[ 第68話 ] 「ご、ごめんなさい」 はっとした。何も答えない矢部に向かって、楓は慌てて頭を下げたのだ。 「あ、いや、えーねん…」 「ううん、私無神経だった、ごめんなさい…」 「えーよ、そんな…謝らんといて」 泣き出しそうに、困った表情で頭を下げる楓の頬に、そっと手を寄せて矢部は微笑む。 「おにーちゃん…」 「な?」 「ん…」 そっと顔を上げると、楓の目に矢部の微笑んだ顔が映った。だが、どこか悲しそうな笑顔。 「…いつか、話すから」 「え?」 「かえちゃんにも、関係のある事や。いつかちゃんと話すから、もうしばらく、待っとってくれへんか?」 自分の中で、整理がつくまで。 「う…うん」 「おかしな話やろ。ずっと昔の事やけど、オレん中じゃぁ、ちゃんとけじめ、ついとらんのや」 「ううん、おかしくなんかないよ。誰でも…そういうの、あると思う」 「そか」 その日、矢部は非番であったのにも関わらず警視庁へと向かった。楓を一人、部屋に残して。 「あれ?矢部さん…」 「よぉ、どや」 公安部、公安第五課の執務室を訪れると、菊池が驚いた表情を向けていた。 「矢部さん、今日って非番じゃなかったでしたっけ?」 ちらちらと窓の外と矢部を見比べながら、菊池は言う。 「何やねん、その行動は」 「え?いやぁ、雪でも降るんじゃないかと思って…」 「阿呆か、今何月や思とんねん」 いやぁ、ははは…誤魔化すように笑いながら、珈琲を入れて寄越した。 「どうぞ」 「おお、気が利くな」 一口飲んで、小さく息をつく。 「で、どうかしたんですか?」 席に戻った菊池は、何かの書類にペンを走らせながら、そんな矢部に改めて声をかけた。休みの日に警視庁に矢部が足を運ぶのなど、滅多にないことなのだ。 「ん〜、ちょっとなぁ」 ブラックで飲む珈琲は、気を静める時にいいなとなんとなく思う。それほどまでに、落ち着かないのだ。 「矢部さん、来たんならついでにちょっと書類整理していったらどうですか?またあんなに溜め込んで、あとが大変ですよ?」 矢部のデスクを持っていたペンで指し示しながら、菊池はからかうように言った。高く積み上げられた書類の山…それを一瞥して、矢部はそうやなと笑う。 「うわ、なんだかいつになく真面目ですね」 「人聞きの悪い事言うなや、オレはいつも真面目やないかボケェ」 くるりと方向転換をする動きに合わせて、菊池の頭部を軽くはたいて席へと向かう。 「あたっ…て、どこがどう真面目なのか教えてほしい…」 小声でつぶやく菊池の声は矢部には運よく届かなかったようだ。 「…いつの間にこんなに溜まったんやろか」 ギッ、と椅子をきしませながら腰を下ろし、一番上の書類に手を伸ばした。 「何言ってるんですか、現場あけたらまっすぐ帰ってたからに決まってるじゃないですか」 「お前はいちいちうっさいねんっ!」 目の前に転がっていた消しゴムを菊池に向かって投げつけると、見事にヒット。 「あいたっ?!って、消しゴム…小学生みたいな悪戯しないでくださいよ」 「お前がいらん事言うからや、消しゴム返せ」 「…自分が投げたくせに」 ぶつぶつと文句を言いながらも、自分の頭部にぶつけられた小さな消しゴムを、菊池は軽く放って矢部に返した。 「それにしても、人生ってのはなかなか上手い事行かんねんなぁ…」 先ほど手に取った書類を、半ば無意識的に紙飛行機に折り込んでから、矢部はぽつりとつぶやく。 「え?」 「お前はそんな事、ないやろ?多少の事なら金の力で何とか出来よるもんなぁ」 「ええ、まぁ」 「…少しは謙遜せぇや」 出来上がった紙飛行機を、またも投げつける…というよりは、菊池に向かって飛ばす、と表現する方が正しいだろう。緩やかな弧を宙に描いて、紙飛行機は菊池の目の前にぱたりと落ちた。 「…何遊んでるんですか」 「それ、お前の担当な」 「って、押し付けるんですか…」 「しゃーないやろ、書類がお前に処理して貰いたい言うたんやから」 菊池は小さくため息をついて、折り込まれた書類を広げながら答える。 「またそういう子供みたいな事を…」 「どーせオレは子供や、なーんも上手い事出来ひん、不器用なガキやねん」 「いい年して何言ってるんですか、矢部さんらしくないですよ。血肉沸き踊る四十代じゃなかったんでしたっけ?」 広げた書類にペンを走らせながら、しれっと菊池は言ってのける。いつかの矢部の言葉を思い出して付け加えながら。 「それもそーやけどなぁ…」 その言葉に、つい口元が緩む。可愛げのかの字も見当たらないような返答だが、なんとなくいつものペースに戻れている事に気付き、ほっとする。 「で、何があったんですか?」 一口二口、押し黙って珈琲を飲んでいると、不意に菊池が口を開いた。 「なんもあらへん」 「何もないにしてはおかしいですよ、今日の矢部さん」 「そぉかぁ?」 「ええ、とても」 その菊池の言葉に、矢部は深いため息をつく。 「椿原さんと喧嘩でもしたんですか?」 「んーにゃぁ、かえちゃんとオレはいつでもフレンドリーや」 どこか気だるそうに。 「喧嘩じゃなくても、何かあったって感じですよ」 からかうような口ぶりに、矢部はちらりと菊池の後ろ頭を見やり、小さく息をついた。 「なーんもあらへん」 「それなら別にいいんですけどね。どっちにしろ僕には関係ありませんし」 「なら聞くなや…」 つい呆れてしまう。菊池とのこんな遣り取りも、いつの間にか当たり前のようになってしまった。よくよく考えると、付き合いも結構長い。 「お疲れー!」 と、呆れていると突然ドアが開き、数人がばたばたと執務室に入ってきた。 「おぁっ?!」 「あ、お疲れさまでーす」 「おうっ、お疲れー」 菊池が爽やかに声をかけると、連中も疲れた表情のままで片手を挙げて答える。公安五課の、同僚刑事たちだ。その中には、矢部の良く知る人物もいた。 「あにぃー!!」 入ってくるなり唐突に矢部に向かって突進してくる金髪の男…周りの同僚たちは、また始まったとでも言うような表情で、むしろ微笑ましげに見ている。 「鬱陶しいんじゃっ、なつくなボケェッ!!」 抱きつかれそうになるのを交わしつつ、見事な後ろ回し蹴りを決める。 「つっ、だぁっ…りがとうございますっ!」 石原達也、30歳… 「お前は…毎回アレやな、一個事件のカタが付くとタガが外れたようになるな、ったくイチイチ邪魔くさいねん」 そう、エース級と呼ばれる彼らの、扱っていた事件にやっとけりが付いたという事だ。捜査中は、他との交流を一切遮断される…住まいが近所だけに偶然顔を合わせてしまうのは別として、職場でこうして面と向かうのは随分と久しい事だった。 「兄ィっ!ワシ、今回も大活躍じゃったけー」 「嘘を言うな、嘘を。こんだけ一流揃とるのに、お前が活躍できるわけないやろ」 あはは…と、俄かに室内が賑わう。 「そうでもないぜ、矢部ちゃんよぉ。石原も随分使えるようになってきた」 石原と同じエース級の一人が、石原の肩を叩きながら笑う。事件の概要や捜査の内容を明かす事は決してないけれど、この、事件が終わった後だけは随分と気が緩む。 「あんまりコイツをおだてるな、調子に乗せると痛い目あうで」 「それは言えてるな。よし、すぐに新しい案件あるからな、石原、しごいてやるよ」 にやり、意地悪そうに笑む同僚を見て、矢部は苦笑いを浮かべるしかなかった。自分にもこんな時期があったと、石原に自分の昔をついつい重ねてしまう。 「ワシ、でも兄ィと一緒に捜査出来んのは寂しいのぉ〜」 「キモイ事言うなっ、しっかり鍛えてもらえて万々歳やろが」 惜しいよな…矢部の耳元で、誰かが言った。 「あ?」 「矢部もよ…アレがなかったら、こっちで捜査やってたかもしんねーだろ」 あぁ…と別の誰かがうなづく。どうしてこうも、昔の事を思い出させる事が続くのだろうか… 「昔の事や、いちいち引っ張り出さへんでもえーよ、めんどいし」 苦笑いのまま言うと、事情を知っている者たちは曖昧に相槌を打って、それぞれに束の間の休息をとりはじめる。石原も、空いた席に腰掛けて、矢部に向かってにこりと微笑んだ。 「あぁ、石原。お前、ここのところ出ずっぱりだろ?明日は休みでいーんじゃねぇのか」 今現在石原と組んでいる年配の捜査員が、菊池が慌てて煎れた熱いお茶を口に含みながら言った。 「え?ワシ大丈夫ですじゃぁ…」 「大丈夫なわけあるか、厚意なんやから甘んじて受けや」 矢部にまで言われて、石原は渋々と席を立つ。どうやらまだここにいたいらしい。 「オレも帰るわ、今日は非番やし」 「非番なのに来てるのかよ、惜しいな、課長がいたら点数稼げたのに」 からかう同僚の肩を小突きながら矢部も席を立つと、当然のように石原が一歩後ろに続いた。 「兄ィ、途中までワシ、一緒してもえーかのう?」 「うっさいわお前、さっさと家帰って寝ろ!」 時刻はまだ、午後の三時を回った頃。疲労感漂う執務室を出ると、少し遅れて菊池が矢部を呼び止めた。 「矢部さん」 「あ?何や?」 「まだ明るいんですから、呑みに行ったりしないでくださいよ。明日はまた張り込みがあるんですから」 「お前に言われんでもわかっとるわ、んじゃぁな」 「大丈夫じゃ菊池、ワシ、途中まで一緒じゃから」 お目付け役じゃ、とガッツポーズをする石原を見て、菊池はぎこちなく笑う。 ───ピロロロ…唐突に鳴り出す携帯電話。 「あ、オレや。お前、えーからさっさと帰れ」 「兄ィは冷たいのぉ…しゃぁないから帰るけぇ、じゃぁな、菊池」 「ええ、お疲れ様です」 後ろで菊池と石原の遣り取りを聞きながら、矢部は一人、携帯電話を開いて屋上へと向かう事にした。このままだと石原と一緒に帰る羽目になりそうだったから。 電話は僅かワンコールで切れたが、着信表示を見て矢部は息をついた。 「ワン切りなんて覚えやがって…」 つづく すごく訳のわからない状態になってますね。 書いてて自分でも既によくわからない感じです(汗) ところで、久しぶりに出てきた菊ちゃん、エラい使い勝手が良いのですが(笑) 2005年7月12日 |
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