[ 第60話 ]


 電話が鳴った。
「…はい」
『俺だ』
 受話器越しに、どこか緊迫した重い響きの声。
「あら、どうしたの?忘れ物でもした?」
 矢部と抜沢の食べた後片付けをしていた芹沢は、片手に拭いたばかりの皿を持っていた。
『聞きたい事がある』
「なに?」
 電話の向こうには、抜沢。
『チビの事だけど』
「いい加減、名前で呼んであげればいいのに」
『…楓の事だけど』
 あまりにも自然に言い直した事に、疑問を感じた。
「…何?」
 あまりにも、冷たい響き。
『いつからああだ?』
「何が?」
 何を聞きたいのか、意図が読めない。だが、先ほどの楓の様子から何かあるとは思っていた。
『いつも、アイツ…楓、矢部を目で追ってるだろう。あれはいつからだ』
「いつって…最初からよ。ずっと。矢部さんがいない時でも、いつでも姿を探してる」
 一人ぼっちなのだ、頼れる人の姿を探すのは当たり前だと続けながら、抜沢の言葉を待った。
『じゃあ、あれはいつからだ?』
「形容詞を使わないでよ、何の事を言ってるのか分からない」
 受話器の向こうで息を呑む音が聞こえた。
『お前のそばをちょろちょろするようになったのはいつからだ?』
 ハッとした。そういえば、おかしい。楓は言葉を口にはしないけれど、よく笑うし、他の子供達とのコミュニケーションもとれている。ここに来た最初の頃はともかく、慣れてくれば一人で絵本を読みに行ったりもしていた。
 なのに。
「…この、二・三日だわ」
 正確にはいつからだろう?気が付けば楓は、必ず誰か、大人の近くにいた。特に芹沢の傍を、離れようとしない。
『何が原因か、分かるか?』
「…ごめん」
 一番近くにいながら、気にかけてくれと言われていたのにも関わらず、気づく事が出来なかった。自分のやっている事はなんだったんだろう…芹沢の心に、罪悪の気持ちが生まれる。
『謝るな』
「ん…思い出してみる、きっと何かあったはずだから」
『ああ、頼む』
 頼んだぞ…小さく繰り返しながら、電話は切れた。用件だけ、抜沢らしいと笑みながら、くるりと踵を返した。ソファには、楓が横になっている。
 静かに寝息を立てて、眠っている。そうだ…昼寝の時間でも、どんな時でも、周りに目を配り誰かの姿を探している。
「楓ちゃん、何があったの?」
 そっと横に腰掛けて、楓の髪に触れた。その時だ。
「んっ…」
 楓が眉を顰め、身じろいだ。
「楓ちゃん?」
「っ、はっ、んっ…」
 うなされるように、呻く。小さな肩を震わせて。
「楓ちゃん?」
 芹沢が名前をもう一度呼ぶと、ハッと目を見開き、すぐさましがみついてきた。
「楓、ちゃん?」
 は、は、は、は…短い周期で呼吸をし、がくがくと震えている。何かを、恐れている。こんな小さな少女が。
「楓ちゃん?」
 ふっと顔を上げる楓は、何度か短い周期の呼吸の後、自らその呼吸を整えるかのように大きく吸っては吐きを繰り返し、ぎゅ…と、さらに強く、芹沢の服を握り締めた。
「どうしたの?楓ちゃん…何が、あったの?」
 ふるふると首を横に振る。口を僅かに開きかけたものの、ぎゅっと噤んだ。
 ─── 言っちゃダメなの。
 その様子が、そう言ったように見えた。ぐっと、突然芹沢は楓を抱きかかえ立ち上がった。
「そうだわ、確か…」
 ふっと記憶が蘇る。そうだ、確かあの日だ。楓の様子がおかしくなった日を思い出したのだ。抱きかかえたままで部屋を出て、別の人間に楓を託した。
「ちょっと楓ちゃんをお願い、大事な用があるの」
 託されたのは、園でも古株の中年の女性だ。
「ええ、分かりました」
「タツくん、来てるわよね、どこかしら?」
 そのまま女性に尋ねると、彼女は手を広場の方に向けて答えた。
「砂場の横で本を読んでましたよ」
「ありがとう」
 そう、思い当たるのは二日前のあの日だ。その時、楓のそばには一人の少年がいた。
「タツくん」
「あ、由美センセー」
 小学六年生くらいの少年だ。彼もまた、ある事件で父親を亡くし、母親はそのまま心に傷を負って入院生活を送っている、淋しい子供だ。
 警察関係者の手によって、ここでしばらく暮らした後は父方の祖父母に引き取られたのだが、今でもよく遊びに来る。
「元気?」
「元気だよ、どうしたの?センセー」
 真っ黒な髪、真っ黒な瞳で、無邪気に笑う。
「昨日…一昨日かな?来てたよね?」
「うん、来てたよ。あ…駄目だった?」
 ひょいっと首をかしげて、覗き込むように芹沢の表情を窺う。
「ううん、いつでも遊びに来て。元気な姿のタツくん見られて、先生も嬉しいから」
「そっか、良かった」
「でね、一昨日…楓ちゃんと一緒に遊んでいたでしょう?」
 タツは、頻繁に園に遊びに来る。小さい子の面倒見も良くて、最近は特に、楓と一緒にいた。喋りはしないものの、可愛らしい仕草の楓を妹のように見ているのだろうと、芹沢は暖かい気持ちになったものだ。
「うん、一緒だった。楓ちゃんちっちゃくて可愛いし、それに色々あったって言うから心配だったんだ」
 無邪気な無邪気な、その笑顔。
「そう…ありがとう。あのね、それで…何か、変わった事、なかった?」
 数年タツの成長を見届けてきた芹沢、彼を少なからず信頼していた。真っ直ぐな少年だから。
「変わった事…」
「そう、例えば…誰かに何か、言われたとか」
「それ、僕が?それとも楓ちゃんが?」
「…楓ちゃん」
 芹沢の言葉に、タツの瞳がきらりと光った。猫のような、細い三日月のような。
「僕、覚えてるよ」
 タツから話を聞いて、やはりそれが原因だと芹沢は改めて思った。早く抜沢に知らせなければ…
「見た事全部、余す事無く俺に言え」
 芹沢から連絡を受けて、とんぼ返りに園に戻ってきた矢部と抜沢。抜沢は、かなり強引にタツを小さな部屋に引っ張り込んで低く唸った。
「先輩っ、そないにおどかしたらアカンですて」
 慌てて矢部が制止するが、気が逸るのも無理はない。矢部自身も、早くこの少年から話を聞きたかった。
「あ、あの、僕…」
 抜沢の剣幕に多少おずおずとしながら、タツは小さく、遠慮気味に口を開いた。
「僕…砂場にいたんです、楓ちゃんと」
 楓は砂場で、塔を作ろうとしてたと言う。タツはその傍らで、学校で出された読書感想文の宿題を何とかしようと、本を開いていた。
「砂場…」
「楓ちゃんが、一生懸命にしてるから…水を汲んでこようと思って、ちょっと離れたんです」
 離れたとは言っても、砂場から水場までは目と鼻の先、5メートルも離れていない。姿は良く見えたという。
「それ、で?」
 押し黙る抜沢とは逆に、矢部はごくりと喉を鳴らした。段々とタツに近づく。
「そ、それで…そしたら、向こうからおじさんが、来たんです」

 ─── …ジャリ、ジャリ。土を踏む音が、やけに響いて聞こえた。
「やあ、楽しそうだね」
 見知らぬ男だった、年の頃は…どの位だろう?見た目で年が分かるほど、タツの目は肥えていない。
「山を作ってるんだね」
 遠めにも、男の声はよく聞こえた。砂場の周りには、他に誰もいなかったからかもしれない。楓が、身を強張らせているような気がした。
 慌てて駆け寄ろうとした時に、男が言った。
「いい子だね、約束を守って」
 楓の知っている人なのだろうか…?不意に足を止めて、見ていた。
「いい子だ…そのまま、何も言っちゃ駄目だよ?」
 男は笑顔で、そう言った。笑顔なのに、妙に怖い。
「もし言ったら…そうだな、この前も言った事、覚えてるよね?」
 楓が小さく頷くのが見えた。

「それ、で?」
「顔が近いぞ、矢部」
 気付かない内に、矢部はタツの鼻に矢部自身の鼻がくっつきそうなくらい近づいていた。それを、抜沢が見かねて引き離す。
「わっ…あ、と、ゴメンゴメン」
 タツは吃驚しながら、首を横に振る。
「それ、で…男は何を、言ったんや?」
 ドクン、ドクン、ドクン。心臓が、嫌な音を立てている。
「小さな、声で言ったんだ。囁くように、楓ちゃんの耳元で」
 ガタン、と、抜沢が席を立って窓の方へと移動した。
「なんて…?」
「凄く小さな声で…」
 おずおずと続ける。
「ボウズ、聞こえなかったとか言わねぇよな」
 窓際で、抜沢がぼそりといった。その言葉に反応するように、タツは慌てて立ち上がる。
「そりゃ、よく聞こえなかったけど、でも僕、ちょっと唇読めるもん!」
 彼は続ける。自分のその言葉が、この二人の男に何を伝えるのか、その事の深い意味も知らずに。
「あのおじさん、楓ちゃんに言ったよ。もし喋ったら…」

 ─── …身を強張らせる楓の耳元で、男は言った。
「もし喋ったら、キミの一番大切な誰かが、大きな大きな怪我をするからね」
 にこり、恐ろしく冷たい笑顔で。
「お父さんとお母さんみたいに、死んじゃうかもしれないからね」


 つづく


いよっしきたぁっ!
佳境です佳境、過去の事件の佳境です!
ここからまた深く深く、痛いところまで突っ込んでいきます。
そしてさりげなく、自分的にうわぁ!な感じなキャラが…分かる人は分かる、多分。
こんなん予定してなかったんだけどなぁ(汗)

2005年6月7日

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