[ 第76話 ] ぐらぐらする。立ち上がっても歩いても、足元が不安定で酷く怖い。身体は重いし…まるで下の見えない崖の、細い細い道の上を歩いているような気分になる。 「あー…めんんどくさ」 シャツのボタンを外す時も、ベルトを引き抜く時も、揺れて揺れてしょうがない。脱いだ衣服をその場に捨て置いて、苦労の末に洗いざらしの寝巻きに袖を通して寝室に戻り、矢部は深いため息を付いた。 「ベッド…濡れてるやん」 我ながら呆れてしまう。濡れたままの衣服を着て寝転がれば、当然水分は下に吸収される。ゆっくり休もうにも、ベッドで眠っては状態が悪化するだけだ。 やれやれと、ベッドの隣のソファに身を沈めた。 「…切ないなぁ、なんや」 歪んで渦巻く天井を見ながら、ぽつり。目がぐらぐら、視界はぐるぐる、脳みそはゆらゆら。酷い吐き気もするのに吐けなくて、頭のてっぺんではまるですぐ上で道路工事をしているかのような喧しい音が響いて痛い。 ホンマに二日酔いみたいや…なんて思いながら、深く深く静かに息を吐き出して天井をただ見つめる。薄い毛布を身体にぐるぐる巻きつけて。 「熱…高いんかな」 多分間違いなく、高いと思う。それなのに、どうしてこんなにも意識ははっきりとしているのか不思議でならない。いっそ意識も曖昧なら、こんなに辛くはないのにと悔やむ。 「やめや、やめ…」 色々考えてしまいそうで、怖い。寒い、暑い、苦しい、だるい…眠い。 「つ…」 唐突に襲いくる眠気に、思わずにやりと笑んだ。そうだ…眠ればいい、何も考えずに。 雨、雨、雨。ザーッと、夜が開けた今もなお降り続ける雨の音で、楓はふっと瞼をあげた。 「…あ、れ?」 まだ少しボーっとするものの、眩暈などはない。 「石原くん、彼女、起きたわよ」 唐突に横から声、女性の。 「本当ぉ?あ、本当じゃ、起きちょるの」 続いて遠くから、声が近づいてくる…かと思えば、目を開けた楓を覗き込むように。 「わぁっ?!」 あまりに突然の出現に、慌てて飛び起きようとした楓は覗き込んできた人物とおでこがぶつかってしまった。ゴツン!と、豪快な音がした。 「あだっ…か、楓ちゃん石頭、じゃのぉ」 「ふぇ…え、あ、れ?」 おでこをさすりながら、彼は笑う。楓もぶつかったおでこに痛みを感じ、さすりながらその顔をまじまじと眺めた。 「石原さん?」 きょとん、と。 「なんじゃ、昨夜の事覚えちょらんの?」 彼は…石原は、オールバックではなかった。金色の髪の毛が、さらさら揺れているのを、楓ははじめて目にし…なんだか、胸がうずいた。 「昨夜…って、え?」 「え?じゃないけぇ、雨ん中濡れねずみで、泣いちょったじゃろ?倒れて、兄ィんとこには行きとぉないて言うから、ワシの寮に連れてきたんじゃ」 さらさら揺れる髪の毛を、ぼんやり眺めながらぼんやりと話を聞く。その中で、フッと、ある単語によって現実に引き戻される。 「あ…そう、でした、よね」 脳裏に浮かぶ、優しい顔。笑顔。泣きたくなるような… 「昨夜は熱が高くての、このおばちゃんに看てもろたんよ。じゃけぇ、すっかり治ったようじゃのぉ?」 「熱?」 「熱じゃ。顔、すっきりした顔しちょるしの」 手を伸ばし、石原は楓の髪をくしゃくしゃと無造作に撫で付けた。手が離れてから、ぼさついた髪の毛を直しながら楓は、小さく息をついた。 「…すみません、ご迷惑おかけして」 そのまま、石原と、傍らで何かを作っている初老の女性に会釈。女性は楓をちらりと見やり、手を止めると石原と同じように、楓の髪をくしゃくしゃと撫でてきた。 「柔らかい髪の毛ねぇ…具合が良くなったようで良かったわ。じゃぁほら、私は色々やる事があるから、アンタは石原くんの部屋にとりあえず行きなさい」 そう言って、女性は楓の手を取り立たせ、半ば強引に、石原と共に部屋を追い出すように笑った。 「え?え?え?」 「おばちゃんツレないのぉ…」 「何言ってんの、寮母の仕事も大変なんだから」 ぴしゃりっ、とドアを閉められて、楓は唖然とする。 「え?」 「驚いたじゃろ、あのヒト、あーゆうヒトなんじゃ。じゃけどの、昨夜は一晩中楓ちゃんの具合がよぉなるよう看とってくれたんじゃ」 「は、はぁ…」 きちんとお礼も言えずに出されてしまい、しゅんとなっている楓の手を、今度は石原が掴んだ。 「とりあえずここに立っとってもあれじゃから、ワシの部屋行こか」 「え?あ、はい」 楓の手を掴んだまま、階段をゆっくり上がる石原。不意に、大きなあくびをした。 「あぁ、眠いのぉ…」 「あの、石原さんも昨夜?」 「んーにゃぁ、ワシは野暮用でちょっと起きとったんじゃぁ…」 もう一度あくびをした頃に、立ち止まる。そこが石原の部屋らしかった。ドアを開けると、どうぞ、と楓を先に中に入れた。 「あ、お邪魔します…」 「そこら辺に座っちょって。ワシは髪、セットするから…あ、ワシそれから出かけるんじゃけど、楓ちゃん、どうするんじゃ?」 壁にもたれて腰を下ろした楓に石原は笑顔のまま続けた。 「何もないんじゃったら、ワシの用に付き合ーてくれる?」 ここまで世話になっておきながら断る事など、まず出来やしないだろう。楓は考えるまもなく「あ、はい」と答えた。 「じゃぁ待っちょって。10時くらい迄にはセット終わるけぇ」 「あ、はい…え、10時?」 答えてから、楓はぐるりと首をひねって壁にかけられた時計を不思議そうに眺めた。現在時刻、朝の、7時…35分。 「石原さん?今、10時までにって言いました?」 「言うたよ」 10時…?今は7時半くらいで、え、10時? 「髪のセットに二時間以上かかるんですか?」 思わず驚きを口に出すと、石原はごくごく普通にうなずいた。 「ボーっとしとるんも暇じゃろ?その辺の本とか読んでも良かーよ」 石原に目を向けると、整髪料の並べられた棚に立てかけられた鏡を見つめたままで、真剣そうな表情で櫛を使って髪を梳いていた。仕方がないので楓は、きょろきょろと部屋を見渡し、最初に目に付いた一冊の本を引き寄せ開いてみた。 A4サイズで、分厚くて。一目でアルバムだと分かった。 「あ…」 そこには当然なのだが、石原が映っている。そしてさりげなく、矢部も写っていた。 ケンおにーちゃんだ…… 多分、石原自身がカメラを構えて撮ったのだろう。斜めになってるし、少しピントもずれているように見える。けれど、そこに写る矢部は石原を、呆れたながらも微笑ましげに眺めているようだった。 開いたのは後ろの方からで、前の方をめくっていくと遡る時間の中にいるみたいで楽しい。ほとんど石原が写っていて、その7割には矢部がいて胸が痛くなるのを感じながらも、自分の知らない時間をすごしている矢部を見るのは嬉しかった。 「優しい顔…」 青い空の下ではしゃいでいたり、灰色の壁の小さな部屋で眉毛を顰めていたり。ぺらぺらとめくっていく内に矢部の姿はなくなり、青い警察の制服を着た石原の姿が満面の笑顔で立つものがあった。 その時点で既に髪は金色のオールバックで、つい笑みがこぼれる。幾つ位の頃だろうか…無邪気な微笑みはどこか懐かしくも思える。ちらりと、髪のセットを続ける石原を横目で見遣り、楓は首をかしげた。 「…なんで懐かしいんだろう?」 小声でポツリ。 「何を読んどるん?あー…それ、アルバムじゃのぉ」 ちらり、石原も、楓のポツリポツリ呟く声に興味を示してコチラを見遣り笑った。 「しばらく整理しとらんかったけぇ、古いもんの方にごちゃごちゃ混ぜてしもたんじゃ」 兄ィも、若い頃の自分も写っちょるのがあるやろ?と続けながら、それでも目線は鏡に戻っていた。 「ええ、石原さんの、お巡りさんの写真も」 「あぁ…ワシも昔はお巡りさんじゃったからのぉ」 「似合ってますよ、お巡りさんも」 ククク…と、二つの笑い声が室内に響いた。 「石原さん、髪はずっとそれなんですか?」 「そうじゃのぉ、警察学校出てからずっとじゃ」 その言葉に、じゃぁその前は?と思う。普通に黒い髪だったのだろうか、髪型はどんなだったんだろう? 「あの…」 聞いてみようかと思ったが、やめた。聞くよりも先に、めくったページに黒髪の石原が写っていたから。 「黒髪だ」 くすり、なんだかおかしくて。ちらりと再び横目で見遣ると、石原は尚も髪を整えている。 しばらく、楓は黙ったままアルバムを眺める事に集中した。そうしている内に、気が付けば二時間が過ぎていて、アルバムの中の石原は黒い学生服を着ていた。 「今、何を見ちょるん?」 唐突に、頭上から声。 「え?」 振り向くと、立ったままで石原が楓の手元を見つめていた。 「ああ、それ、チュー坊の時のじゃ」 髪のセットを済ませて、ワックスで固められたオールバックは見慣れたものだ。 「中学、学生服だったんですか?」 「そうじゃの、詰襟の学ランじゃ」 目元を少し隠す程度の、長めの黒髪の少年が、カメラに無邪気な微笑を向けていた。 つづく あれー?本当に予定通りにいかないなぁ… ここでアレがあーなって、次は過去話…の予定だったんだけど。 アレがあーなるところまで行かなかったので次も現在、かな。 矢部さんは風邪引きで倒れてしまいましたし…同じく熱出して倒れた楓は復活ですね。 治るの早いかな? 2005年7月30日 |
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