[ 第36話 ]


 天気がいいから、散歩するのも気持ちがいいと矢部は思った。隣で楓は楽しそうだし。
「あぁ、ここや」
 木立が見えて、何となく指し示す。その指先には、小さな公園。矢部のマンションから、歩いて十数分の距離。
「本当だ、公園」
 楓がパタパタと少し駆けていき、道の先で矢部に手を振った。本当に、心から、このただの散歩を楽しんでいるのが見て取れる。
「そんなに急がんでも、公園は逃げたりせーへんよ」
 微笑ましくそれを見つめ、矢部も少し駆けた。公園に入ると、木立の脇にちょこんちょこんと小さな二人掛けのベンチが幾つかあって、それらに囲まれるように小さな噴水。矢部はキョロキョロと辺りを見渡して、楓の手を取って歩き出した。
 向う先には、自動販売機。
「ケンおにーちゃん?」
「あ、すまんすまん」
 握っていた手をパッと離し、ポケットから数枚の硬貨を取り出した。
「何飲む?」
 楓が首をかしげたままでいたので、とりあえず缶コーヒーを2本。
「ほれ」
「あ、うん、ありがとう」
 そうして、噴水を囲むベンチの一つに腰を下ろす。朝の空気は清々しくて、何となく深呼吸していると楓が笑った。
「なーんや?」
「なーんでもないよ」
 プシュ、とプルタブを開けて、空を仰ぐ。
「お散歩気持ちいいね」
 ポツリと楓が呟く。横を見ると、楓も同じように、空を仰いでいた。
「まぁ、散歩ちゅーても、歩いたんは実質十数分やけどな」
「それはこの際気にしない」
 にこっと、笑う。そうやな、と矢部もつられるように笑い、缶を傾けた。清々しく、爽やかな朝…
「ちょいやー!」
 と、唐突に後ろの方から妙な掛け声が響いた。
「なっ、何や?!」
 あまりに驚いたもので、缶を落としそうになったが、寸でのところで楓がそれを受け止めた。
「ほりゃー、はいやー!」
 格闘技のような掛け声。
「…何やろ?」
「あっちの方から聞こえた、よ?」
「あぁ…」
 人間、好奇心には勝てないものだ。二人は揃って木立の間から、声のする方をそっと覗き見た。
「えい、やー!」
 その目に映ったのは、矢部にとって見慣れた、楓にとって見知らぬ人物。きょとんとする楓をよそに、矢部はおもむろにその場から、今もなお妙な掛け声を上げ何かの構えをしているその男の後ろから近付いていった。
「お、おにーちゃ…」
 楓が止める間もなく。
「やかましーっちゅうねん、ぼけぇっ!」
 ガスッ…と、後ろから背中に豪快に蹴り。
「ありがっ…あぅ、兄ィ?!」
 朝日にキラキラ、オールバックに固めた金色の髪が輝いて、彼はパッと踵を返して驚いた表情を浮かべた。
「お前…石原、こんな朝早うに何怪しげな事しとんねん。職質されるで」
 やれやれという表情で、再度、今度は利き手で頭を軽く叩く。
「あたっ、ありがとーございます…って、わし、早朝トレーニングじゃぁ」
 この公園から、石原の住む警察の独身寮が近い為、石原は毎朝ここで早朝トレーニングと称し、妙な動きをしているという。
「オレんちの近くであほな事すなっ」
 再度叩く。
「そんなぁ…じゃけどわし、兄ィの部下ん時からここでトレーニングしちょったけぇ、今更場所帰るのも…兄ィは何しちょるんじゃ?朝早うに珍しーのぅ」
 石原にしてみれば、矢部がこんな早朝にここにいる事の方が驚きだった。が、それを矢部が答える前に、もう一つの人影に気付く。
「オレは…」
「あれ?あのおなごは兄ィの知り合いですかのぅ…?」
「あ?」
 石原の視線の先を、追う。と、妙な掛け声の主が矢部の知り合いだという事が分かり、ほっと息をついて後を追ってきた楓の姿。
「あぁ、あの子は…」
「あっ!流石兄ィ!早朝からやなくて、朝帰りやね!こんなべっぴんさんと…兄ィ、色男じゃけんねぇ、キャー」
 自分で言いながら恥ずかしそうに目元を覆う石原を見て、つい矢部は拳を固く握り締めた。
 このアホは…
「あ、あの…?」
 楓は楓で、どう反応したらいいのだろうかと首をかしげている。仕方なく矢部は、その固く握り締めた拳を振るった。
「ちったぁコッチの話を聞けぃっ!」
「ぬはっ、ありがとーございまっす!って、久々のドツキは堪えるけん…」
 豪快に殴りつけられ、石原は眉を顰めつつも笑顔に戻り、とりあえずという感じで楓にちょこんと頭を下げた。
「ワシ、石原じゃけん」
 ニカッと白い歯を見せて名を名乗る。それを見て、唐突に楓は「あ」と小さく口を開いた。
「きの…一昨日ケンおにーちゃんに電話してきた人…?」
 矢部の言動・行動で気付いたらしい。
「ケン、おにーちゃん?それって兄ィの事かいのぉ?兄ィ、こんな年の離れたかわいらしゅー妹おってん?」
 楓に引き続き、石原もクエスチョンマークを投げつけてくる。
「い、妹ちゃうわ、この子は、あー…」
 口篭もりながら、石原と楓の顔を交互に眺め、小さく息をついた。どういう関係か…こんなにも悩んだことは無い。
「兄ィ?」
「ケンおにーちゃん?」
「知り合いの、娘…やな。そんでかえちゃん、これ菊池の前の部下の石原や」
 差し障りのない紹介に、二人とも少し物足りなそうな顔で矢部を見たが、ふと息をついてから、お互いに会釈した。
「椿原、楓です」
 明るい栗色の髪を揺らしながら。
「さっきも言うたけんど、わしゃぁ石原じゃぁ」
 ん?と、矢部は首を捻った。石原の、あどけなさすら垣間見える無邪気な笑顔が、まるでお日様みたいで、楓の笑顔とかぶって見える…ような気がした。
「はじめまして…」
「あ、そうなんじゃ!」
 改めて挨拶する楓の言葉を遮ってしまう形で、石原は大きな声を上げた。一人何かに納得しているような。
「は?」
 楓は吃驚して口をつぐんでしまっている。苛々と、矢部は石原を軽く睨みつけた。
「一昨日の晩、兄ィに電話した事知っちょるっちゅー事は、あの事件で攫われそになったいうおなごじゃね」
 あっけらかんと、言ってのける。
「おまっ…」
「すんでのとこで兄ィがかっこよく助けたって話は聞いちょるけ、ともあれ無事で良かったのぉ」
 唖然とする矢部をよそに、まるで中学生にでも接するかのように、石原は楓の頭をポンポンっと、矢部がいつもするような手つきで軽く叩いた。
「はあ、どうも…」
 どう反応したらいいのか、楓はぼんやりと口を開く。
「石原…」
「そん時の兄ィ、かっこよかったじゃろぉねぇ、わしも見たかったぁ」
 キラキラと一人目を輝かせる石原には、もう何を言っても無駄と判断したらしい。矢部はそっと楓の手を引き、その場を足早に立ち去ろうと背を向けたのだが…
「あれっ?兄ィ、どこ行くんじゃー?」
 すぐに気付かれ、石原は慌てて後を追ってきた。
「うっさい、ついてくんな!オレはかえちゃんと朝の散歩を楽しんでるんやから」
 しっしっ、と追い払うように手を振るがお構いなしに石原は後をついてくる。
「そんなぁ、わしと兄ィの仲じゃけん、そんなそっけない事…」
「だー、気色悪いっちゅーねん、ぼけぇっ!」
 しがみついてくる石原に蹴りを入れていると、隣で唐突に楓がクックと喉を鳴らして笑い始めた。
「あ?かえちゃん?」
「あ、ご、ごめんなさい…なんか、どっかでこんな光景見たような気がして」
 片方のてのひらで口元を覆うようにして、くすくす笑う。それを見てから矢部は自分の足を見て、視線を足蹴にされる石原に移し、「あ」と思った。
 まるで、十数年前の抜沢と自分のようだ、と。そしてつられるように、クッと声を漏らして笑った。
「え?なんじゃ?二人ともなんか面白い事でも思い出したんかえ?」
 ただ一人、石原だけが不思議そうに首をかしげる中、楓と矢部は堪えきれずに笑い声を上げた。でもその空気すら何だか楽しくて、いつの間にか石原も、訳も分からずつられるように笑っていた。
「は、ははっ…あぁ、なんやおかしーなぁ」
 早朝の公園に、三人の明るい笑い声。その笑い声が納まった頃、ふと、矢部はまた過去へと思いを馳せるのだった…


 つづく


早朝の不審人物、石原達也(笑)
そうね、きっと髪型はいつも通りの金髪オールバックで、服装は…Tシャツにジャージ…か、デニムのパンツ、かな?
それはともかく、なかなか先に進まない流れですが私はとても楽しいです。
二人が幸せだと感じる時間や、ふと、過去を懐かしむ瞬間。そして、悲しみに埋もれる時々…
楽しいなぁ…(遠い目)
2004年9月24日

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