[ 第74話 ]


 一晩中、冷たい雨の降りしきる中、矢部は街中を彷徨い歩いた。白い息をつきながら、その姿だけを一心に探して。
「かえちゃ…」
 体が凍えていくのも気にせず、かじかむ指先を気にも留めず、ただひたすらに。どこにいるかもわからないその姿を求めて。
「無事で、おってや…」
 音も立てずに降り続ける雨。何を恐れているのだろう…暗い空を見上げながら何度も思う。いつかは別れが来ると覚悟していたはずなのに、いざその時が訪れると、これだ。未練がましく姿を探して、どうする気なんだ?
 その手を掴んで逃げる事など、叶いはしないのに。楓には楓の、思う誰かがいるというのに。
「あれ?矢部さん?」
 街角、薄暗い路地裏。偶然とは奇妙なものだ…探し人は見つからないのに、どうでもいい奴とはこうして出会う。
「菊池…」
 紺色の傘を差して歩いていた菊池。いつもならこんな雨の中を歩いたりはしない、迎えを呼んでさっさと家路に着いているはずだった。
「あーぁ、ずぶぬれじゃないですか…どうしたんですか?」
 掲げられた傘の取っ手を見て、矢部は思わず苦笑する。なんて高そうな傘を差しているんだろう、こいつは。目に入ったのは某有名ブランドの刻印だった。
「探しとんのや…」
 雨に濡れた目元を拭い、ポツリ答える。
「こんな雨の中を?何か大事なものでも落としたんですか?」
「それならえーけどな…」
 ただ単に落としただけなら、地面を這いずり回って探せばその内見つかるだろう。
「え?」
 菊池は不思議そうに、首をかしげる。よくみると、空いた手に小さな紙袋を持っていた。傘と同じブランドの刻印…あぁそうか、買い物の為に仕事帰りに街に出て、雨が降ったからその店で傘を買ったというわけか。
 全く関係のない事を思いながら、自嘲気味に笑む。
「矢部さん?」
「…かえちゃん、見ーひんかったか?」
 一瞬、ほんの一瞬だが、もしかしたら楓の好きな男は菊池かもしれないと思ってしまった。けれどすぐに思い直す。ここにコイツがいるのなら、それは絶対ありえないと。
「椿原さん?見てませんけど…はぐれたんですか?携帯は?」
「携帯…繋がらんのや。電源入ってないか、どっか、電波の悪いとこにおるようで」
 そう答える矢部を見て、菊池はぎょっとした。泣き出しそうな顔…初めて見る矢部の表情に、戸惑いすら覚える。
「矢部…さん?」
「かえちゃん、な…オレんとこ、出てったんや」
 呟くように続けて、掲げられていた傘を避けて、路地裏を出る。
「ちょっ、矢部さん?」
「好きな男が…出来たって。そん男に誤解されとうないって、出てったんや」
 振り返らずに、言う。
「好きな、え?で、でもそしたら、矢部さんのところに来る前にいた部屋に戻ったんじゃないんですか?部屋、解約してないって言ってましたよね?」
 矢部の背中を慌てて追うが、彼は立ち止まろうとはしない。
「おらへんのや、その部屋にも…もう、こんなに遅う時間になっとんのに」
 オレは心配で…続ける矢部にとりあえず傘を掲げる。こんな矢部を見るのは初めてだ。頭部のものが水に濡れる事をあんなにも嫌って、雨の日は庁内で仕事を済ませようとすらするのに。
 そんな事、一切気にしているようには見えなかった。
「どこにいるのか分からないのに、探してるんですか?」
 ふっと、矢部はおもむろに立ち止まって振り返り、ぎこちなく微笑んで見せた。
「心配で、な」
 心配で心配で、不安で、怖くて。
「でも、だからって…」
 小さな子供じゃあるまいし、そんなに必死に探さなくても…そう言いかけて、やめた。思い出したから、夜、外にいて攫われて、襲われかけた事が彼女にはあるのだと。
 その時の矢部を菊池は見ていないが、一通り事が済んでから辿り着いた現場で、矢部の鉄槌を受けた二人の男を見てぞっとしたものだ。
「手伝い、ますか?探すの」
 男は二人とも、気絶していた。致命傷は、矢部の拳が放った一発だった。
「頼める、か?」
「ええ、もちろんですよ」
「お前潔癖症なのに、こん雨ん中…すまん、な」
「謝らないでくださいよ、矢部さんらしくない」
 持っていた傘を、菊池は矢部の手に無理やり握らせた。
「菊池?」
「それ、使ってくださいよ。もうずぶ濡れで意味ないかもですけど。僕、そこのコンビニで買いますから。で、向こうの方探しますね、何かあったら携帯に電話ください」
 我ながら珍しい事を言っている…菊池は自分でもよく分かっていた。でも、今の矢部を見ていると、それくらいしか出来ない気がして。立ちすくむ矢部に一礼して、菊池は小さく足を鳴らして視界に映り込むコンビニに駆け込んだ。
「…なんや、気持ち悪いくらいえー奴やな、あいつ」
 握り締めた傘の柄、その時初めて気が付いた。指が痛い…かじかんで、しびれるような痛み。
「探す…か」
 はぁ…白い息をついて、歩き出そうと一歩足を前に出して、唐突に身を固めた。
「つっ…?!」
 地面が揺れたように感じた。
「っと?」
 気が付くと、膝を突いていた。
「なん…や、今の?」
 膝を突いたまま、唖然と地面を見つめる。行き交う人々が、怪訝そうな表情で矢部をやり過ごしていく。
「…アカン、な。邪魔やな、オレ…」
 何が起きたのかよくわからないが、とりあえずこの場を離れようと立ち上がる。どこかフラフラとしながら、人の影の少ない路地で壁に手をついて、息をついた。
 さっきのは何だったんだろう?急に足元が揺れたような気がしたのだが…ぼんやりとすれ違っていく人物の顔をちらちらと伺いつつ、背広の内ポケットに手を突っ込んだ。携帯電話を取り出す…時刻は21時、少し過ぎ。
「っつー…」
 楓を探したいのに、身体が思うように動かない。重い。心なしか視界も霞んで見える。ただ、自分の付く白い息だけは、やけに鮮明に見えていた。
「あかん…おかしい、目が…」
 ぼやける、かすむ。そのまま、矢部の身体は濡れた地面に崩れ落ちた。手放された傘が、無造作に転がっていく。
 なんや…顔が冷たい。あぁ、オレ、何しとんねや…地面に顔へばったかて、見つかるわけないやん。
「か、え…」
 意識は虚ろ、視界は真っ白。サーっという、静かに降る雨の音だけ。
 ─── ピロロロロ、ピロロロ、ピロロ…そんな雨の音に混じってどこか遠くの方で、軽快なリズムの電子音が鳴り響いている。コレは何の音だ?喧しい喧しい喧しい…

 あ…コレ、は。

「あれ?」
 雨は少し、強く振り出していた。サーっという、静けさを秘めた音はとうに消え去り、ザーッという、濁音を含んだ音が耳に付く。
 菊池は真剣に楓の姿を探していた。けれど、当てもなく探すというのには限界がある。さりとて、矢部が諦める事はありえないと分かっているから、自分も頑張って探した。けれど…
「…東京も広いからなぁ」
 どこを探しても、見つかる確立はとてつもなく低いはずだ。自分ともあろう者が、コンビニで売っている一本300円くらいのビニール傘なんか差して、何をしているのだろうかと不意に思う。
 そんな時だった、それが聞こえたのは。雨が降ると不思議なもので、普段は聞こえない音が聞こえたりする。コレもその類かと思った。けれど、気付く。
「これ…携帯電話の、着メロ?」
 携帯の着信音が、今や着うたにまで進化した昨今。矢部は頑固にもメロディだけのものを愛用していた。
 もちろん、そんなのは幾らだって他にもいるだろう。だがしかし、このメロディは…
「矢部さん?」
 何の曲かは知らないが、なかなかコアなメロディだった気がする。他に使っている人なんか、いないというくらいに。少し胸騒ぎを感じ、菊池は音のする方へと駆けた。
「あ、れ…?」
 その姿を見つけて、蒼褪めた。
「やっ、矢部さんっ?!」
 最初は何だろうかと思った。少し近づいて、人が倒れているのだと分かった。もう少し近づいて、髪型とスーツの上着から覗く派手ながらシャツで、それが彼だと知ったのだ。
「ちょっ、矢部さん!どうしたんですか?大丈夫ですか?」
 慌てて駆け寄って、手を伸ばす。意識はないように見えた。
 ─── ピロロロロ、ピロロロ、ピロロ…そんな矢部の手のひらの中で、延々と鳴り響く軽快なメロディ。
「あーもうっ、煩いなぁ…もしもし今立て込んで」
 もしかしたら一時を争うかもしれないこんな時にと、やきもきしながらその携帯に出て、思わず口を噤んだ。随分と聞き覚えのある声が聞こえたから。
『あれ?お前菊池?』
 少し訛りのかかった口調、この声は…
「石原、先輩?」
『兄ィは?』
 電話の向こうから、不思議そうに訊ねる声がしてはっとする。
「あ、あの、今ちょっと立て込んでて…」
『そか?そんじゃけ兄ィに伝えちょってや、楓ちゃん今、ここにおるて』
 え…?思わず聞き返した。
「今、何て…?」
『楓ちゃん、ここにおるて。なんや兄ィとあったみたいでのぉ…兄ィには今は会いとぉないて』
「楓さ…椿原さん、そこに?」
 信じられないのも無理はない。石原が楓を知っている事自体、信じられないのだから。
『ちょっと雨に打たれて熱出しちょって、今寝とるけぇ…あ、寮のおばちゃんに看てもらっちょるけん、伝えといて』
「わかり、ました…」
 詳しい話を聞きたいが、今はそれどころではない。楓がそこにいるというのなら、自分や矢部がこうして探し回る必要もなくなったのだ。小さく、ほっとするかのように息をついて、菊池は電話を切った。
「…矢部さん、矢部さん大丈夫ですか?」
 さっき…倒れている矢部に慌てて駆け寄った時、あまりにびっくりして傘を放り出していた。雨が顔を濡らす。菊池は、乱れてしまった矢部の頭部のものを整えてやりながら思った。
 この人はこの冷たい雨の中、ずっと歩き回っていたのだろうか…?
「矢部さん、目、覚ましてくださいよ。朗報ですよ?」
 否応無く頬をぺちぺち叩くと、矢部はうっすらと目を開けた。その時ふと、気付いた。熱い。顔が熱いという事は、熱があるんじゃないだろうか?
「菊、池…?」
 白い息を吐きながら、ぼんやり虚ろなまなざしを向けてくる。
「椿原さん、無事ですよ」
「かえ、ちゃん?」
「石原先輩のところに…いるって。熱があって、それで…石原先輩、寮の人に看てもらってるって」
 菊池の声は、矢部に届いている。だが意識が追いつかず、矢部は自身をもどかしく思いながらもゆっくりを身体を起こした。手を借りながら。
「大丈夫ですか?」
「かえちゃ…石原のとこに、おるって?」
「ええ…それより矢部さん、大丈夫ですか?」
 大丈夫か?馬鹿な事を聞いてくる奴だ…遠目にそんな事を思いながら、ふらりと歩き出す。
「ちょっ、矢部さん?」
「だい、じょうぶや…悪かったな、こん雨ん中。も、帰れ、風邪、引くな、よ」
 馬鹿なのはオレも同じか?途切れがちな言葉が余計に自分を追い込んでいるような気がする。ふらり、ふらり、数歩進んで、転がる傘を拾い上げ、矢部は振り返って笑った。
「傘、借りとくわ」
 ふらり、ふらり、少しずつ歩いていく。その後姿がいやに冷たくて、心配にないながらも菊池は後を追う事が出来なかった。


 つづく


ほらー…だから間を空けると文章おかしくなるんだってば!(逆切れ)
矢部さんと菊池の感情転換が難しいにょ。うにょらー!
アレなんだよね、書きたいシーンだけはちゃんときっちり設定情景完璧に考えて脳内で文章化してるんだけど。
途中経過は行き当たりばったりな射障です(笑)
もうちょっと現在です。

2005年7月23日

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