[ 第83話 ]


 俺は愛する人を、失ったわけじゃない…
 ─── カラン…
 クリスタルグラスの中で、琥珀色の液体に浮かぶ大きな氷が静かに鳴った。ちらり、カウンターの脇に置かれた重厚な時計に目を遣り、時間を確認する。
「もうすぐ8時だな…」
 時計の針が示すのは、7時50分。矢部が約束の店に向かおうと、電車を乗り継いでいる頃だ。抜沢は一人、店には7時前に着いていた。
 本来は8時開店の店なのだが、威圧的な抜沢の眼差しに腰が引け、開店準備でばたばたしていても構わなければと店内に招き入れた。ウイスキーを頼む抜沢に、文句を付けられては敵わないと秘蔵の一品をグラスに注ぎ、そそくさと開店準備へ。
「…終わらせねぇとな、早く」
 そうして、あと10分もすれば店は開店。矢部が訪れて一時間後には蔵内がやってくる。抜沢は残された一人の時間を、ゆっくりと溶けるグラスの中の氷を眺める事に費やした。
 そうしていると、少し胸が痛む。だからひっそりと、心の中で呟くのだ。俺は失っていないと。
 ─── リン…店の、入り口の戸に付けられていた小さな鐘が控えめに鳴った。
「いらっしゃいませ」
 店員の一人が声をかけると、戸の隙間から恐る恐ると顔を覗かせる矢部がいた。
「矢部、こっちだ」
「あ、先輩」
 抜沢の姿を見つけて、少しくすぐったそうな顔で矢部は近くまで駆けてきた。園で一体何を聞いてきたのか…抜沢には何となくだが、見当がついた。
「チビは?」
「寝てしもうたんで、頭なでてきました」
「そうか」
 楓を想う矢部を見ていると、思い出す事がある。芹沢と生きていた頃の自分と、なくしたものを。
「あれ?先輩、かえちゃんの事、こないだ名前で呼んではりましたよね?なんでまたチビに戻っとるんですか?」
「あ?知らねぇよ、そんな事」
 そういえば名前で呼んだ事もあったかもしれない…そう思いながら、片手を挙げて店員を呼び、矢部用に安い酒を注文した。
「ちょっ、先輩、まだ仕事中…」
「うるせーなぁ、飲み屋に入って茶でも頼めって言うのか?大丈夫だよ、一杯だ」
「一杯って、そういう問題じゃ…」
 そこまで言って、矢部は「あ」と思い出したように持っていた包みを抜沢の前に置いた。
「あ?何だコレ」
「おにぎり、芹沢センセーが持たせてくれたんですよ」
 ピクリと、肩がわずかに動いた。
「…余計な事しやがって」
「すんません」
「お前じゃねぇ、アイツだよ」
「芹沢センセー?」
「…あぁ、気ぃ遣いやがって」
 抜沢のその言葉に、矢部はにこりと微笑んで包みを開いて一つを抜沢に寄越し、もう一つを手にとって頬張り始めた。
「…ちっ」
 抜沢も、諦めたように寄越されたそれを頬張る事にした。あと一時間もすれば、蔵内が来る。そうすればこの事件の、幾つかの事にはケリがつくのだ…
「芹沢センセて、えー人ですね」
「何だよ、突然」
「何でもないですよ」
 わかってるんだ…何もかも。こいつはこいつなりに、全てを見てきた…抜沢は、隣でおにぎりを頬張る矢部を見てふと思った。
「刑事を長くやってると、痛い目くらいあうぜ」
「え?」
「蔵内がきたら俺がしめるから、お前は黙って見てろ」
「先輩?」
「お前は怪我しないよう、見てればいい」
「せんっ」
「楓をこれ以上苦しませたくないんだろ」
 ぴたり、固まるように矢部の動きが止まったのを確認してから、抜沢はちらりとその目を見て、静かに笑んだ。
「これから何があっても、お前は動くんじゃねぇ」
 全部俺がやるから…そんな言葉を含んで、ぐぃっとグラスを傾け中身を飲み干す。
「…大丈夫、ですよ。オレはそう簡単に怪我なんかしません」
「そうか?じゃぁ好きにしろ」
 にやっと、笑う抜沢。ふと、誰かに言われた事を思い出す。そうか…こいつ、似てるなぁ、俺に。
「怪我なんか…絶対しません、あの子のために」
 強い輝きを放つ眼差し、迷いのない意思。そうだ、それでいい…
「矢部、お前、いつの間にか刑事になってるじゃねーか」
「へ?」
「まだ半人前だけどよ、その目は紛れもない、デカの目だ」
 腕を伸ばして、ぐしゃぐしゃと短い髪の毛を書き撫でて抜沢は、まるで自分の弟に対するような態度で笑う。どこか嬉しそうに。
「ちょっ、先輩?何なんですか、さっきから」
「いーんだよ、気にすんな」
「気になりますて」
 と、その時だ。店の奥で電話が鳴ったなぁと思っていると、奥から出てきた店員が抜沢の方に来て、そっと抜沢の前に一枚のメモを置いた。
「ん?」
「何すか、それ?」
 メモには短絡的に"MPDよりお電話です"と書かれていた。
「MPD?」
 メモを横から見た矢部が、不思議そうに口にする。
「あぁ、三師からか」
「三師って、三師警視の事すか?」
「それ以外に知り合いはいねーよ」
「でもMPDって…?」
「矢部…お前馬鹿だろう?警視庁を横文字にすりゃそーなるんだよ」
 ちょっと電話に出てくる…そう告げて、抜沢は店員に案内されるようにカウンターの内側に回り店の奥に進んだ。
「警視庁を、横文字…?」
 残された矢部は、う〜んと頭をひねる。警視庁とは否、Metropolitan Police Departmentと英訳するのだが、この時の矢部にはそこまでに至らず。しばらく悩む事になる。
「おう三師、電話してくるなんて珍しいな」
 店の奥では、受話器を耳に当てる抜沢がいた。
「三師?」
 だが、受話器の向こうからは何も聞こえてこない。
「おい、み…」
 どん…と、後ろから、静かに衝撃。
「な…」
 振り向くと、そこには先ほど抜沢に電話を知らせてきた店員がいた。
「お客にこんな事をするのは気が引けるんですが…ウチも商売です、あの人には逆らえないんですよ…」
 店員はおもむろに、懐から取り出した布を抜沢の顔にあてがった。
「うっ、てめ…」
 ぐらり、意識が回る。エーテルか何かだろう、抜沢はそのまま、その場に崩れ落ちた。

 矢部はその頃、まだ頭をひねっていた。手元の紙製のコースターに、ぐしゃぐしゃと色々書き込んでいる。
「お客様」
「ん、え?」
 先ほどの店員が、矢部に声をかけた。
「あ、何すか?」
「お連れ様からのご伝言です」
「先輩から?」
 ただの電話にしては、長いなとふと思った。
「急用で行かなくてはならない場所が出来たので、待っているようにとの事です」
「あ、そーすか」
 笑顔で立ち去る店員の後姿を見送ってから、矢部はちらりと自分の前に置かれたグラスに目をやった。
「ちょっとだけ」
 仕事中、というブレーキがあったのだが、抜沢がいないと言う一瞬の気の緩みから一口。
「おや、矢部さんじゃないですか」
 突然、声をかけられた拍子に一口以上の分量が口の中に入ってきた。
「ぐっ、えほっ…げほ、けほ」
 少し気管にもいったらしい、咳き込みながら声をかけた人物に目を向けて、矢部は身を硬くした。
「蔵…内」
 隣いいですか?と言いながら、蔵内は矢部の隣に腰掛けた。
「珍しいところで会いますね、矢部さんもどなたかと待ち合わせか何かですか?」
 にっこり、悪意のないその笑みに、なぜか矢部は背筋に酷い悪寒を感じた。


 つづく


脳が正常に働かない状況で続きをサクサク書いてみました。
ぬぬぬ抜沢さーん!
と、さりげなく過去も急展開。いえいえ、今までが引っ張りすぎなんです(汗)
何だかまた間を開けて書いているので、若干妙な具合です…
頑張れ射障!今年はもう2ヵ月半くらいしかないぞ!

2005年10月10日(あ、TOTOの日だ)

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