[ 第33話 ]


「ねぇ矢部さん、どうなんですかー?」
 ピシッと、矢部の中で何かが決壊した。
「…っさいねん」
「え?」
 小さく呟く矢部の声がよく聞こえず、菊池は聞き返した。顔を少し近づけて、耳を傾ける。だが…
「うっさいんじゃボケッ、お前に言う義理ないやろっ」
 決して怒鳴るような声ではない。大きいわけでも、唸るようなか細い小声でもない。高揚のない声で、それによく言われる言葉でもある。
 だが、実際菊池の耳には酷く冷たく、突き放すようなものに聞こえた。見遣られた目つきも嫌に寒々しく、全てを竦ませるような、恐怖すら感じさせるもので、思わず身じろいだ程。
「あ、す、すみません…」
「済まんで済んだら警察はいらんやろ、お前ホンマうっさいねん」
 次の瞬間、矢部の口調がどこか和らいだ。自分でも、今の態度は冷たすぎると感じたのかもしれない。自嘲気味に息をついてから、天井を向いたまま、目を閉じた。
「や、矢部さん?」
「…少し寝る。一時間したら起こせぇ」
「え?あ、はい」
 慌てて菊池は運転席のドアを開けて、車外に出た。寝ると言った矢部の、不機嫌そうな雰囲気を感じ取り、重い空気に息が詰まりそうだったからだ。
 外で、軽く深呼吸をする。そして腕の時計に目をやり、今の時間を確認した。
「オレ、どないしてんやろ…」
 車内では、矢部がポツリと呟いた。
「矢部さん、何であんなに機嫌悪いんだろう…」
 車外でも、菊池がポツリと呟いた。そしてすぐ次の行動に移る…携帯電話を懐から取り出し、親指を素早く動かして、メールだ。
「情報通のアイツに、昔公安で何があったか聞いちゃおうっと」
 恐いもの知らずと言うか何と言うか…これを矢部が耳にしていたら、間違いなくドツカれていた事だろう。だが当の矢部は車内の助手席側で、昼寝中だ。
「なーんか、最近矢部さんについての謎が増えたなぁ…」
 誰ともなしに、菊池は呟く。伸びをした後に、おもむろにスーツの上着のほこりを払い、携帯電話を懐に仕舞いこんだ。
 菊池にとって矢部は、単なる通過点でしかないと思っていた。配属された当初は特に酷かった。上司とはおろか、公安での先輩と言う意識すら湧かず、キャリアの自分の世話係に選ばれたラッキーな中年男、という風にしか見ていなかったくらいだ。
「…一年近く、か。もうそんなに経つんだなぁ…」
 今じゃ、少しは敬意を払ってるつもりだ。一応年上だし、一応階級は上だし。一応、上司だし。挙げればキリがないが、教わった事も多数あるし。少し…ほんの少しは尊敬してる。
 自分にないモノを持っていると、少し羨ましくもある。
「ああなりたいとは思わないけど…ちょっとかっこいいかな」
 ぽそっと呟いてから、はっと辺りを見渡した。柄にも無く独り言が多かった事に気付き、少し顔を赤らめた後、再度大きく伸びをして息をついた。
 菊池なりの照れ隠しなのだろう。
「ホンマ、帰りたなってきた…」
 その頃矢部は、車内で、目を閉じてはいたが眠れずにいた。小さく息をついて目を開け、時計に目をやる。さっき楓に電話してから、1時間ほど経過していた。
 …帰りたい。その次に思ったのは、楓の元へ。そう、楓の元に帰りたいと、強く思ったのだ。その直後、矢部は勢い良く起き上がった。
 ──ガンッ…
「だっ?!」
 自分でも無意識の行動だったもので、勢いに気持ちが追いつかず、天井に頭をしこたまぶつけていまったのだ。痛みについぞ顔をしかめる。
「あた── …」
 痛むところをさすりながら、訳もわからず目をぱちくり。
「何や、今の…」
 オレ、何を思った?続きは心の中で呟き、自問自答。何を思った?楓の元に帰りたいなんて…自分で自分の頭を疑る。
 確かに今は、楓は自分の住むマンションにいるし、しばらくは同じ部屋で寝泊りもするだろう。だが、何かが違う。『楓の元に帰りたい』なんて…まるで恋焦がれているような台詞だ。
「ちゃう。かえちゃんは…いや、オレはかえちゃんの…」
 言葉が続かない。言いたいのは、自分は楓の保護者のようなものなのだという事なのに…言葉が続かない。軽く頭を振って、大きく息をついてみた。
「しっかりせぃ、しっかり…」
 楓の事は、守りたい存在なのだ。それだけは間違いない。それは自分が、楓の両親がこの世を去るきっかけとなったところからくる罪悪感と、小さな楓の笑顔に救われてきた、お礼のようなもの。
 息苦しいような気がする。
「…暑」
 車のエンジンは切ったままだ。エンジン音で張り込みがばれるといけないから。季節は夏、車内にはすぐに熱気が篭る。
 おもむろにパワーウィンドウのスイッチを押す。すると、さすがに高性能の新車。音も立てずにゆっくりと窓が下がり、風が車内に入り込んできた。
「ふぅ…」
 息をつきながらぼんやりと見遣ると、少し離れたところに菊池の背中。濃い紺色のスーツの上着が、やけに涼やかに見える。普通は暑そうに見えるはずなのに。
「…金持ちやもんな、あいつ。どうせえー生地使うて、納涼スーツ仕立てなんやろな」
 なんとなく口にして、苦笑い。
「菊池」
 後ろから、小さく声をかける。
「あ、はい」
 伸びをしていたようで、菊池はぱっと振向いて車の方に駆けてきた。
「なんですか?まだ一時間も経ってないですよ?」
「えーからちょぉ来い」
 窓から手を伸ばし、矢部は菊池のスーツの上着をグィッと掴んだ。
「え?わっ…」
 突然の事で菊池はバランスを崩したが、矢部は構う事無くその上着をまじまじと見つめ、小さく息をついた。
「な、何なんですか?」
「…何でも無い」
 パッと上着を手放す。やっぱり納涼仕立てだ…と心の中で呟きながら。その日はあっという間に時間が過ぎていった。張り込み先の建物からは、時折教団の人間と思しき人間が出てきて深呼吸などして、また中へと戻っていくという、とくに怪しい動きは見られなかった。
 矢部にとっては、瀬原と話をしたというのはもっぱら役には立ったような気もしていたのだが。
「…ほな、もぉ上がろか」
 日はとっぷりと暮れていた。
「そうですね。あ、矢部さんはそのまま帰るんですか?」
「そうやな、なるたけ早ううちに戻りたい思て…」
「…椿原さんに会いに行くんですか?」
 ピクッと、矢部の肩が揺れた。
「椿原さん、一人暮らしですもんね。僕もお見舞いがてら伺おうかな」
 続ける菊池の顔を見ながら、何となくその手を振った。
 ───パシッ。相変わらず、いい音するなぁなどと見当違いの事を思う矢部を、菊池は睨むような目で見遣って口を開いた。
「何するんですかぁ」
「…かえちゃん、今うちにおるんや。お前が心配せんでも大丈夫や」
「え゛?!や、矢部さんのところにいるんですか?」
「そうや。何か文句あるんかぃ、その顔!」
「な、ないですよ、とんでもない!いや、その、ちょっと吃驚しただけですし」
 その後は無言のまま、その車で菊池にマンションまで送らせる事になり、いつも通り、後の処理は菊池に任せた。
「ほな、報告書とか課長に出しとけよ」
 マンションの前。車を降りながら矢部は言った。
「あ、はい」
「…余計な事は書かんでえーからな」
「あ、はい」
「…瀬原の事も書くなよ?」
「あ、はい」
 一瞬、妙な空気がそこに流れた。矢部は目を細め、グルッと車の前を通り運転席側に向うと、開いた窓から菊池の頭を小突いて笑った。
「な、何ですか?」
「ちゃんと聞いとるんか不安になっただけや。ほな、また明日」
 きょとんとする菊池をよそに、今度は車の後ろを回り、マンションへと歩いていく。その後ろ姿を見ながら、菊地の顔にはクエスチョンマークがいっぱい浮かぶ。
「きょ…今日はいつになくおかしかったな、矢部さん」
 ポツリと一言だけ呟いて、菊池もまた帰路へと付いた(警視庁経由で)。
「おかえりなさいっ!!」
 エレベーター内部のランプが9階を示し、降りて自分の部屋の戸を空けた瞬間、お日様のような明るい声が矢部に向ってきた。
 と、同時に、明るい部屋から、いい匂い。
「ただ…いま」
 そこに楓の姿は見当たらない。不思議そうに口篭もり、とりあえず様子を伺う…と、リビングの方から楓が顔を覗かせた。後ろで一つにまとめた髪の毛が、クリンと揺れる。
「ケンおにーちゃ…お、おかえりなさ、い」
 顔を仄かに赤らめ、楓は恥ずかしそうに俯きながら口を開いた。
「え?あ、ただいま…え?」
 さっきの『おかえりなさい』とは、声のトーンが違う。
「あ、あの…ね?あの、れ、練習してたの」
 恥ずかしそうに、楓は言う。
「練習?」
 不思議そうに首をかしげる矢部を見ながら、楓は一層恥ずかしそうだ。
「あ、あの…えっと、ケンおにーちゃんに、おかえりなさいって言う、練習を、ね?」
 しどろもどろに説明する楓を見て、矢部は愛しそうに微笑み、そっと手を伸ばした。くしゃくしゃっと、いつものように優しく撫でる。
「練習の成果、あったん?」
 どうやらその練習中に矢部が帰ってきたものだから、楓は恥ずかしそうにしていたらしい。矢部に言われて、楓は赤い顔を何度も横に振って苦笑いを浮かべた。
「全然、駄目。なんか緊張しちゃって」
「ほぉか?上手に言えとったやん」
「あのね?私、あんまり人におかえりなさいって言った事なかったの。おばあちゃんは家にいる人だったし、寮では同室の人の方が帰宅早かったし…だから本当に、こう、改まって言うの、緊張しちゃうの」
 そんな楓の髪を再び撫でて、矢部は小さくありがとうと笑った。自分の帰りを迎えるために練習までしてくれてと…誰かの待つ部屋に帰るという、幸せを感じさせてくれてありがとうと。


 つづく


矢部さんと菊池の遣り取りが妙でした。
最後の楓と矢部さんのシーンは、ほのぼのと…していたかな?
途中書けなくてヤキモキしてました。
2004年9月6日

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