[ 第31話 ]


「そうやっ!あいつ瀬原や!」
 張り込み中の車の中で、矢部は突然声を荒げた。運転席でぼんやりしていた菊池は、ビクッと肩を震わせてから、何の事かというようにゆっくりと顔を向ける。
「や、矢部さん?」
 ん?と、矢部は目をぱちくりさせて隣の菊池を見遣った。自分がなぜここにいるのか、状況が飲み込めなかったのだ。無理も無い…菊池の一言により、長々と昔の事に思いを馳せていたのだから。
「あ、張り込み中やったな」
「ええ、まぁ…どうかしましたか?瀬原って誰です?」
 菊池は菊池で、きょとんとしたまま聞きなれぬ名前の主に興味を示す。そういうところはまぁ、刑事らしいというかなんというか。
「あーっとなぁ、瀬原っちゅうんは…昨夜、ほら昨夜や。かえちゃんの事件の前に尾行した奴、おったやろ?」
「えーっと…あぁ、車から降りて矢部さんが尾行した?」
「そう、そうや。色付きの眼鏡に黒い帽子をかぶってた男や」
 昔の事を思い出すのは好きじゃないが、たまには役に立つ事もある…と、一人で自分の記憶力を誉めながら、矢部は懐から手帳を取り出し、ぺらぺらとめくった。
 意外にも、びっちりと書き込まれている。その手帳は、新しい手帳ではない。昔の、黒い皮の表紙に『警視庁』と金色で書かれた、古い古い手帳。
「矢部さん、なんでそんな古いの持ってるんですか?今は…」
 横からそれを覗き、菊池はおもむろに自分の上着に手を突っ込み、ババッとポーズまで決めて今のFBI風の小洒落た手帳を取り出して見せた。
「この、あったらしい方じゃぁないですか」
「お前…」
 矢部は呆れながら続ける。
「そーゆうお前かて、あのでかい手帳やないやないか」
「だってあれ、ちょっと邪魔なんですもん。南方さんはよくあんなの持ち歩けますよね、懐に入らないじゃぁないですか」
「…お前が言うなて。っつか、南方って本名やないやろ?警部?警視?どっちやったっけ?」
 首の後ろをかきながら、小さく呟く。自分が興味のない事は、てんで覚えようとしないのだ。
「どっちでもいいんじゃないですか?それより、古い方の手帳って確か回収されたんじゃなかったでしたっけ?」
「どっちでもて…お前って極端やな。まぁ、あれや、頼み込んで回収せんようにしてもらったんや。中身付け足すんも面倒やしな」
 もちろん普段は、新しい方を使っている。だがこの古い手帳には、矢部の刑事として生きてきた全てがつまっているから…解決した事件も、解決しなかった事件も全て。感慨深そうに手帳をめくる矢部を見て、菊池は首をかしげながら張り込みの対象に視線を戻した。
「菊池」
 手帳に目を落としたまま、矢部は口を開く。
「なんですか?」
 だからかどうか、菊池も対象からを視線をそらさずに応える。
「瀬原…昨夜のおっさん出てきたら言えよ」
「はい、色付き眼鏡に黒帽子の人ですね」
「そや…って、いやいや、いつもそのカッコとは限らへんて」
「あ、それもそうですね」
 照れくさそうに笑う菊池を見て、矢部はついぞ、ホンマに大丈夫なんか、コイツ…などと思ってしまった。
 気を取り直して、手帳をめくる。あるところでピタリと手を止めた。
 ── 椿原夫妻殺害事件…矢部の震えた字が、そこに連なっている。矢部は目を細めながらその文字を指でなぞり、次の文を目で追った。瀬原の名前がどこかにあるはずだ…
 SWの、特に抜沢と共に聞き込みした人間の名前は必ずどこかに記載してあるはずだ。
「これや…」
 ポツリと小さく呟いて、手帳の、見つけたその名前の部分を人差し指でタンっと軽く叩いた。
「え?」
 菊池が何事かと反応するが、それは放っておいて手帳の先を読む。
 ── 瀬原…SW受付事務案内担当、幹部候補。
「幹部候補…確かこいつ、蔵内の下やったなぁ、位置」
 ボソリと呟く。
「そうなんですか?」
「うっさいわ、お前に話しとるわけやないからしっかり張り込みせいっ」
 パコッと、いちいち反応する菊池の頭を軽く小突き、矢部は自分の足を前に放り投げた。ドカッと、まるであの日の抜沢のように、足を助手席の前のダッシュボードに上げて息をつく。
「ちょっ?!矢部さん!汚れるからやめてくださいよ」
「うっさいんじゃボケェ、汚れてナンボや」
「言ってる意味が分かりませんって!」
 …バシッ。あまりにしつこいので、とりあえず無言で、今度は勢い良く叩いた。
「痛いですっ!」
「当たり前やっ、痛くしたんやから」
 矢部のその一言に、菊池は不機嫌そうに叩かれたところをさすり、何かぶつぶつ言いながら視線を戻した。どうやら、障らぬ神に祟りなし…と思ったのかもしれない。何か言えば、叩かれるという雰囲気を感じとったからという方が正しいか。
「…矢部さん」
 だが、自分の好奇心には勝てないものだ。少しの沈黙の後、前を向いたまま菊池が口を開いた。
「あ〜?」
 呼ばれた矢部は、ダッシュボードに足を乗せたままでやる気なく返事をする。
「あの…椿原さんは、昨夜大丈夫でしたか?」
 ピクッと矢部が僅かに反応する。楓の事になると、どうにも過敏になる。
「大丈夫…やと思う、多分」
 腕組したまま力なく応える矢部を見て、菊池は首をかしげた。
「多分?」
「あぁ、多分。そやけど、もしかしたら大丈夫やないかもしれへん」
 ズズッと、座る位置をずらしながら、車内の天井に目を遣る。今朝の楓の様子を思い出してみる…笑ってはいた。変わりない笑顔で、元気に朝食まで作っていた。
 だが、大丈夫なはずはないのだ。あんなに怖い目に合っておきながら、大丈夫なはずが…
「矢部さん?」
「あ?あぁ、そうや…一応は大丈夫やと思う」
 今、楓は一人だ。一人で矢部の部屋で、何を思っているだろう…それを考えると、妙に胸の辺りが苦しくなる。
「菊池、オレ、ちょっと電話してくるわ」
「え?あぁ、はい」
 いてもたってもいられず、矢部は携帯電話を引っつかんで車を降りた。菊池には聞かれたくない、そんな思いから少し離れる。
「何かあっても一人で動くなよ」
「分かってますよ、それぐらい」
 一言だけ残すが、負けじと帰ってくる。菊池らしい…まぁ、大丈夫かとその場を離れ、ダイヤルを押す。楓の携帯電話の、短縮番号。
「何しとるかな…?」
 携帯電話の、時計部分にチラリと目を遣る。11時、少し過ぎたくらいだ。
 ───ルルルル、ルルルル…コール音が鳴る。そういえば夕食を作っておいて欲しいと頼んだのだ、買い物に出ているかもしれない。
「メールにしよかな?」
 そう小さく呟いた時、コール音が途切れた。
『はい』
 楓の、声。何故かホッとする。
「かえちゃん?オレや」
『ケンおにーちゃん♪』
 パッと、明るむ声。
「今、何かしとったん?」
 出るのが遅かったけど…と続けると、楓の笑い声がこぼれるように受話器から聞こえた。
「かえちゃん?」
『あ、ごめんね。今お掃除してたの』
「あ、そうなんや。そんなんせんでもえーのに」
 昨夜、楓を部屋に入れる前に片付けたとはいえ、相当汚れているはずだ。
『私がしたいと思ったの、気にしないで。ケンおにーちゃんが帰ってきた時、吃驚するくらい綺麗にしておくね』
「そ…か?まぁ、楽しみにしとる…そやけど無理せんでえーからね?もうすぐお昼やし、のんびりしとったらえーよ」
『ん…あ、夜ご飯も、楽しみにしててね』
「そやな、どんなん料理が出てくるんか、楽しみやで」
『ふふー』
 楓の笑い声が、胸に染み入る。
「ほな、なるたけ早う上がれるようにするから…」
『うん、気を付けてね』
 そうして通話を終えてから、ふと空を見上げた。晴天とはいかないが、そこそこに心地良い空。こんな日は仕事などせずに、どこか…草原にでも繰り出してピクニックでもしたいと思った。
 だが、そういう訳にも行かない…
 ───チャララ〜♪突然矢部の携帯電話が鳴った。見ると、【菊池】の文字。
「…なんや」
 面倒くさそうに通話ボタンを押して出る。
『あ、矢部さん』
 菊池の声が、どこか緊張しているような気がする。
「なんや動きでもあったか?」
 車へと戻りながら、矢部は言う。
『昨日の、えーと…瀬原という男が』
「…すぐ戻る」
 早々に通話を終えて、小走りで車の方へと駆け出した。


 つづく


…なんだか変なところで終わってしまった(笑)
そしていつの間にか「現在」だし。過去の回想を交えながら、今現在事件編となっております…という感じですか?
書いてる私自身、よくわかりません(笑)

2004年8月22日

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