[ 第25話 ] 楓の怪我は、殆どが軽い打撲で、痕が残るほどひどいものはなかった。 「冷やしたら痕が残るかもしれへんからな、温シップでも貼っとこか」 「うん、ありがとう」 矢部の作ったパスタを、楓は綺麗に食べて、ごちそうさまと笑った。それから怪我の手当てとなったのだ。 「次はケンおにーちゃんね」 シップを、赤い痕の上に張り終えてから、おもむろに楓が口を開いた。 「は?」 首をかしげる矢部の、手を自分の方へと寄せる。不意に走る、鈍い痛み。 「やっぱり。ほら、拳…痛めてる」 ボソリと呟く。それは、楓を助ける時に男を殴りつけた方の拳だ。思い切り、勢いに任せて大ぶりで拳を振るうと、下手するとしばらくは使い物にならなくなるという。そこまではいかないが、矢部の拳は赤く腫れあがっていた。 「あぁ…ちょぉっと痛いな」 気付かなかった痛みに、眉を顰める。 「これは…冷やした方がいいよね」 「そやな、ちょっと冷やせばすぐによぉなる」 「そう?」 「あぁ」 心配そうな、顔。矢部は手を伸ばして楓の髪をくしゃくしゃと撫でた。 「そんな顔せぇへんでも、大丈夫やって。慣れとるから」 昔はそれこそ、拳が潰れるような喧嘩を何度もしたんだからと続けて笑うと、楓もクスリと喉を鳴らして笑った。 「しっかし、今日は疲れたなぁ〜」 矢部がそう言うのとほぼ同時に、楓は小さな欠伸。 「あ、えへ…私もちょっと疲れた」 矢部に欠伸を見られた照れからか、気恥ずかしそうに笑みをこぼす。 「そうやろー、かえちゃんは疲れとるやろな。そやったら、そろそろ寝た方がえーな」 「うん」 頷く楓をよそに、矢部はふと腕組し、悩む。 「おにーちゃん?」 「ん、よし。かえちゃん、ちょぉ待っとってな」 「え?あ、うん」 何をする気なのかと首をかしげる楓をそのままに、矢部は立ち上がった寝室に向う。そこにはシングルベッドが一つ。ぐるりと部屋を見渡して、何かを指折り数える。 「うん、よし」 リビングに戻ると、今度は楓をこまねいて再び寝室へ。 「かえちゃん、今日はここで寝ぇ」 「おにーちゃんは?」 「オレはリビングのソファで寝るから」 まぁ、当たり前と言えば当たり前の発言だ。 「え、でも、おにーちゃんの家なのに…」 「かえちゃんはお客さんや、ゆっくり休みぃ」 時計の針が、日付の変わり目を指している。もう、随分と遅い時間だ。 「…ん」 「なんや、そんな顔してからに。今日はもぉ、何も考えんと、寝たらえーよ」 そっと、楓の背中を押す。 「あー…寝巻きがないんやったな」 慌てて寝室のチェストを漁るが、パジャマが見当たらない。ふと、昨日まとめて洗濯機の中に放り込んだ事を思い出し、気を取り直してYシャツを引っ張り出す。 「オレのパジャマやどっちにしろおっきすぎるから、これ使ぉて」 とりあえず買った白いYシャツ、実はまだ袖を通していないものだ。 「あ、うん。ありがとう」 へへ、と楓が意味深に笑った。 「ん?」 「男の人のYシャツをパジャマ替わりに着るのって、映画みたいだね」 「あ?あぁ、そやな」 つられて笑む。そういえば、ローマの休日で、オードリー・ヘップバーン演じる王女が、憧れだと言っていたっけと思い出しながら。 「じゃ、おやすみ、かえちゃん」 続けて言いながら、楓がベッドに入るのを見届けて寝室を出、矢部はタオルケットを羽織ってソファに横になった。 静かに夜はふけていく。ソファに横たわったものの、なかなか眠れず、矢部は目を空けたままでぼんやりと寝室のドアを見ていた。 ──カチャリ…と、突然、ゆっくりとその戸が開いた。楓が顔を覗かせる。 「かえちゃん?どないした?」 上半身を起こし声をかけるが、楓は無言のまま、曖昧な笑みを浮かべた。 「かえちゃん?」 「ケンおにーちゃん、そこにいるよね?」 ポツリと小さく呟く。 「おるよ?そやけど…なんで?」 「ううん、何でもないの。ちょっと…聞きたかっただけ」 そう言って、戸を閉める。その短い遣り取りで、何があったのかと矢部はついぞ首をかしげた。何か、言いたい事があったのではないかと、寝室の前まで行ったが、ドアノブに手をかけたまま開ける事はしなかった。 何かが不自然だと、思う。 ──カチャリ…その場に立ちすくんで5分ほどした頃、再び戸が開いた。さっきと同じように、楓が顔を覗かせる。目の前に矢部がいた事に驚き、それから笑みをもらした。 「おにーちゃん、いるね…」 「…おるよ?」 はっとして、矢部は答える。 「そうだよね、ケンおにーちゃんの家だもんね」 ホッとしたようなその笑顔に、何だか胸が締め付けられる。 「かえちゃん…どないしたん?眠れへんのか?」 「え?あ…ううん、違うの」 ちょっと…ね、と続ける楓は、どこは淋しそうで。 「何でもいーから、言うてみ?」 自分が守らなければと言う、訳の分からない使命感で矢部は問う。 「ううん、大丈夫。本当に何でもないの、ちょっと…おにーちゃんがそこにいるかどうか、確認したかっただけ」 その言葉で、気付く。一人になるのが怖いのだと。 「…かえちゃん」 家に送ると言った時も、楓は一人になるから嫌だと言ったのだ。それを思い出して、気付かなかった自分を叱咤する。 「なに?」 「ちょぉ、待っとってなぁ」 待たせてばかりのような気もするが、この際気にしないでおこう。矢部は楓の髪を一度、優しく撫でてから、行動に移った。 楓をリビングの方に招き、ソファではなくテーブルの横にそのまま座らせて、ひと息。それからおもむろに、矢部がベッド代わりの寝床にしたソファを押した。 ず、ず、ずずず…床はフローリング。傷つけぬよう、ゆっくり押して寝室の方に行く。 「ケンおにーちゃん…模様替えでもするの?」 「まー、えーから見とき」 リビングと寝室の間の段差に少し苦労したが、ソファを寝室内に何とか入れる事が出来た。ふぅー…と大きく息をついてから、今度はそのソファをベッドに平行に並べる。ぴったりはくっつけない、少しの間を置いて。 「おにー…ちゃん?」 「よし、これでえーな」 満足そうに笑みながら、矢部は楓を見る。 「おにーちゃん…」 「ほら、かえちゃんは早ぅベッドに入りぃ」 「う、うん」 何が何だか分からずに、促されてベッドに入る楓。続いて矢部もソファに横になる。 「ほら」 再び矢部が声をかける。 「あ…」 向かい合うと、お互いの顔が見える。 「これで、おるゆーのが分かるやろ?そやから、安心して休みぃ?」 優しく言うと、楓はフッと表情を和らげた。 「うん」 その嬉しそうな笑顔に、矢部も嬉しくなり、つられて笑う。不思議なものだ…誰かの笑顔が、こんなにも自分の心を和ませるなんて。手を伸ばせば届く距離で、楓がじっと矢部を見つめている。 「なん?他にまだ何かあるん?」 楓は黙ったまま、布団から手を伸ばしてきた。 「あ?」 「ケンおにーちゃん…」 静かに口を開く。 「ん?」 何となく、矢部はその手を取った。少しひんやりしている楓の掌は、とても華奢だ。 「手、握って寝てもいい?」 照れくさそうに。 「えーよ。ずっと側に、おるから」 そのまま、ギュッと手を握り締める。すると楓は、一層嬉しそうな笑みを浮かべて静かに目を閉じた。 手が冷たいのは、きっとまだ緊張が解けていないからだろう。いつもの笑顔を見せたりするものの、恐怖すら残っているに違いない。 「ケンおにーちゃん」 「ん?」 まどろみながら、楓の小さな声に相槌を打つ。 「…ありがとう」 つづく あにゃー…書きたかったシーンの一つなのに、何か微妙だ(笑) っつか、今地震が!!しかも結構揺れたよ?コエー… でもきっと、矢部は楓に最大限の優しさを与えるんだろうなぁと…思ったり(笑) ちなみに震度3でした。 2004年7月3日 |
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