[ 第75話 ]


「って、見送ってる場合じゃないよっ!」
 ぼんやりと矢部の後姿を見送っていた菊池だったが、はっとした。あんな状態で無地に帰る事出来るのか…慌てて後を追う。
「矢部さんっ!」
 思ったとおり、道脇の壁にもたれかかるようにしている矢部を見つけて駆け寄る。
「大丈夫や…」
「大丈夫なわけないじゃないですか、ほら…こっち」
 送ろうにも今日は歩き。グィッとその腕を掴むと、強引に道路側へと引っ張った。
「菊池?」
 虚ろな矢部の言葉に答えずに、手を伸ばす。キッと、タイヤを軋ませて一台のタクシーが目の前に停まった。
「運転手さん、すみませんがこの人、ここまでお願いします」
 雨に打たれながらも器用に胸元から何かを取り出して、数枚の一万円札と共に運転席の男に手渡す。
「お客さん?これじゃ多いですよ〜」
「この人、雨で濡れてるから。シートのクリーニング代にでもして」
 折りたたんだ傘と共に矢部を後部座席に押し込んで、ドアを閉めるとわずかに微笑んで、やっとほっと息をつく。とりあえずはコレで大丈夫だろう、あとは明日にでも、様子を見に行こうと、走り去るタクシーを見送らずに踵を返した。
「お客さん、大丈夫っすか?」
 タクシーの車内で、気だるげに目を閉じる矢部を見て運転手が口を開くが、今の矢部に応える気力は無く、適当に相槌を打つ。
「ありがとうございましたー」
 数十分後、タクシーは矢部のマンションの前に彼を降ろし、静かに走り去っていった。
「…あぁ、家か」
 下ろされて、なぜかしばらく矢部はその場に立ち竦んでいた。どうにも熱が出てきたらしく、自分の状況がイマイチ掴めないでいるのだろう…ぼんやりとした目つきでフラフラと、エレベーターに乗り込んで9のボタンを押した。
 そういえば、さっきは何も知らずにこのボタンを押したんだ…楓が出て行く前の事をふと思い出しながら、エレベーターを降りて部屋のドアに手をかけた。鍵をかけずに出たのだろう…何もしなくともドアは開いて、矢部を迎え入れた。
 ズ…チャ、ズチャ。
「重…」
 靴の中はもちろん、全身雨に濡れて、重く沈む。歩くと、その部分に足跡が滴った水で残るほど。
 ズチャ、ズチャ…靴を脱いで部屋に上がると、余計に酷い。
「あぁ、もう…あかんねや」
 靴下を脱いでは、無造作に捨て置く。上着を脱いでは、その場に落としていく。朦朧とした意識の中で、寝室に行くとそのままベッドへその身を沈めた。
「あ…」
 シーツは、楓が出ていく時に新しいものと変えていったらしかったが、ふわりと優しい香りがした。それは、楓の香り。
「かえちゃん…?」
 ベッドで眠るのは、幾日振りだろうか?ぼんやりとシーツの上に手のひらを滑らせていくと、ベッドから腕がだらりと垂れ下がった。自分で何をしているのかよく分からないまま、ぶらぶらと腕を揺らす。
 指先に、何かが触れた。柔らかい、優しい手触り…それは楓の使っていたタオルケット。出て行く時にベッド脇に寄せられていたものだ。
「あー…これや」
 ぽつり、呟きながら手に取り、手繰り寄せてそのまま抱きしめた。シーツよりずっと、楓の香りがする。
「…幸せに、なりぃや」
 やわらかくて、優しい手触り。あたたかくて、甘い香り。このまま、これを抱きしめて眠れば、いい夢が見られるかもしれない…濡れた衣服を身にまとったまま、矢部は目を閉じた。
 嫌な事全部、忘れられるかもしれない。ただ、あの子の幸せだけを願うなら…

 それは静かな光景だった。夢を見ているのだと、はっきり自覚できた。
「ケンおにーちゃーん」
 青空、広い青空。遠くであの子が、手を振っていた。満面の笑顔で。
「かえちゃん」
 楓は、今の楓だった。綺麗に成長した、蝶のような楓。ひらひらふわふわと、風に衣服の裾を揺らせながら笑っている。
「かえちゃん」
 もう一度名前を呼んでから、気付いた。矢部は、あの頃の矢部だった。18年前の、あの事件があった頃の。
「ケンおにーちゃん、ほら」
 楓は近くまで駆け寄ってきて、両手を広げた。目の前に、色とりどりの花。
「綺麗でしょ」
 にこり、笑う。まぶしい太陽のような、きらきらした笑顔だと思った。
「うん、綺麗や」
 手のひらから零れ落ちる一輪を手にとると、楓は嬉しそうに笑って言った。
「ケンおにーちゃん、初めて会った頃のケンおにーちゃんだね。若い!髪の毛短い!」
 楽しそうに、おかしそうに。手を伸ばして楓は、短い矢部の髪の毛に触れた。
「若いとえー男やろ」
「うん、いー男だね」
 今でもかっこいいよ…そう続けながら、楓は笑う。
「…惚れたらあかんで」
「何で?」
「何でって…今は、オレは若くないやろ」
 それに…
「それにかえちゃんには、好きな奴がいてるんやろ?」
 矢部のその言葉に、楓は悲しそうに微笑んだような気がした。ただの、願望かもしれない。
「ケンおにーちゃんも私も、幸せになれたらいいね」
「…そやな」
 願望かも、しれない。今の楓と、若い自分が出会ったなら…迷う事無く恋をした。全力で恋をして、その身を抱きしめていただろう。
「かえちゃん…幸せに、なるんやで?」
 でも、そんな事は願うだけ無駄だ。どう足掻いたって自分は40代を過ぎた中年男で、彼女を孤独にした張本人なのだ。
「なるよ、幸せに」
 だからこそ、祈る。君が幸せであるようにと…

「…さん、矢部さん!」
 耳元で声をかけられて、はっと目を開けた。
「誰やっ?!」
 ガバッと身を起こして、後悔した。ぐらりと脳みそが豪快に揺れるような、眩暈。
「っと、つ…」
 その眩暈に耐え切れずに、一度起こした身を再びベッドに沈めた。これはどこか二日酔いに似ていると、何となくだが思う。
「あー…大丈夫、じゃなさそうですね。今日は休んだ方がいいみたいですね」
 その声に、視線だけ動かして声の主を探る。いや、そんな事をしなくても誰かは分かってる。
「菊池…お前、どやって入った?」
 菊池は飄々と、ベッド脇の…楓がいる間、矢部が寝床にしていたソファに座り込んで携帯電話を開いていた。
「どうやってって…鍵、開いてましたよ。無用心ですね」
 ピ…と、ダイヤル操作の音が聞こえ、菊池はどこかに電話している。
「ああ、菊池です、ご苦労様です。今日は矢部さんと、外部の捜査をしますのでそちらには行かないと思います。はい…ええ、そうですね、じゃ」
 おそらくは警視庁の誰かと話をしているのだろう…
「課長には今うまく言っておきましたから、今日は一日休んでてください」
「課長、か…今の」
「ええ、そうですよ…それより、休む前に着替えた方がいいですよ。それ、昨日のまんまじゃないですか」
 言われて初めて、矢部は自分がスーツのままだという事に気が付いた。しかも、なんだか湿っている。
「そういえば、上着はそっちの部屋に床に落ちてましたよ」
 おもむろに、菊池は立ち上がって寝室を出て行き、すぐに手に何かを持って戻ってきた。それは先の、スーツの上着。
「…あぁ、そういや、めんどくてその辺に」
「あーぁあぁ、濡れっぱなしじゃないですか。一応ハンガーにかけときますけど、一回クリーニングにでも出した方がいいですよ」
「余計なお世話や」
 矢部の気だるげな口調に苦笑いを浮かべ、菊池は言葉通り、矢部の濡れそぼったスーツの上着をハンガーにかけた。
「じゃ、僕は仕事に行きますよ。夜にまた来るんで、その時に報告書だけ書いてください。一応矢部さんも一緒に仕事した事にしておくのに必要になりますから」
 飄々とそんな事を言うのに、なんだか無性におかしくなってくる。サボりの手順まで進められるようになったなんてと。
「報告書…か、お前が書いとけばえーやん、あとでサインと判子だけオレやるから」
「そういう訳にもいきませんよ。矢部さん、公安長いでしょう、課長が字見て分からないわけないじゃないですか」
「それもそか」
「とりあえず、安静第一で休んどいてください、じゃ」
「…おう、じゃ」
 慌しく出て行く足音を聞きながら、再び口元に笑みを浮かべた。刑事らしくなってきたなぁ…なんて、つい思う。
「刑事…やねんなぁ」
 ふと、見つめる視線の先には菊池がかけていったスーツの上着。あの上着のポケットには、随分と長い間入れっぱなしのモノがある。濡れてしまって紙袋は一層くしゃくしゃになった事だろう…
「…石原んとこに、おるんやて?」
 上着を見ながら、誰ともなしに口を開く。
「石原、か…」
 ふぅー…と、長く大きな息をついてから、諦めたように体を起こした。身体が異様に冷えている、せめて寝巻きに着替えようと。


 つづく


今回も文章おかしい気がします、気がするんじゃなくて実際おかしいんですがね(汗)
そしてまだ少し現在ですね。
う〜ん、石原と楓の遣り取りを少し書いてから過去に行きたいんだけど…
結局は矢部と菊池の遣り取りで。
次こそは!
…風邪引くなよ、矢部。

2005年7月26日

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