[ 第102話 ]


 真実はいつも、正しいとは限らない。いつかどこかで誰かが言っていたような気がする。それでも、悲しいと思わずにいられなかった。
「その手紙、あんたが持っててくれないか、矢部さん」
「え?」
 涙が出そうで、唇をかみ締めていた矢部に土原が言った。
「俺は…この後どうなるかわからないしな。ただ、知ってしまった以上はそれなりの事をするつもりなんだ。それが俺の、罪の償い方だと思う。だけどその手紙を持っていると、迷いそうになるから」
 一度顔を上げた矢部は、土原の細めた目を見てから視線を手元に移した。それは、海老名修司の手紙ともう一通。
 蔵内の告白文。
「そう、ですか」
 海老名修司の手紙はとても短かったが、迷いのないまっすぐな文面だった。ただ簡潔に、土原を慕っていた事と、自分の心の弱さと、病気の話。
 精神分裂症に似た症状が、たびたび起きていたとか。他には、蔵内の事が少し。姉の次に自分を心配してくれた人だと書いてあった。
「じゃぁ、今日はもういいかな。眠くてよ」
「あ、すんません、こんな遅くに」
「いや、まぁじゃあ、また何か機会があったら」
 がたりと、気だるそうに椅子を引いて立ち上がる土原に矢部も慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。
「…じゃあ」
 冷たい居竦むような目をした、男を思い出す。あの人がもしこの手紙を読んでいたら?
「夜風が気持ちえーなぁ…」
 夏もとうに過ぎ去り、秋の風が過ぎていく。隙間風が身に染む。
「皆寂しい生き方、しとったんかなぁ」
 そっとうつむいて、封筒ごと手紙を握り締める。今はいない、人間たちを思う。

 幼い頃から、孤独だった男。
 彼を産んですぐに亡くなった母親、遊び歩いて借金だけ残して消えた父親。金の事しか考えていなかった親類たち…
 学生の頃も、心から気を許せる友人などいなかった。一人だけいた仲の良かった少年は、喧嘩の仲裁に割って入って刺されて死んだ。
「蔵内…」
 社会に出てからも、誰も信じられず、誰からも疑われてきた。いっそ悪行やりつくして、さっさと死んでしまおうかと思った。
「それでもお前は、会ぉてしもたんやな」
 そんな中で、ただ一人。たった一人、唯一無二と呼べる人間と出会った。幼い少女…自分の為に微笑んでくれた少女、自分の為に泣いてくれた少女。
 最初は戸惑ったが、その内に気にならなくなった。戸惑いなど消えて、幼い彼女には多分全てを話した。一生懸命聞いてくれた彼女が、愛しかった。

 独身寮の自分の部屋に戻った矢部は、敷き晒しの布団の上にごろりと寝転がり、ずっと握り締めていた封筒から便箋を取り出した。
「オレはあなたのような男に、なりたかった…か」
 一文を口に出して読むと、抜沢を思った。そうやな、オレも、あん人のような男になりたいと思う…
 蔵内の場合は、土原だったか。

 出会った少女が一つのきっかけとなり、そこから繋がった出会いは全てが特別だった。自分を見てくれる、信じてくれる。
 そして、信頼してくれた。ただ一人を除いては。
 彼とは、何度か一緒に飲んだ事があった。恐ろしく頭の回る男で、いつもどこかうそ臭く見えた。そんな風に思っていたことを、知ってか知らずか今となっては分からないが、彼からはよくいわれのない中傷を受けた。
 面倒ごとは避けたかったから、なるべく近くには寄らなかった。ここが、居心地のよい場所だったから。
 矢部はよく知っていた。調べてきた中で、組の跡目に一番ふさわしかったのは土原だったという事を。誰もがそう思っていたという話も聞いた。
「…ライターは、どこや」
 上着の内ポケットを探り、煙草を咥えながら枕もとの籠を漁る。視線は便箋の文字の羅列を眺めながら。
 ふと、手の動きが止まる。さっき土原のところで読んだ時も、ここで思考が一瞬止まった。

 ─── …あなたにだけは全てを話さなくてはいけないと思い、筆をとりました。土原さん、あなたならきっと、気持ちを汲んでくれると。

 土原が組の跡を継ぐのは周知の事実だった。けれど、知ってしまった企み。あの男は、蔵内を罠にはめて律子を手に入れようとしたのだ。
 組を我が物にする為に。ずっとずっと昔、蔵内がやってくる前から練られていた計画だったようで…手も足も出ないと感じた。けれどそれで逃げるつもりはなかった…
「守りたかったんか、お前も」
 カチリ、シュ…探り当てたライターで煙草に火を灯す、静かに吸って、灰色の煙を吐き出しながら続けた。
「何としてでも、どんな手を使ってでも守りたかった、か…」
 罠にかかったフリをして、暗がりでその時を待った。
 奴の計画を知るより以前に、奴が情報を他所に売り飛ばしていた事も知っていた。それは、土原に話していた…組の面汚しだと、その内に始末すると組長を交えて画策していた事を利用しようと考え、ただただ暗がりで、律子が来るのを待っていた。
 怖い目に合わせてしまう事を申し訳ないと思いながら。
 想像していたよりも簡単に、全ては予定通りに進んで行った。暗がりに律子がやってきて、言葉を交わすまもなくあの男…樋浦が律子を気絶させた。恐らくはクスリを仕込んだ布を口元にあてがったのだろう、被害が及ばなくてほっとしたのを覚えている。
 樋浦はその後、こっちにもその布を口に抑えてきた。暗闇で目を慣らしておいたはずなのに、あっけなく意識を失う。自分が不甲斐ないと思いながら、土原に後の全てを託した。目が覚めた後、見届け役を頼んでいた海老名から話を聞いた。
 うまくいった。樋浦は土原が始末してくれたし、律子には何の被害もなかった。あとは何も出来なかったからと言って、自分が罪を背負えばいいと。
 土原に、怒られた。自分を軽く見るなと。俺がやったんだ、お前は何もしてないじゃないかと。そうして土原が刑務所に入った後、なんとか理由を付けて組を出た。
 律子の事はきっと、別の誰かが守ってくれるだろう…そうして昔の縁で、SWに入った。

 義務的に綴られた文章。あとはただ、SWでは今まで以上に汚い事をしてきたと告白してあった。誰かを傷つけるのも、傷つけられるのも気にせずにその手を汚し、平然と笑ってきた。
 律子の幸せを願えば、これからの自分なんてどうでもいいと言わんばかりに。

 定期的に、関係者の身辺を洗った。そこに所属するからには、邪魔なものを排除するために。そんな時だった…矢部を見かけたのは。覚えてる、そうさたった1年、忘れるわけがない。
 抜沢と、矢部。公安部のくせに、手伝いだとかでコロシの捜査をしていた。あの目を忘れるなんて、ありえないだろう。あの件では土原が自首したから、大した事はなかった。
 それでも、抜沢に取調べを受けた時は全部見透かされてるようで、自分を演じるので精一杯だった。抜沢は怖い男だと、実感した。けれどそれ以上に、直感した。
 抜沢の隣で穏やかな表情を浮かべた若い男…矢部。抜沢と同じ目で見てくる、いや、もっとそれ以上に。今は若さも伴って大した事はなさそうに見えるが、野性の勘とでも言うのだろうか…
 関われば必ず、SWだけではない、自分自身も危ないと。
 直感がそれを告げた、あいつは危ないと。どうなっても構わないと思っていたのに、恐怖が迫ってきた。だから…

「うぁっちぃっ?!」
 手紙を読み返していた矢部が、突然声を上げた。咥えていた煙草がいつのまにやらすっかり短くなって、灰が腕に落ちたのだ。
「あっつ!あち、あち…水!」
 ふー、ふーと灰を吹き飛ばすと慌てて立ち上がり、流しに向かって蛇口を捻った。
「あー、あつかった…火傷したかもなぁ、痕にならんかなぁ?」
 出したばかりの水はぬるいが、応急処置くらいにはなるだろう。しばらくかけてから、ついでに顔も洗った。
 タオルで顔と手を拭いてから、大きく息をついて再び腰を下ろした。
「オレを過信しとるがな…」
 抜沢以上に危ない男なんて、そうそういないだろう。色んな意味で。なのになぜ蔵内は、このオレをそんなに恐れたんだろう…こんなどうしようもないほどに弱っちいオレを。
「人間てホンマ、わけわからんわ」
 蔵内、オレはお前が嫌いやった。何を考えているのか分からない微笑や、躊躇せずに傷つけていくその手腕が。

 矢部が、SWの周りをうろついている。少し前から公安が嗅ぎ回っていたのは知っていたが、まだ大丈夫だろうとたかをくくっていた。ああだが、その公安の人間があいつらだと言うのなら早い内に芽を摘んでおくべきだ。
 心の内で誰かが急く。大丈夫さ、いつもやってきた事じゃないか。そうだろう?今はもうどうなったっていいんだ、今までと同じように、この手を汚せばいい。
 矢部が接触していた、会計士の一家を全員片付ける事にした。
 若い夫婦だった、会計士もいい腕をしていた。話をした事はなかったが…それで良かったと思う。下手に情が湧いてもと困るから。彼の休みの日、真昼間に仕事の話だと訪ねていった。穏やかに笑う二人を見ていると、昔自分が求めていたものを思い出して少し泣きそうになった。
 けれど、仕事は仕事。自分の決めた事を、今更覆すつもりはない。そうして二人を片付けた後に、身動きが取れなくなった。ああ、そうだった…3人家族だったな。
 小さな少女が、こっちを見ていた。年の頃はいくつくらいだろうか、大きな目を見開いた、現状を理解できずに立ちすくむ姿。この少女も、片付ける予定だった。なのにそれ以上、何もする事ができずに。そっと少女に耳打ちして、その場を後にした。
 夜には近所の誰かが気付いて警察に通報してくるだろう。

 蔵内がその時、何を思ったのかなんて分からない。それでも、楓に手をかけないでくれた事を心から感謝した。
 例え楓の両親を奪ったのがこの男だったとしても。
「もしかしたら…」
 幼い楓に、自分にとって唯一無二の少女を重ねたのかもしれない。

 警察はすぐに、SWに目を付けた。捜査一課が、公安との合同捜査に踏み込んだという情報が入り、予感した。
 これで俺もおわりだな、と。
 いとも簡単に主犯格の自分を突き止めた二人に敬意を表して、もう少し遊んでやろうかと思った。そんな時に、疎遠になっていた海老名と再会した。病気が悪化したとかで、とにかく苦しそうで。心因性のものだとは分かっていても、何とかしてやりたいと思った。
 そして海老名も、見抜いた。同じ病気じゃないのかと。
 診断を下されたわけではないが、1年前のあの日から心の中の何かが、蝕まれていたのには気付いていた。俺はきっとすぐに、死ぬだろう、この病気で。
 ある計画を思いついた。去年と同じように、今度は俺がやられる番だ。ほら、あの小さな女の子がいたろう、彼女を使えばいい、そうすればきっと誰も傷つかずに俺も海老名も、この世から跡形もなく消えてしまう事が出来る…それがいい、そうしよう。

 ぽたり…矢部の目から零れ落ちる涙。今でも蔵内の事は好きになれない、むしろ嫌気がさすほど係わり合いになりたくない存在だ。
 なのに、彼の生き様を知ると、涙が出てくる。
「知らない方がえー事もあるんかなぁ、先輩」
 結局は蔵内も海老名も、望むように息絶えた。だが、違うだろう?誰も傷つかずになんて、済む筈はないんだ。一年前の事件だって、傷ついた人間は大勢いただろう。
 今回だって…
「オレが、やったらなあかんねや」
 小さく呟いて、便箋を封筒に戻した。立ち上がり流しへ向かうと、そこでライターを取り出し、封筒に火をつけた。燃え上がる炎を見つめて、涙はこぼれ続ける。
「大丈夫や、オレが忘れへんから…」
 燃やしてしまおう。でも大丈夫、全てはこの心の中にある。土原の心の中にも残っている。恐れる事はない、きっと抜沢だって言ってくれるだろう。
 お前らしいな、なんて笑いながら。


 つづく


ほぼ説明文でした。
だー、難しい。小難しい!!
とりあえずこれで過去編は、本当にとりあえずですが決着がついたという事で、またしばらく現在で遊ぼうかと…
新しい連載も始めてしまったことだし(汗)

2006年8月6日

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