三にーちゃん、や」
「ケン、おにーちゃん」
 カクッと肩が崩れる矢部。まぁいいか、と微笑み、楓の頭を撫でた。
「かわえーですねぇ」
「えぇ、一番可愛い盛りですよ。でも悪戯もしだす年頃なので、心配はつきません」
「あぁ、そうやろなぁ、木に登って落っこちてきよるくらいですからねぇ」
 楓の髪の毛をくしゃくしゃと撫でて、矢部は笑う。
「そうそう…楓、頼むから、もう登ったりしないでくれよ?」
「はーい」
「お、かえちゃん、えぇ返事やなぁ。そいじゃぁにーちゃんとも、約束してや?」
「やくそく?」
 矢部はすっかり、この無垢な少女を気に入ってしまったようだ。
「そや、木に登ったり危ない事せぇへんって」
「うん、いーよ。じゃぁ、ケンおにーちゃん、かえと遊んでくれる?」
「えーよ、ちゃんと約束してぇな?」
 楓も、関西弁を話す矢部に興味を抱いたらしい。すっかり懐いてしまったようだ。
「やったぁ!じゃぁかえと、ゆびきりげんまんね」
「よしよし、そやな。じゃぁ、ゆーびきーりげんまーん♪」
 膝に楓を抱いたまま、二人は小指を固く結び、歌いだした。
「うそついたーら、はりせんぼーんのーます、ゆびきった♪」
 指を切り終わると、元光を含め三人は顔を見合わせ、和やかな雰囲気の中で笑いあった…


 つづく


あらぁ〜…回想だけで一頁使っちゃいましたわ(苦笑)
まぁ、とりあえず、こうゆう関係なんです、矢部と楓は。
コレがきっかけで知り合い、オトモダチになったわけですねぇ…
オリジナル設定万歳です!あ、ちなみに若かりし頃(26歳)の矢部くんは、お帽子を装着しておりません。地毛です。ホンマもんの、頭の皮から直に生えている物です(笑)
2004年3月13日(My Birthday!!)

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