[ 第20話 ]


 黒のセダン…言われたナンバーの車を目で追う。知らず内に、アクセルを踏む足に力が入る。
「黒のセダン…アレやっ!」
 薄暗い道路を進み、見つけた。窓にはフィルムが張ってあって中の様子はわからないが、制限速度を軽く破って寂れた方に向って走っていく。
 一体どこに行こうというのだろう…矢部はその車から決して目を離さずに、グッと一層強くアクセルを踏んだ。
 ──ピラリ、ピラリラ♪
「ん?」
 上着の内ポケットで携帯電話が鳴る。左手でハンドルを握ったまま、右手で素早く取り出して出ると、受話器越しに菊池の声が聞こえた。
『矢部さん?菊池です、さっき山田さんから電話があって、事情は聞いてます』
 まくし立てるように、焦るように。
「おぅ、そうか。こっちは今車を見つけて、尾行中や」
『どこら辺走ってるんですか?』
 前を走るセダンの行き先は、恐らく海沿いの倉庫。あそこはやけに寂れていて、逃げ込むには丁度いい。それを伝えると、すぐに自分も向うと言い、切れた。
「気の早い奴やな…」
 そうしている内に、予想通りセダンは海沿いにある倉庫が立ち並ぶところに車を乗り入れていった。車が止まったのを確認して、向こうからは見えない場所に車を乗り入れ、静かにブレーキを踏む。
「あいつら…」
 絶対ただじゃ済まさない。そう決意し、車を降りそっと近付く。
「ちょっと一服してくるよ」
 運転席側のドアが開いて、男の声が聞こえた。
「じゃぁ先に楽しんでる」
 車内から、もう一人の男の声。わずかにうめく声が聞こえ、サッと青褪める。焦ってはいけない…息を潜め、車から少し離れた男に近づき、瞬時に口を押さえる。
「ぐっ?!」
 車からは見えないように、男を地面に叩きつけるようにして腕をひねり上げ、背中に膝蹴り。
「ぐっ、がっ…」
 痛みに顔をしかめるのも気にせず、顔面にそのまま拳を殴りつけた。男の体は支えを失い、がっくりと崩れる。
「…よし、一人仕留めた」
 小さく呟き、懐から手錠を取り出すと男の両足にかけた。息をついて呼吸を整え、車に近づく。楓に何かあってはいけない、落ち着いて、確実に仕留める。そう自分に言い聞かせながら、後部座席のドアに手をかける。
「暴れるなっ!」
 開けようとしたその時、車内から男の怒鳴り声と、肌を叩く音が響いた。思考が乱れる、妙に息苦しくて、うまく呼吸が出来ない。
 ──ガチャッ、ガラッ…勢い良くドアを開き、息を飲み込む。
 見たくない、見たくない。こんな光景、見たくなかった。こんな事は絶対に起きてはいけなかったのに…
 突然ドアが開かれた事に、驚いて顔を向けるその男は、倒されたシートの上で彼女の両腕を押さえつけて、覆い被さっていた。
「なっ、誰だおっさん!」
 声を荒げる男の声は、矢部の耳には届かない。ただただ、体中の血の気の引く音だけが、頭の奥に響く。
「なんだって聞いてんだよっ!」
 再び怒鳴る男の声で、一瞬我に返る。だがもう遅い。冷静に事を済まそうと思っていたのに、引き裂かれた薄い青色のシャツから覗く白い肩が震えているのを見て、矢部の目つきが変わった。
 スローモーションをかけたように、見えた。腕を伸ばして男の後ろ襟首をつかみ、車から引き摺り下ろす。
「何しやがっ…」
 襟首から手を離すと、地面に手をついてから男は矢部に向かってきた。それを見てニヤリと不適な笑みを浮かべる。わざと、手を離したのだ。
 この例えようの無い怒りを、すべてこの男にぶちまけてしまおう。幸いこの男は、刃物などの道具は持っていないようだ。ただ、向かってくるだけ。
「うおぁぁぁっ!」
 馬鹿な奴だ。このオレをこんなに怒らせやがって…血が出そうなほど唇を強く噛んで、拳を固く握り締める。一度、向かってきた男の体をかわして足をかけた。
「あっ?!」
 バランスを崩してよろけるのを見届けて、矢部はその拳を振るった。宙に、綺麗な弧を描く。
 ──ガッ…
 いい音がした。骨のぶつかる、乾いた音。矢部の拳は男の顔面にヒットした。
「ぐぁっ…?!」
 間の抜けた声を上げて、男は地面に倒れこむ。きっと、自分の身に何が起きたのかすらわからなかっただろう。間違い無く意識は飛んだはずだ。
「って〜…」
 怒りに身を任せて人を殴りつけるのは初めてではないにしろ、随分と久しぶりだった。びりびりと痺れるような感覚と、拳に残る鈍い痛みでそれを実感する。

 見ていてそれは、信じられない光景だった。息を飲む間も無いような、一瞬の出来事とでも表現しようか…
「矢部さんって、強いんだな…」
 奈緒子の隣で上田がぼそりと呟いた、奈緒子も同感する。二人は少し前にここに着いていて、矢部が車から男を引きずり出すところからずっとそれを傍観していた。間に入る隙も無かったというのが正しいかもしれない。
 凄いとか、強いとか、そういう表現では済まされないような恐さがあった。本気で怒りに身を任せての動きだったように、奈緒子は見ていて感じたほどだ。
 矢部は倒れた男をそのままに、車内に手を伸ばした。中に楓がいるのだろう…楓の白い腕が見えた。
 震えながら矢部の手を取り、ゆっくりと車を降りてくる。見るも無残に引き裂かれたシャツが、はらりと落ちた。
「あ、楓さ…」
 上着を貸そうと動いた奈緒子を、上田が制止する。
「上田?」
 不思議そうに見遣ると、上田は矢部と楓から目を離さず、小さく一言呟いた。
「大丈夫だ、矢部さんが」
 そして奈緒子の小さな肩を抱きしめる。上田の言った通り、矢部が何も言わずにスーツの上着を楓の肩に素早くかけていた。

 二人、ただ無言のまま。

 ふと、まだ震えている楓の頭に、矢部は手を伸ばした。
「…?」
 くしゃくしゃっと優しく髪をなで、目を細めたまま楓を見つめる。視線の高さを楓の目線に合わせ、ゆっくりと、口を開く。
「恐かったな、もぉ、大丈夫やで」
 優しく、優しく。小さな子供をあやすように。
「…っつ、おに、ちゃ…」
 途端に、楓の視界が揺らいで、大粒の涙がはらはらと零れ落ちた。矢部がそのまま自分の胸元に頭を抱き寄せると、楓は押し殺すような嗚咽をもらして一層激しく泣いた。
「よしよし、かえちゃん、ホンマに恐かったな。大丈夫、もぉ大丈夫やから」
 何度も優しく頭を撫でて、抱く腕に力を込めて、声をかける。
「おに、ちゃ…うっ…つ…」
 言いたい事が上手く言葉に出来ず、楓は泣き続ける。けれど楓の言いたい事は、多分、矢部には分かっている。
 こうやって、声を押し殺しながら泣く楓を抱きしめるのは、これが初めてではない。同じような言葉をかけて、楓の無事を感謝した瞬間が、前にもあった。
 それは、遠い昔。決して忘れてはいけない、けれど、心の奥底に閉じ込めていた、矢部の暗い過去の出来事。


 つづく


キリのいいとこで20話を締めましょう。
21話、再び過去へ…
(この回の見所は、矢部の目つきが変わった瞬間・笑)
2004年6月8日朝 完成

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