[ 第30話 ]


「矢部?」
 隣にいる抜沢の声が、どこか遠くの方から聞こえるような、妙な感覚だった。
「おいっ!」
 ドゴッ…ぼんやりしていたのがいけなかった。立ち止まった抜沢に気付かず、そのまま背中を豪快に蹴られ、我に帰る。
「っつー…、先輩、なんすか…」
 あまりの痛さに声が裏返る。
「さっきから名前呼んでんだろが、ぼーっとしてんじゃねぇよ」
「あたっ」
 ペシッと、後頭部も続けて叩かれた。
「…で、あれだ」
「は?」
 抜沢が何を言おうとしているのかは、何となく分かっていた。恐らくは先ほどの、蔵内の事なのだろう。
「は?じゃねーだろ、顔色が悪いつってんじゃねぇか」
「顔色…先輩のですか?」
「…お前だよ」
 押し問答、というのかもしれない。抜沢は呆れたように小さく息をついてから、おもむろに手を伸ばした。
「っ?!」
 一瞬、また殴られるのかと思ったが違った。抜沢の手は矢部の頭に伸びて、短い髪をグシャグシャと乱暴に乱し、ついでと言わんばかりに額に当てられた。
「熱があるわけじゃないみたいだな」
「こ、子供やないんすから…」
「そぉか?」
 抜沢の手を軽く振り払ってから、矢部は拳を握り、俯く。その様子を見て、抜沢は続ける。
「蔵内に何を言われた?」
 ビクッと、矢部の体が震えた。
「言えよ」
「そやけど…」
 一旦振り払った抜沢の手が、また矢部の髪に触れた。だがそれは、先ほどのぶっきらぼうな優しいものではなく、刑事としての抜沢の手。
「だっ?!」
 前髪を押さえるように掴み、俯く矢部の顔を無理矢理あげた。抜沢がよく、容疑者を取調べる際に使う手だ。
「吐けつってんだろ」
 低く、唸る。目線の高さが同じなので、その突き刺すような視線は矢部の目に。
「せんぱ…」
 憧れと、畏怖。
「何を言われた?」
 今まで、抜沢がこうして犯人に問いただせば、口を割らない奴はいなかった。
「オレを、見たって…」
 矢部は搾り出すように、口を開く。
「どこで?」
 抜沢の目は、どこまでも冷たい。
「元光さ…椿原の家の、前で」
 泣きそうな矢部の目を、じっと見据えて。
「…いつ?」
「よん、ヶ月、くらい前に」
 そこまで言った時、やっと抜沢は手を離した。
「四ヶ月前?まだお前が、椿原を協力者としてなかった頃じゃねぇか」
 ああ、こうして抜沢に取調べを受けた者達は、口を開いたのか。そんな事を思いながら、つかまれていた前髪の根元をさすった。流石に少し、いや、かなり痛かった。
「そーっす」
「じゃぁ、じゃぁお前…」
 抜沢は口をつぐむ。矢部が何を思ったのか、分かったからかもしれない。

 ────「四ヶ月くらい前に、椿原さんの家の前であなたを見ましたよ…」

 蔵内の言葉が頭に響く。それは、矢部を絶望させるのに十分な意味を持っている。もしかすると、それが一つの真実なのかもしれない。
「矢部、お前、やっぱりこの件から手を引けよ」
 煙草に火をつけて、抜沢が口を開いた。
「でも…そやかて、オレは」
「そんな顔で、あのチビに会うつもりか?」
 分かってる。酷い顔をしているはずだ、泣きそうな、怒ったような。
「矢部」
「オレは…」
 椿原夫妻の殺害は恐らく蔵内が、一年前の時と同様に、直接ではないが手を下したのだろう。それは、四ヶ月も前に、椿原の家の前で矢部の姿を見かけたからかもしれない。
 蔵内は矢部が公安の刑事だと言う事を知っていた。
「少し、休んでろ」
 そしてその頃からだ、公安が、SWを本格的に調べ始めたのは。
「お前は少し、頭を冷やした方がいい。本部には俺の方から言っておくから」
 矢部が、椿原元光がSWの関係者だと知る以前より、計画されていた事なのだろう。蔵内が、楓の顔を見る為に足繁く椿原の家に通う矢部のその姿を見かけた時から。
 ああ…頭が痛い。ハッとしたその時、いつの間にか抜沢の姿は無かった。どこかへ行ってしまったようだった。
「先輩?」
 自分がどうすればいいのか、よくわからない。ただ、楓の笑顔が見たかった。だからその足で、院へと向う。
「あら?矢部さん…」
 裏庭から入ったのだが、丁度そこで水撒きをしていた芹沢と出会った。
「あ、どうも…」
「今日は早いんですね、何かあったんですか?」
 確かに、時間的にはいつも伺うのよりずっと早い。捜査から外されたとは言えず、矢部はしどろもどろになりながら口を開いた。
「あー、今日、は…その、徹夜になりそうやったんで、早めにと思て、先輩に頼んで抜け出して…」
「そうですか。楓ちゃんは今、丁度読書ルームに」
「そーですか」
 言われてまっすぐ読書ルームに向うと、楓はいた。ぽつんと、壁際にある小さなソファの上で、絵本を読んでいる。
「…かえちゃん」
 名を呼ぶと、顔をあげて満面の笑顔。矢部の胸がずきりと痛んだ。
「絵本、読んどったん?」
 ゆっくりと、矢部は楓の隣に腰を下ろした。コクンと頷く楓の髪を、静かに撫でる。
「かえちゃんは、ホンマにえー子やなぁ…」
 小さな楓。いつもと違う何かを察したのか、矢部の顔をじっと見ている。
「ん?」
 まっすぐに、澄みきった鳶色の二つの眼が、矢部を見つめる。吸い込まれそうなほど、綺麗な眼。
「っ…」
 不意に、何かが零れ落ちた。矢部の目から、雫が零れ落ちる。
「あ、な、何やろ。何でオレ泣いて…」
 小さな楓の幸せを奪ったのは、自分。どこかでそんな事を思ったからかもしれない。ポロポロと、矢部の目から涙。
「ぇあ?」
 それを見て、楓はソファの上に靴を脱いで立ち、矢部の頭をぎこちなく撫で始めた。矢部がいつも楓にするような、優しい手つきで。必死な面差しで。
「かえちゃ…」
 どうしていいか、分からない。ただ、楓の小さなてのひらがいやに暖かくて、心が苦しかった。
「矢部さん」
 少しして、矢部が落ち着いた頃。どこからか芹沢がマグカップを手に部屋に入ってきた。
「あ、芹沢センセ」
 泣いていた事を悟られないよう、慌てて目をこする。が、赤くなって余計に怪しい。
「どうぞ、温まりますよ」
 マグカップを手渡しながら、芹沢が優しく言う。楓はいつの間にか、矢部の膝の上で寝入っていた。
「ども…」
「泣いてらしたんですか?」
「え゛っ?!」
「あ、ごめんなさい。窓から見えてしまって」
 カァッと、顔が熱くなる。そんな矢部に微笑みながら、芹沢は続ける。
「…抜沢さんから、電話が」
「え?」
「話は、大まかに聞きました」
「あ、そーなんすか…」
 マグカップの中には、白い液体。ミルクだろう。それを啜りながら、矢部はチラリと芹沢を見た。
「矢部さんは、どうしたいんです?」
「え?」
「どう、したいんです?」
 繰り返し、尋ねる。
「オレは…」
「抜沢さんからの、伝言です。したいようにすればいいって」
 はっと、芹沢を見遣る。
「誰かの正義なんて気にしなくていいから、自分の正義を見つけろ、と」
 …ふと、思う。
「あの、芹沢センセ?」
「なんですか?」
 不思議。
「芹沢センセは、抜沢先輩とはどういう?」
 今更ながらに気になった。ただの知合いかと思っていたのだが、こんな伝言を頼めるほど、付き合いは深いのだろうかと。
「言ってませんでしたね、そういえば」
「はぁ」
「…婚約者だった、人」
 何故か納得した。
「あ、そーすか」
 だから、芹沢の言葉に抜沢の声がダブったのかもしれない。叱咤されているような気がしたのだ。
「…オレ、行きます」
「ええ、楓ちゃんは私がベッドへ」
「お願いします」
 膝の上の楓を芹沢に頼み、おもむろに矢部は立ち上がった。
「気を付けて下さいね」
 後ろから、芹沢の声。
「はい」
 前を向かないといけないのだ。例え、自分がきっかけだったとしても。小さな楓のこれからの幸せを奪うきっかけを作ったのが、他ならぬ自分だったとしても。
 自分は、刑事なのだからと。

 つづく


ちょっと後半微妙ですね。
微妙キングです(笑)
矢部の涙も書いてしまった…
予定が狂う、方向性が…まずい、修正していかないと。
そして気付いた…さ、30話?!よく続いてるなぁ…(笑)

2004年8月17日

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