[ 第23話 ]


「ケンおにーちゃ…」
 矢部の腕の中で、楓が小さく呟いた。涙はもう治まったらしい。ホッとしたまま楓の顔に目を遣ると、頬に叩かれた赤い痕があって、矢部は思わず眉を顰めた。
「ほっぺ、叩かれたん?痛ない?」
 そっと、割れ物にでも触れるように手を寄せると、楓は首を横に振りながら口を開いた。
「だい…じょぶ」
 よく見ると、頬以外にも腕などに赤い痕があった。と、突然矢部たちの前に、タイヤを軋ませながら数台の車がやって来て停車した。降りてきたのは他でもない、菊池だ。
「矢部さん、椿原さん」
 慌てたように、息を切らしながら。
「菊池、随分来るの早いやないか。また金に物言わせたんか?」
「心配して来たのに、そういう言い方やめてくださいよ〜」
 憎まれ口を叩く矢部だったが、その行動の速さは誉めてもいいかな?と少しだけ思った。
「それより、そこに転がっとる二人、婦女誘拐で逮捕や。そんで、一連の連続婦女暴行犯の疑いもあるから、捜査一課の方に連絡しとき」
「あ、はい、わかりました。矢部さんは?」
 菊池はもう一台の車から降りてきた捜査員に言われた事を伝え、チラリと楓を見遣りながら言った。
「オレか?オレはかえちゃんを病院に…」
「や…だ、びょーいんは、や」
 矢部が言い終える間もなく、楓が矢部のシャツの袖を掴んで首を振った。
「そやけど、ほっぺとか、赤なってるから診てもろた方が…」
 そう言いかけるが、楓は必死に首を横に振る。
「あ、椿原さんには事情聴取が…」
 菊池が横からそう口を挟むと、やっと上田と奈緒子がその場に駆けてきた。
「あ、センセー…それに山田も、来とったんや…」
「なお、こ、さん…」
「楓さん、大丈夫?」
 心配そうに顔を覗き込み奈緒子に、楓はやわらかく微笑んで、小さく頷いて見せた。
「無事で何よりですね」
 上田も声をかける。
「あ、そや。山田、かえちゃんの怪我、診てやってくれへんか?病院行きたないっていうんや…」
「あ、はい」
 奈緒子が矢部に言われ、楓を連れて行こうとするが、楓はそれを拒んだ。
「楓さん?」
 フルフルと無言のまま首を横に振り、ギュ…と、矢部の袖を強く握り締める。
「かえちゃん、どないしたん?」
「おに…ちゃんの、側に居る」
 小さくかすれた声で、言う。そんな楓を見て、奈緒子はハッとした。怖いのだ、矢部から離れる事が。
「菊池さん、事情聴取なら私だけで大丈夫ですよ。私も一緒に連れ去られそうになりましたから」
 思わず口をついて出たのは、こんな事だった。
「え?」
「YOU…?」
 驚いた顔を向ける菊池と上田をよそに、奈緒子は矢部に向き合う。
「山田?」
「矢部さんは、楓さんと一緒にいてあげてくださいよ。怪我も、矢部さんが診てあげればいいじゃないですか」
 楓は驚いたように奈緒子を見遣り、申し訳なさそうに俯いた。
「そやけど、オレかてこの件に関して、なんややる事あるやろうし…」
「楓さんの事より大事な事ってあるんですか?」
 その言葉に、矢部は言葉を詰まらせた。確かに、今の矢部にとって、楓の事は何よりも大事であった…
「ごめ…なさい、私、大丈夫だからっ…」
 突然楓が、矢部のシャツの袖を離して声を荒げた。
「かえちゃ…」
「大丈夫っ、だから…ケンおにーちゃん、仕事、行っていいよ」
 小さく震えながら言う楓。必死で身に残る恐怖を我慢しているのだろう…
「だ、大丈夫ですよ!この件は僕の方で片付けますから!」
 そんな楓を見て菊池が叫んだ。
「で、も…」
「楓さんは少し休んだ方がいいですってば!そして矢部さんは楓さんを送る!仕事は東大に任せて…これで決まりです、ね」
「…そう、やな。ほな、そうするわ」
 奈緒子に促されるような形で、矢部は楓の肩を抱きながら歩き出した。
「おに、ちゃ…」
「じゃぁ菊池、この車借りるで」
「どうぞ!」
 菊池が乗ってきた車の助手席のドアを開け、楓に乗るように促すが、楓はまだ戸惑っているようだ。
 それを見て、奈緒子がパタパタと駆けてくる。
「楓さんっ」
「奈緒子さん…?」
 傍らに立っている矢部を押しのけ、小さく囁く。
「つらい時は、もっといっぱい頼ったり甘えたりしていいんですよ」
 目を大きく見開いて、奈緒子を見つめる楓。
「そうやで、かえちゃん…もっと甘えてえーよ」
 矢部もそう言いながら、改めて助手席に座るよう促すと、やっと楓は腰を下ろした。けれどまだ、不安そうに奈緒子を見遣る。
 ──バタンッ、と、ドアを閉めると、今度は矢部が奈緒子に向き合った。
「じゃ、あと、頼んでえーか?」
 コクンと頷く奈緒子の頭に手を遣り、くしゃくしゃっと髪を撫でながら、矢部は続ける。
「お前も無事で良かったな。そんで、ありがとぉ」
 微笑んで、一言。奈緒子は笑み返し、車から少し離れた。矢部もすぐに運転席に身を滑らせ、ハンドルを握る。
 ふと、助手席の楓が、さっきと同じように矢部のシャツの袖を握ってきた。
「かえちゃん?」
 呼びかけると、身体をビクッと震わせて、慌ててその手を離した。
「まだ、怖いん?」
 黙ったまま、小さく頷く。それを見て、矢部は優しく続けた。
「そやったら、掴んどってえーで。別段、運転の邪魔になるわけでもないんやから」
 すると、しばらく黙って動かないでいたが、恐る恐る手を伸ばして、同じようにシャツの袖を掴んだ。その様子は、まるで幼いあの日を思い出させる。
「病院…は、嫌なんやな。そやったら、かえちゃんちに行くか」
 服もちゃんと着た方がえーしな、と笑いながら続けるが、楓は首を横に振った。
「ん?」
「あそこに帰ると、一人になっちゃうから、ヤダ」
「落ち着くまでおるよ?」
 それでも首を横に振る。
「ん〜、病院も嫌、自分ちも嫌…となると、あとは…」
 ふっと、頭をよぎる。
「オレんとこしかないけど、えーか?」
 そう言うと、楓はハッと顔をあげて、キラキラと目を輝かせた。
「な、何でそないに嬉しそうなん」
「ケンおにーちゃんち、はじめて」
 柔らかく、穏やかに、そして嬉しそうに微笑む姿を見て、だいぶ落ち着いたかな?とホッとする。
「じゃぁ真っ直ぐオレんとこ行こな」
「うん」
 だが、自分のマンションに行く前に、色々と用意しないといけない物がある。例えば、楓の服。あと、部屋の片付けもしたいところだが…
 やっと笑顔が戻ったものの、自分のシャツの袖を固く握り締める楓を一人にしておく事は出来ない。仕方ないなと自嘲気味に笑みながら、車を走らせた。
 ───ピラリラ、ピロリン♪
「ん?お…?」
 携帯電話が内ポケットで鳴る。運転中なのにも関らず、呑気に電話に出る。
「もしもーし」
『あにー!』
 そのでかい声に、思わず目から火花が飛び出る。キンキンと響く何かに頭をクラクラさせながら、小さく溜息。
「おにーちゃん?」
 横で楓が不思議そうにそれを見遣る。
「かえちゃん、これから言う事、気にせんでえーからな…」
 首をかしげる楓に、これでもかというほど爽やかな笑みを向けてから、携帯電話の通話口に自分の口を近づけた。
「…」
 小さく息を吸い、
「うっさいんじゃっボケェッ!電話口で大声出すな、アホゥッ!!」
 負けないくらい大声で怒鳴りつける。隣では、楓が目を丸くしたまま矢部を見ていた。
『うぁっ?!あ、兄ィも声おおきぃのぉ…今ワシ、お星様が見えたけんのぉ…』
 そんな抜けた声が聞こえる。
「そんなん知るかっ。で、何やねん、お前。オレんとこに電話しても大丈夫なんか?」
『だいじょうーぶじゃ、ちゃんと許可取っとるけん』
「許可…そやったら、その辺に相方おるんか?」
 エース級の、公安刑事の定め。
『おるよー。相方以外にも、同じ事件を担当しちょる皆もおるよ』
「ふぅ…ん、で?」
 きっと皆して、この会話を聞いているのだろう。石原が余計な事を話さないように…
『兄ィ、大変じゃったて耳にしたもんじゃから…ちょっと兄ィの無事を確認したくて、ワシ、上に頼み込んだんじゃ』


 つづく


無意味なまでに石原登場(笑)
楓、だいぶ落ち着いてきたみたい…でもまだ、終わりには程遠い…
そんな感じの早朝、出勤前(笑)
2004年6月15日朝

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