[ 第26話 ]


 ふっと、目を開けるとカーテンの隙間から、朝の陽射しが差し込んでいるのが見えた。柔らかく部屋の中を照らす、朝の陽射し…
 朝…か。ぼんやりと、横になった体勢のまま部屋を見渡す。掌に、華奢な感触がまだ残っている。
 …まだ?ガバッと起き上がり、矢部は隣に目を遣った。手を握って寝たはずの、楓の姿がない。
「かえちゃ…?」
 首をひねる矢部の目に映ったのは、少し開いたリビングと繋がるドアの向こう…微かな物音と共に、揺れる明るい栗色の髪。のたりとソファを降り、そちらに向う。
「あ、おはよう、ケンおにーちゃん」
 ドアを大きく開けてリビングに移ると、楓が気付いて笑った。昨日と同じスカートに、リビングに置いたままになっていた矢部の柄シャツを上に着て。
「おは、よう…」
 目を丸くする。片付けられた室内と、テーブルの上には彩りの綺麗な食事。
「早く目が覚めちゃったから、朝ご飯作ったよ」
 きらきら。朝の陽射しに、楓の笑顔が眩しい。
「全部、かえちゃんが?」
 きつね色に焼けたトースト、目玉焼きと添えられたハム、コンソメのスープ、フルーツの混じったヨーグルト。簡単なものばかりだが、朝の食卓といった爽やかなメニューたち。
「これくらいなら、私でも作れるもん」
 コトン、とミルクの注がれたコップを置きながら、楓が言う。
「美味しそうやな…でも、こんなん冷蔵庫には入ってなかったやろ?」
「あのね、マンションの下にコンビニあるでしょ?あそこで買ってきたの」
「こんな朝早うに?」
 再度驚く矢部をヨソに、楓はちょこんとテーブルの前に腰を下ろした。矢部にも座るよう促す。
「食べよ?」
「あ、あぁ、そやな」
 こんなにきちんとした朝食を摂るのは、随分と久しぶりだった。
「美味しい?」
「うん、うまいうまい」
 誰かと過ごす朝。遠い昔、何度かそれは経験したが、それとは違う雰囲気に頬が緩む。
「さて、美味い朝食も食うたし、そろそろでかけんとな」
 食後に、楓の淹れた珈琲を飲んで、矢部はのっそりと立ち上がった。そのまま続ける。
「えーと、今日は警視庁に行ってから仕事なんや。だからその前にかえちゃんを送って…」
 そこまで言って、口をつぐむ。楓が俯いたまま、こちらを見ない。
「かえちゃん?」
 名を呼ぶと、ゆっくり顔をあげて矢部を見遣った。
「どないしたんや?」
 楓の様子がおかしい…そう思いながら、一度は上げた腰を再び下ろし、楓と同じ目線で再び声をかける。
「かえちゃん?」
「帰らなきゃ、駄目?」
「は?」
 やっと口を開いたかと思えば、この一言。矢部にはその言葉の意味がよく分からない。
「そら、帰らな…」
 ふと、楓の言葉を昔聞いたような気がする。その時はもっと艶っぽい意味合いがあったが…
「私、ここにいちゃ駄目かなぁ…」
 ボソリと呟くように、楓は言う。
「ぇあ?」
 奇声を上げると、楓が上目がちに矢部を見た。
「そやか…て、かえちゃん、いつまでもオレのシャツ着とるわけにもいかんし」
「おにーちゃんのシャツ、好きだよ?」
「いや、そーゆう問題やのーて…」
 楓が何を考えているのか、つかめない。
「ここにおる言うても、オレかて仕事とかあるからずっと側にはおれんし…」
 その言葉に、楓はまたも顔を伏せる。
「なー、かえちゃん…元光さんや遥さん、ほったらかしになっとるし…」
「少しでいいの」
 おもむろに楓が口を開いた。
「は?」
「少しの間でいいの、ここに、いさせて?」
 目を伏せたまま、懇願するように。
「昼間は、オレが帰ってくるまではどっちにしろ一人やけど…」
 この頑固なところは、一体どちらに似たのだろう?そんな事をぼんやり思いながら、矢部は伏せたままの楓の顔を覗き込んだ。
「いーよ。ここで、ケンおにーちゃんの帰りを待てるなら…」
 ポタリ。楓の目から、涙。
「か、かえちゃん?そな、泣かんでも…別に追い出そうとしとるわけやなしに…」
 昨日の今日でこの涙は辛い。
「おにーちゃ…が、帰ってくるここにいたいん、だ、よ」
 ポタ、ポタ。一人になるのを恐れているのだと、何故か思う。その涙を見てから、矢部はポンッと楓の頭に手を置いた。
「おに…ちゃ?」
 ゆっくり、優しく髪を撫でる。
「分かった、おってえーよ。落ち着くまでおってえーから、もう泣かんといて?」
 楓の涙には、弱い。昔から、この涙だけは見たくなくて。
「ほん…と?」
「ホンマや、オレは嘘はつかん」
 もう一度髪を撫でて笑うと、楓もやっと笑みを浮かべた。
「ありがとう…」
「うん」
 そのあとは、どうにも少し慌しかった。菊池に電話を入れて、少し遅れると告げ、楓を助手席に乗せて楓の住むアパートまで車を走らせた。
「私、ケンおにーちゃんのシャツでいいのに…」
「そういう訳にもいかんやろ」
 そんな遣り取りの末、楓は小さな旅行鞄に着替えを詰め込んで、部屋の鍵を締めた。
「あれ?位牌はどうしたん?」
「置いておく」
「そやな、すぐに帰ってくるもんな」
 どうなるかは分からないが、そう言うと楓は黙って微笑んで、小さくコクンと頷いた。それから再びマンションへと車を走らせる…
「あ、そうや」
 ハンドルを握る矢部が、不意に口を開いた。
「ん?」
 楓が横を見遣る。
「かえちゃん、お昼はどないするん?」
「あ、今朝コンビニで色々買ってきたから、適当に何か作って食べる…」
「ほーか、そんならえーけど…無理したらあかんで?」
「ん、大丈夫」
 車内に、妙な沈黙と空気が流れる…その空気を何とかしたくて、矢部は窓を開けた。夏特有の湿った空気が入り込む。
「暑っ!」
 その一言に、楓がクックと喉を鳴らして笑う。矢部も、つられるように笑った。
「冷房ついとるのに窓開けてもーた」
「おにーちゃんらしいね」
「どこがやねん」
 楓の、笑顔。涙は苦手だが、この笑顔はとても好きだ。昔から、この笑顔に癒されてきた。
 キッと、小さくタイヤを軋ませて車をとめる。懐をゴソゴソと探り、矢部は楓に手に何かを握らせた。
「部屋の鍵や、ちゃんと施錠せぇよ」
「あ、うん…ありがとう」
「かえちゃんの為なら、何でもする言うたやろ?気にせんと、ゆっくり休みぃ」
「ん…」
「あ、あとこれも」
 別のポケットからくしゃくしゃの五千円札を出して楓に渡す。
「ん?」
「これで買い物して、晩ご飯、作っといて」
「うん」
 朝の楓の手料理は、とても美味しかったから…そう続けて、矢部は楓がマンションに入るのを見届けてからアクセルを踏んだ。


 つづく


短めで…ね(笑)
今回、前回からまたエラく中途半端に間があいてしまって、おまけにその間にウエヤマ(?)挟まってるから、ちょっと疲れてしまった…
でも、なんでかなぁ?
ウエヤマを書くのも楽しいし好きだけど、矢部と楓の遣り取りを書いている方がしっくりくる…というかホッとする。
不思議だ…
2004年7月27日

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