[ 第72話 ]


 ─── ケンおにーちゃんへ。
 黙っていてごめんなさい、好きな人が出来ました。
 その人に、ケンおにーちゃんとの事を誤解されたくないので、
 自分のアパートに戻ります。
 今まで、色々な事、ありがとう。
 昔の事も、全部、ありがとう。
 私はもう、大丈夫だから。
 ケンおにーちゃんはケンおにーちゃんの、
 幸せを大事にしてください。
 優しいケンおにーちゃんが、大好きでした。
 ありがとう、さよなら。 楓より ───────…

「な…何や、これ」
 目を丸くして、何度も何度も読み返した。
「え?好きな人って…え、出て、行った?」
 バッと、部屋の中を見渡す。そうだ…すっきりしたように見えたのは、楓のモノがないからだ。そんなに色々持ってきたわけではないが、楓が両親と写っている写真とかがない。
「あ…」
 寝室の戸を開けると、矢部が眠るときに使っていてそのままにソファーにかけていたタオルケットが、綺麗に畳まれてベッドの上に。
 楓が使っていたタオルケットは、ベッド脇に追いやられている。はっとしてチェストを見ると、中身が空だった。
「ホンマに、出て…?」
 わけがわからず、外に目を遣る。薄暗い空、降りしきる雨。
「こん雨ん中…を?」
 はっとして、矢部は慌てて部屋を出た。玄関に無造作に転がっていた革靴を引っ掛けて、マンションの外へ。
「かえ、ちゃん…」
 傘はなかった。雨の日に、楓がいつも持っていったグリーンとブルーの、チェックの傘。でもこの雨の中、出て行った楓が心配で…傘も持たずに、駆け出す。

「よい…しょっと」
 楓はアパートの、自分の部屋に鞄を運んでいた。大きなコロコロ付きの旅行鞄。電車に乗って運んでいる時、なぜか旅に出る気分だった。
「…っくしゅん」
 くしゃみをひとつ。この静かに降りしきる霧雨の中を歩いてきたのだ、体も冷えて当然だった。
「さ、む…」
 軽く肩をさすってから、部屋を見渡す。矢部の部屋に世話になっている時でも、二週間に一度は掃除のために来ていた。
 明かりもつけずに、鞄を中に運ぶ。影に、遺影が視界に映りこんだ。
「…ただい、ま」
 一度だけ手を合わせて、呟く。薄暗い室内で…前髪をぬらす雫が、ぽたりと零れ落ちた。
「ふ…」
 不意に襲い来る、虚無感。楓は一度大きくかぶりを振って、静かに深呼吸をしてから、荷物をそのままにふらりと部屋を出た。降りしきる雨の中を、ただ、ぼんやりと。
「雨、雨、雨…」
 ひとしきり濡れてしまったのだから、今更…そんな事を思った所為か、傘も持たずにふらふらと。
「夏の終わりに降る雨、か…」
 手のひらで雨を受けて、ポツリ呟く。
「幸せに、なれるかな…」
 雨の降る暗い空を見上げると、冷たい雫が頬を濡らす。幸せに、なれるだろうか、あの人は。
「ケン、おにーちゃん…」
 私に沢山の、幸せをくれようとした。優しい人、ケンおにーちゃん。想うと胸が痛く感じるのはきっと、焦がれていたからだ。
 いつも傍にいてくれた。
 いつも側にいてくれた。
 守ってくれた。
 笑ってくれた。
「ケンおにーちゃ…」
 雨と、涙と。雫が頬を濡らす。雨が降っていてよかったと、楓は思う。雨が涙を誤魔化してくれるから。
「あっ…」
 パシャッ…何かに足が引っかかり、バランスを崩して地面に膝を付いてしまった。
「あー…」
 服に泥がはねてしまった、膝も…手のひらも。ふっと気が付くと、そこは公園だった。随分歩いたらしい、知らずの内に、ここはあの公園。
 矢部と、初めて一緒に散歩した朝に訪れた公園。矢部が、髪の長い女性に恋を打ち明けた公園。
「公園…」
 小さくかぶりを振って、ここを離れようと思った。ここは矢部のマンションに近いから、もしかすると出会ってしまうかもしれない。
 こんな自分を、見られたくない。
「つ、あっ…」
 立ち上がろうとして、再びバランスを崩す。何かと足元を見ると、どうやら突き出した木の根っこに靴のかかとが引っかかってしまっていたらしい。
「うー…」
 眉を八の字にして、靴を脱いで引っ張る。
「たっ」
 何とか外せたものの、よく見るとかかと部分が欠けていた。
「あー…これじゃ歩きにくい、よ」
 何がきっかけになるかわからない、涙が溢れてとまらなかった。
「もう…やだっ」
 押し込んでいた全ての思いが、心の中をぐちゃぐちゃとかき乱していく。冷たい雨、涙、ぬかるむ足元。楓は力任せに、持っていたその靴を投げ飛ばした。
「ひっく…」
 しゃくりあげながら、何度も目元を拭うが涙は止まらない。
「もう…やだ、よ」
 自分で自分がよくわからない。思えば昔から、そうだった。自分の願いはいつも、押し隠していたような気がする。両親を亡くしたあの頃から…
「どーしたんじゃ?」
 不意に、聞き覚えのある声とともに、黒い傘を掲げられた。
「え?」
 顔を上げると、そこにはどこか懐かしい微笑みを浮かべた、見慣れた顔。
「あ…」
「やっぱり楓ちゃんじゃぁ、こん髪ん色は遠め目にも目立つのぉ」
 くしゃ…と、雨に濡れた髪を軽くなでて、その人は楓の目の前に、ぽとんと何かを置いた。
「石原、さん…」
 それは楓の、今しがた投げ飛ばした靴。
「歩いちょったら靴が飛んできたけぇ、びっくりした」
 にこりと、微笑んで楓の腕を取り、立たせる。
「…ごめんなさい、靴…かかとが欠けちゃって、イライラして」
 涙を悟られないように、うつむいて。
「あぁ、それはイライラするのぉ。ワシも前に、靴の底がペロッと剥がれた事があっての。そん時はイライラしたもんじゃ。同じじゃのぉ」
 うつむく楓の顔を覗き込むようにして、石原は再度笑った。
「顔、泥と雨でぐちゃぐちゃじゃ」
 唐突に、スーツの上着の袖で楓の目元を拭き上げる。
「ん?!」
「折角めんこい顔なのに、台無しじゃ」
「あ、ありがとう、ございます…」
 何だろう…この感じ。この人の笑顔は、ケンおにーちゃんに似てる。でも、それだけじゃなくて…
「っと…どうしたんじゃ?」
 ぐらりと、一瞬視界が歪んだ。崩れかけた身体を、石原が慌てて支えていた。
「え…?あ、れ?」
「身体、こんなに冷えてもうて…送るけん、はよ帰って暖かくするんが良かぁと思うんじゃ」
 その言葉に、楓はビクリと身を固めた。
「なんじゃ?」
 一歩も動こうとしない楓の顔を、再び覗き込む…びっくりするくらい蒼白い。
「か、楓ちゃん?熱、あるんじゃないんかのう?顔が真っ青じゃ」
 そっと楓の身体を支えたまま歩こうとする石原の、腕を楓は強く掴んで首を振った。
「家、兄ィんとこじゃろ?すぐじゃけ、送ってくし…」
 石原の言葉に、何度も強く首を振る。
「楓ちゃん?」
「だ…駄目、ケンおにーちゃんには…知らせちゃ、だ…」
 ぐらり、再び歪む視界に、今度は成す術もなく、楓の身体は力なく崩れ落ちた。それを、石原は支える。
「わっ?!か、楓ちゃん?」
 知らせちゃ駄目…何度もうわごとの様に繰り返す楓の目もとの涙を静かに拭い、石原は小さく息をついた。
「何があったんか知らんが、意志が固いんは昔と変わっちょらんのぉ…」
 傘を一度地面に置いて、意識のない楓を背負い、石原は立ち上がり置いた傘を手にした。彼女が拒むのなら、彼の元に連れて行くことは出来ない…自分に出来る事をしようと、薄く微笑んで歩き出すのだった。


 つづく


キ タ よ…よし、コレだよコレ。
書きたいシーンに行くために必要不可欠な奴の登場ですよ。この為に今までちらちら意味もなく出てきたこやつですよ(笑)
しかも過去から何気にさりげなく繋がっているというのが、ポイントでしょう。
全部全部、あらゆる人物が点と点で繋がっているのって理想ですよね。あらゆるとまではいきませんが、ちょこちょこっと繋がっているので良しとしましょう。
もうちょこっと現在書いたら、過去事件の方のケリをつけましょう。

2005年7月18日

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