[ 第73話 ] 電車に乗って、歩いて、歩いて、歩いて。矢部は楓のアパートに辿り着いた。部屋の位置を見上げるが、明かりはついていなかった。 「かえちゃん…」 はぁ…と、つく息はわずかに白い。冷たい雨の降る中、矢部は手に、あの手紙を握り締めていた。楓が残していった手紙を。 「…話、くらいは」 突然の事で、混乱していた。こんなに急に出て行くなんてと…少しくらいなら、話をする為に会いにきたで済ませられるかもしれない。階段を一歩ずつ、ゆっくりと上がりながら何度も呼吸を正した。 ── ピンポーン…インターフォンを鳴らすが、応答はない。そっとドアノブに触れると、鍵がかかっておらず開いてしまった。 「かえ、ちゃん?」 ガチャリ、キィ…静かにドアを開けて中を見渡すが、そこには誰もいなかった。薄暗い部屋の中に、開けかけたままの大きな旅行鞄があるだけで。 「かえちゃん?」 恐る恐る名前を呼んで、小さく息をつく。どこへ行ったのだろう?こんな時間に… 「もう、遅い時間やのに…」 ちらりと見やる腕の時計、時刻はもうすぐ午後の七時を差そうとしている。 「…会いに?」 会いに、行ったのだろうか。手紙に書かれている、好きな人に。 「つっ…」 そう思った瞬間、ドクン…と、心臓が重く鳴った。 「あかん…」 ぎゅ…と、目を硬く閉じて呟いた。何を困惑しているのだろう…楓が幸せなら、それでいいじゃないか。それで楓が幸せになれるのなら、いいじゃないかと。 「何…考えてんのや、ったく」 楓の幸せだけを、願っているのに…心の中では、ずっと傍にいて欲しかったと悔やむ自分がいる。ずっと傍にいて欲しい、ずっと傍にいさせて欲しい。 そうすればオレは、幸せだ…そんな風に楓の幸せを願いながらも、自分も幸せになりたかった。 「帰る…か」 小さく息をついて外に出てから、何ともなしに空を見上げた。暗い空、広がる雨雲、降り続ける雨。 「まさか…な」 ふっと胸に、不安が過ぎった。暗い空、暗い空、闇、夜…部屋にいない楓。夜に一人で、外に出た楓。 「大丈夫、や、きっと、多分…」 言い聞かせるが、不安は大きくなるばかり。あの夜を、思い出さずにはいられない。唇を強くかんでから、矢部は部屋を出て階段を駆け下りた。 バシャッ…ぬかるむ足元、泥水がスーツに撥ねたが、気にしている余裕など一切ない。階段下で雨を避け、懐の携帯電話に手を伸ばす。番号を呼び出そうとして、気がついた。 「あ…」 わずかに震える指先…何を恐れているのだろう、一層強く下唇をかみ締めて、ボタンを押した。 『─── この電話は、電源が入っていないか、現在電波の届かないところに…』 耳に押し当てた携帯電話からは、機械的な声しか聞こえなかった。 「な…」 どうしよう…楓の身に何かあったらどうしよう。今日、ついさっき楓の両親に、楓を守ると告げたばかりだと言うのに。 ハァ…白くかすむ息。再び空を見上げてから、矢部はふらりと歩き出した。どこへともなく。 シュン、シュン、シュン、シュン…やかんのお湯の沸く音で、楓の意識は現実に程近い場所まで戻された。 「お湯…」 ポツリ、呟く。うっすらと開かれた視界が捕らえたのは、見覚えのない部屋、天井、畳のにおい。 「あ、気付いた?」 誰かの優しげな声、柔らかい布が楓の頬に触れた。 「ん…?」 「熱、結構高いのぉ、もうちょっと休みぃ」 誰だっけ、この人。濡れた髪を拭くように、タオルで頭をなでられて、楓は移ろう意識の中をぼんやりと泳いでいた。 「さっき、寮のおばちゃんに頼んだけぇ、今夜はおばちゃんの部屋で寝るんがえーよ」 優しい声… 「ケン、おにーちゃ…」 かすむ声で無意識に名を呼ぶが、彼がその人でない事は良くわかっていた。その人とは、決別したのだから。 「やっぱり兄ィに、連絡するか?」 「それはだっ、つっ…」 その言葉に、バッと起き上がって後悔した。酷い眩暈、嘔吐感、頭痛。 「あぁ…わかったわかった、ほら、横になりぃ」 「つ…」 目の前が信じられないくらいぐらぐらとゆれている、まるで大地震を経験しているようで、心臓がバクバクと鳴り響く音で余計に頭が痛い。 そこでやっと気がついた、彼が誰であるか。 「石、原さ…」 「目ぇ、瞑った方がえーと思うけ」 そっと瞼に手のひらをあてがわれて、眩暈が和らぐのを感じた。 「石原さん…わた、し…」 「夏じゃからって、雨に打たれっぱなしはあかんよ。冷たい雨やから…」 優しい声、優しい… 「似て、る…」 ふと、思った。 「んー?」 「石原さんの声…ケンおにーちゃんの声に、似てる」 知らず知らず、口元は微笑んでいた。 「ホンマに?嬉しいのぉ、兄ィはワシの目標じゃけ」 声が似ているわけではない…柔らかさが似ていた、暖かさが同じだった。ふと、石原の手のひらが何かで濡れた。 「どーしたんじゃ?さっきから、ずぅっと泣いてばかりじゃけぇ」 「分かんない…です」 「兄ィと喧嘩でも、したん?」 黙って首を小さく横に振る楓を見て、石原は目を細め、空いた方の手で楓の髪を静かに撫でた。 「おにーちゃんの傍にはもう、いられ、ないの…」 「そーなんじゃ…」 静かに、優しく。 「私…もう、駄目…」 涙は止まらず、石原の手のひらを濡らし続ける。 「大丈夫じゃぁ、そんなに水分出すと、干からびてまうよ?」 今はゆっくり、おやすみ…そう続けながら、石原は楓の髪を撫でる。優しい手つき、優しい声。錯覚しそうになる… 「ケンおにーちゃ…」 優しい手で髪を撫でられた事を思い出す、優しい声で大丈夫だよと言われた事を思い出す。胸が苦しくて、痛くて。 シュン、シュン、シュン、シュ…楓の涙が止まった頃、石原は立ち上がってコンロの火を消した。 「強くて弱い子じゃのぉ…」 屈んで涙をタオルで拭いてから、静かに息をつく。その後、部屋を訪れた寮母に楓を託し、石原は携帯電話を手にとった。 「…あれ?話中じゃ、仕方ないのぉ、また後でかけるかのぉ」 呼び出した番号にかけるが、無情なツー、ツー、ツーという音だけが響いていた。かからないのなら仕方がないと、ため息をついてから、その携帯電話を足元に転がした。 「今夜は雨の所為か、ちょっと冷えるのぉ…」 バフッ…と、中途半端に畳んだ寝具に身を預けて、カーテンの隙間から暗い夜空を眺める。 「…今日の雨は、冷たい」 呟きながら、自分の手のひらに目を遣る。もうとっくに拭いたけれど、楓の涙の感触が残っていた。悲しい涙は似ていると、なんとなく思う。季節の変わり目に降る冷たい雨に。 「そういやワシも、昔はよぉ泣いたもんじゃ…」 自嘲気味にクスリと笑んでから、静かに目を閉じる。眠るわけにはいかない、ちゃんと楓の事を伝えなければならない人がいるから。 「明日、休みじゃし…」 寝具に頭を預けたままで、着たままのスーツの上着の内ポケットから四角い箱を取り出した。一緒にライターも取り出す。一本中身を取り出して、咥えて、ライターで火を点す。本当はライターではなくてマッチを使いたいのだが、両手を使わなければならないマッチは少し不便で、いつの間にか持ち歩かなくなった。 昔見たあの人は、煙草はマッチで火をつけて、煙をゆっくりと燻らせていた。 「懐かしいのぉ…」 そんな姿がとてもかっこよくて、憧れていたものだ。深く吸い込んで、静かに煙を吐きながら石原は思う。 皆が皆、幸せになれればいいのにと。 「…雨、止みそうにないけぇ、明日は寒そうじゃ」 二・三本吸い終わる頃に、身を起こして短くなった煙草を灰皿に押し付けた。転がったままの携帯を拾い上げる…随分ゆっくり吸っていたらしい、携帯の画面に表示された時刻は、21時を少し回っていた。 つづく あれ?もうちょっと書きたかったんだけどなぁ…、まぁ、仕方あるまい。 最後なぜかいっしーの独り舞台(笑) もうほぼ、彼の正体は明らかになったでしょうね。あぁ楽しい。 あと1話くらい現在を書いたら過去に行こうかなぁと思います、予定は飽く迄予定ですが(笑) 何気に抜沢さんのファンが増えていてびっくりです、あとが怖いなぁ… 2005年7月19日 |
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