[ 第43話 ]


「くしゅんっ」
 突然のくしゃみに、隣でビールを飲んでいた矢部は口に含んだものを少しばかり噴出してしまった。
「あ、だ、だいじょぶ?」
 慌ててティッシュの箱を引き寄せ、こぼれたビールを拭こうとするが、ついでに残った液体が気管に入ってしまったらしく、矢部はむせこむ。
「げほっ、えほえほ…」
「お、おにーちゃ…」
 くしゃみをした当人である楓が、慌てて矢部の背中をさすった。
「えほっ、だい、大丈夫やから…」
 涙目になりながら、楓に笑顔を向ける。少し落ち着いてから、楓の用意した水を飲み、一息ついた。
「あー、びっくらした」
「うん、私もびっくりしたよ。大丈夫?」
 顔を見合わせて笑うと、何だか柔らかい空気が流れるような気がした。楓が矢部のところで寝泊りするようになってから、三ヶ月が経過していたある日、だ。
「風邪でも、ひいたんか?」
「え?」
「今、くしゃみしたやろ?」
「あぁ、大丈夫。ちょっとむずむずしただけだから」
「そか?そんならえーねんけど…無理したらあかんよ?」
 クスッと声をこぼしながら、楓は微笑みを矢部に向けた。
「大丈夫、だよ」
 毎晩、二人は当然のように、一つの部屋で手を握って眠る。その為に、どんなに仕事に追われても矢部は必ず家に戻るようにしていた。それだけ楓と過ごす日々が、矢部にとって掛替えの無いものになっていると言うその事実に、本人は気付いていない。
「ほな、今日は早うに寝よか。かえちゃん、風呂上がったばっかやろ?湯冷めしてホンマに風邪ひいたら大変やからな」
「ケンおにーちゃんは心配性ね、大丈夫だってば」
 気づいていない…いや、もしかすると気付いていて、気付かないフリをしているだけなのかも。もう少し起きていたいと続ける楓の髪を梳くように撫でて、矢部は幼子をなだめる様に言う。
「アカン。かえちゃんが風邪ひいて寝込んでも、オレがずっとついて看病する事は出来ひんやから」
 その言葉に、楓は小さく頷いて立ち上がった。
「はーい。そーします、風邪ひいたら朝のお散歩も出来ないもんね」
 パジャマの、袖の部分をつかむようにして、楓は笑った。
「そうやで。しっかし、明日こそあいつには会いたないなぁ…」
「あいつ?あいつって、石原さんの事?」
 初めて二人で散歩した公園で、石原に会ったあの日、矢部はきつく言ったのだ。この公園で早朝トレーニングをするのはやめろと。矢部には絶対服従、従順な石原である…言いつけを守ったようで、あの公園で石原に会う事はなかったが、なぜか悉く別の場所で顔を合わせてしまう。
「ああ毎日偶然続くのも、何や気持ち悪いなぁ…」
 お互いに顔を見つける度に、矢部は呆れたように、石原は気まずそうな表情を浮かべるのだ。そんな二人を見て、楓は決まってくすくすと笑う。
「不思議だよね、私いつもおかしくて笑っちゃうの」
「明日こそは、やな」
 楓にしてみれば、どうしてこんなにも矢部が石原をぞんざいに扱うのか…それが不思議で、それでも矢部の顔を見つけた時の石原の、気まずそうな、けれど嬉しさを押し隠したような表情を見ると微笑ましく思い、笑ってしまうのだ。
「きっとどこかで通じてるんじゃないかな」
 不意にそう漏らすと、矢部は心底嫌そうな表情を浮かべ、手にしていたビールの缶をぐいっと傾け中身を飲み干した。
「きしょい事言わんといてぇな…」
 ガシガシと首の後ろをかく矢部が、嬉しそうな、けれど気恥ずかしそうな顔を浮かべているのを見て、楓はまた笑った。
「じゃ、寝よっか」
「そやな、そうしよ」
 そうしてこの日の夜も、いつものように過ぎていく。
「あ?」
 翌朝、恒例と化した早朝の散歩も終えて仕事に向かう矢部の携帯に、電話がかかってきた。
「何や、お前…何の用やねん」
 思いがけない人物だったせいか、ついつい口調も悪くなる。
「あー?何でオレがそんな…え?待てコラ!って、お前勝手な事言うて…」
 どうやら受話器の向こうにいる相手が早口で用件を言うものだから、矢部はいつもの調子がなかなか出てこないらしい…
「待て言うとるやろがっ!あ?ちょっ、ちょぉ待てぃ!それとコレとは話が別やて、分かったから、後でそん…話いうのを聞かせろや」
 相手とどのような会話をしているのか…最初はやる気なさげに、むしろ煩わしそうな態度だった矢部は、急にその態度を豹変させた。通話を終えるとどこか遠くの方を見遣り、息をつく…今日は仕事になりそうにない。それが今の、率直な感想だ。
「…ま、話聞きゃすっきりするやろ」
 矢部の予想通り、その日は全くといっていいほど、仕事にならなかった。五ヶ月にも及び、なおも続く例の宗教団体に対する張り込みも、はっきり言って進展なしだ。
 向こうが動きを見せないのだから、こちらも動きようがないというのが実際のところ。誰かに文句を言えるでもなく、半日が過ぎていった。
「あれ?矢部さん…どっか行くんですか?」
 お昼を近くの寂れた蕎麦屋で済まし、一度警視庁に戻ってから、おもむろに矢部は席を立った。
「ちょっと野暮用や」
 昼休みの一息、まどろんでいた菊池が声をかけると、矢部は気だるそうに答える。
「戻りは何時ごろですか?」
「分からんわ。お前、先に張り込みに戻ってろや、後から行くから」
 窓の外に目を遣りながら、矢部は言う。天気次第で、上着を着ていくかどうか悩んでいるのだ。
「えぇ〜、また僕一人で張り込みですかぁ…」
「何や、文句あるんやったら聞いたるで」
「いえ、ないです」
 ここ数ヶ月で、菊池はすっかり変わり身が早くなった。場の空気を読むことも上手くなったのではないかと思い巡らし、矢部はニヤリと笑む。
「そやったらしっかりやれよ。ほな、あとでな」
「はい〜」
 矢部はデスクチェアにかけていた濃いグレーの、スーツの上着を引っつかんで、後ろ手を振りながら警視庁を後にする。少しして、菊池のいる場所から窓の下に目を遣ると、ぼんやりと歩む矢部の姿が目に入った。
 カラフルなシャツを着ているので、遠めにもすぐ分かる。例えごくごく普通の上着を着ていても。
「知らなかったなぁ、僕…」
 ポツリと、菊池はそんな矢部を見ながら呟いた。菊池はここ数ヶ月、矢部の過去について調べていたのだが、色々と、自分が知ってはいけなかったと思うような事まで知ってしまい、少しばかり、矢部を見る目が変わっていた。
 どう表現したらいいのか、苦々しいモノを感じていた。が、元来のこの性格のおかげか否か、矢部自身が自らの過去を知られているというのには気付いていないようだった。
「警視総監賞…か」
 怒ったわけも、もちろん、楓との意外な繋がりも。街角に消えていく矢部の姿を見送った後、フイッと視線を空へと映す。
「雨降りそうだな…」
 ぼんやりとかすんだ空、蒸し蒸ししていて気温は高いのに、今日の空模様は間違いなく悪天だ。微妙だが。
「あー、かったるいねんなぁ…」
 自分がそんな風に見送られているとは露知らず、矢部はたらたらとビルの隙間を縫うように歩み進む。雨が降るかもしれないな…と、菊池と同じような事を思うが、矢部の勘はまだ大丈夫だと告げている。
 ちらりと腕の時計に目を遣り、再び息をつく。面倒くさくって仕方がないというような素振りだ。
「あっちゅう間に季節は流れるんやな」
 待ち合わせは、警視庁から歩いて15分くらいの場所にある、少し広い公園。予定より早く到着して、おもむろに木陰のベンチに腰を下ろした。気だるい気温、蒸した空気…その一つ一つが、色々と矢部を物思いにふけさせる。
「かえちゃんがこっち来て、四ヶ月くらいになるんかなぁ」
 泣き出しそうな空を仰ぐ。薄いグレーの雲は、見ているだけで気分が萎える。だが、この四ヶ月を思うとそんな事は、どうでもよい事だ。
 眠る時に繋ぐようになった楓の手のひらの、華奢なぬくもり。子犬のようにころころ変わる表情と、太陽のような眩しい笑顔。不意に見せる、悲しい涙。
「…少しどころかかなり早く来過ぎたな」
 空から、視線を腕に移す。待ち合わせの時間まで、まだ10分ほどある。だからついつい、色々考えてしまう。矢部は拳を軽く握りながら。小さく静かに、少し長めに息をついた。
 楓の作った料理を、楓と一緒に食べた。毎日毎朝、欠かす事無く朝の散歩をした。並んで歩く道は、一人で歩く時よりずっと一層、色鮮やかに見えて新鮮だった。
「かえちゃんは、今、幸せなんかなぁ…」
 自分なんかと一緒にいて、それで楓が本当に幸せなのか…悩む。矢部にはさまざまな表情を見せてくれる楓と、ずっと一緒にいる事は無理だと分かっているのに、これからもずっと一緒にいられればいいと、なぜか思う。
 楓の、笑った顔が好きだ。
 だから、その笑顔が曇る事のないように、見守っていられればそれでいいと、思っていたのに…
「あ、矢部さーん!」
 唐突に、声をかけられた。その方向に首を回すと、待ち人が手を大きく振りながら歩いてくるのが目に映った。
「お前…」
「あれー?早いですねぇ…待ち合わせの時間より5分も」
 奈緒子は自分の腕の、小さな時計を見ながら呟いた。
「ちょっとな…で、話って何やねん」
 気だるそうに席を立ち、奈緒子に向き合う…奈緒子が、矢部を呼び出した張本人だった。
「何でそんなだるそうなんですか…」
「貴重な昼休みつぶして来てやってんぞ、だるいどころの話とちゃうわ」
 大きな欠伸。奈緒子は呆れたように、らしいですねと笑った。
「それにしても…雨降りそうですね」
「まだ大丈夫やろ」
 空を見上げる奈緒子の言葉に、すぐに反応する。と、強い風が吹いた。
「うなっ?!」
 強風…さっと髪を押さえる矢部とは逆に、奈緒子の髪がぶわっと掻き乱された。長い髪は無造作に乱され、見る影無くぐちゃぐちゃだ。
「お前…お化けみたいやで、その髪」
「すごい風ですね、びっくりした…」
 乱された髪を、掻き揚げるその仕草は結構サマになっている。
「台風の季節やからな…風も強うなるやろ」
 その言葉に、奈緒子はちらりと矢部を見遣り、クッと声を漏らした。
「あ?」
「や、矢部さんはソレ、風に飛ばされないようにしてくださいね…笑っちゃって話になりませんから」
 ピシッと、矢部の額に十字の血管が浮かぶ。
「ソレって言うなっ!風に飛ばされてたまるかぁっ、コレは頭皮から直に…ってそんな話やないっつの!」
 ペチン…と、奈緒子の額を叩きながら矢部は続ける。
「お前がかえちゃんの事で話がある言うて呼び出したんやろが!さっさと話せぃ!」
 あぁ、ハイハイと奈緒子は額を押さえながら、再度笑った。


 つづく


ぐだぐだチャンピオーン、射障 斎参上(笑)
あ゙あぁぁ…乾いた月の中では今、夏だそうです。なんて季節感のない話なんだ…
微妙に急展開ですしね(笑)
ちと過去話に力入れすぎたみたいですわー(←言い訳)

2004年11月30日

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