[ 第85話 ]


 そうだ、もっと早くに気付くべきだった。これから蔵内と対峙するのだという緊張感から、脳の働きが鈍っていたのかもしれない。
「矢部と俺と、蔵内しか知らない事だ…」
 十円玉を幾つか落とし、抜沢は荒い息で受話器に耳を押し当てていた。トゥルルルル…とコール音が響く。
「もう一人いるが、あいつは範疇外でいいか。矢部が脅しを効かせてたからな…」
 ぽつり、ぽつり。呟きながら、痛みを紛らわすかのように。
『はい?』
 抜沢がかけたのは、先日無理やり聞きだした直通番号だった。
「三師か、俺だ」
 訝しげな声が聞こえるが、気にせずに口を開く。
『抜沢?!お前っ…今どこにいるんだ?矢部君がお前を探しているぞ』
 予想しなかった返答に、抜沢は思わず目をしばたいた。
「矢部が…?」
『さっき…一時間くらい前だ、本部に電話があったんだ』
 電話越しから聞く三師の声は、抜沢の脳裏に嫌な予感を過ぎらせた。痛みで朦朧としかけていた意識がはっきりと、クリアになっていく。
「矢部はどこへ行くかとか、言ってたか?」
『いや。私がどうやらお前の居場所を知っていると思ったらしい、知らないと言うと、かけ直すと言って電話を切ってしまったんだ』
「そうか…悪ぃな、詳しい事は追ってまた後で話すから、捜査員を何人か、今から言う場所に向かわせてくれ」
 早口でまくし立てるように、抜沢はある場所の住所と施設の名前を告げる。電話の向こうで、三師の短く息をつく音が聞こえた。
「聞いてんのか?」
『聞いてるよ。先日お前に頼まれて、そこには何人か配備してる。彼らを向かわせるよ』
 ざわざわと何か嫌なものが心の内で蠢いている、抜沢はどこか不機嫌そうだ。
「あぁ、そういやそんな事もあったな。なら一時間もかからないな?」
『10分以内の場所に部屋を借りて待機させてある、5…6人だな』
「充分だ。流石、警視は仕事が早くて助かるぜ」
 矢部から連絡があったらポケベルを鳴らしてくれと、最後に告げると丁度タイムオーバー。十円玉が切れたようで通話も終わってしまった。
「切れたか…まぁいい、用は伝えたし」
 ポツリと呟きながら、無造作に受話器を戻してボックスを出ると不意に視線を感じた。
「…ちっ」
 小さく舌打ち。見当は付く…恐らくは監視されているのだろう。抜沢は口元に薄く笑みを浮かべて、刺された箇所に手のひらをあてがったまま歩き出した。傷は深くないものの、痛みは一向に治まらない。このままでは今後の捜査に支障が出そうだし、何より監視を巻くことも出来ない。
「とりあえず探すか…」
 今は矢部を探す方が先決だろう。向かう先は決まっていた…抜沢は、くるりと踵を返すと、電話ボックスの中に戻って受話器を握り締めた。

 バスの中で、矢部はふと車窓から空を覗き込むように見上げた。
「あ、満月なんや」
 真っ黒な雲の影から静かに、ひっそりと息を潜めるように顔を覗かせた丸い月を見て呟く。
『次は〜、展望台前〜、展望台前〜』
 車内放送にはっとして、"降ります"ボタンを押す。抜沢の消息がわからなくなって矢部が向かったのは、育児養護施設"あさがお"だった。
 なぜか…と問われれば返答に困る。だが、抜沢の身に何かが起こったのなら、多分きっと、手がかりくらいにはなるはずだ。それに…芹沢に聞けば行き先くらいわかるかもしれない。
「だって…」
 バスを降りて、ぽつり呟く。
 だって、そうだろう?抜沢が最も信頼し、信用し、愛しているのは…
「芹沢センセしかおらんのや、今でも」
 婚約していた、結婚するはずだった。その関係が終わってもなお、それだけは変わらないはずだ。それは先ほど芹沢から話を聞いた時に、矢部が感じた全て。
 少し駆け気味に建物の裏に回った。夜間にしか来られない面会者のための入り口をくぐり、芹沢が夜間に使っている部屋の戸を恐る恐る叩いてみる。
 ─── コンコン。
「どうぞ」
 内側からの、返事。静かに戸を開けて中に入ると、芹沢はこちらに背を向けて椅子に腰掛け、何かの書類に目を通しているようだった。
「芹沢センセ?」
「え?あら、矢部さん…どうかされたんですか?今日は夜に捜査があるってさっき…」
 心底驚いたような表情…初めて見たが、芹沢は眼鏡をかけていた。細い金縁の。
「あの…抜沢先輩から連絡とか、きとらんですか?」
 驚いた表情のまま、いいえ、と答える芹沢の眉が少し顰まった。
「あ、いや、ちょっと連絡取れへんようになったから、もしかしてここかなーって思ただけなんで」
 慌てて弁解するが、芹沢は静かに息をついて眼鏡を外し、じっと矢部の目を見てきた。
「大丈夫よ、心配するのはいつもの事だから…慣れてるの」
 だから話しても大丈夫よと、顰めた眉を右手の人差し指で直すように触れて芹沢は笑った。
「え、あ…と、そのぅ…」
 話していいものか、今更ながらに悩む。だが考えても見れば、芹沢に対しては事件の概要すら話してあるのだ。本当に、今更だ。
「抜沢に何かあったみたい?」
 助け舟のような芹沢の一言。矢部はどうしようかと思いながら、おずおずと頷いて節目がちに芹沢に目を向ける。
「…ごめんなさい、どこにいるかまではわからないわ」
 数秒、空に目を彷徨わせてから芹沢は続けた。
「でも多分、ここに来るんじゃないかしら?」
「え?」
「矢部さんが抜沢と連絡が付かないと言うのなら、向こうも同じ状態なはずでしょう?今は捜査の最中なんだし、矢部さんと連絡が取れなくなったのなら多分きっと、楓ちゃんのところに来るんじゃないかしら」
 ここに来て良かった…矢部は、本心からそう思った。芹沢の話には道理がある、間違いなく抜沢はここに来るだろう。なんてったって、矢部には動くなと行ってたのだから…突然いなくなるなんてありえないのだ。
 少しでも早く合流しなければ…拳を硬く握り締めて、矢部は小さく一礼して踵を返した。
「矢部さん?」
「建物の前で、先輩を待とうと思います」
 矢部の言葉に、芹沢は小さく頷いて笑った。
「気をつけて」
「ありがとーございます」
 駆け気味に部屋を出ると、まっすぐ矢部は正門へと向かった。すっかり暗くなってしまった…施設の外灯だけじゃ当たりを窺う事は出来ないだろう。それでも、矢部は自分が来た道をじっと目を凝らして見つめた。
 ここへの交通手段は、車かバスの乗り継ぎと徒歩。誰かが来るのなら、道のりは同じはずだ。
「嫌やなぁ、なんか…嫌な予感がする」
 季節の頃は夏なのに、風が冷たさを帯びているような違和感。暗闇をただひたすら見つめながら、誰ともなしに矢部は呟いた。その予感は間違ってはいなかったと、後になって気づく事になるのだが…今はまだ、知る由もない。
 ─── ルルルルル…矢部が出て行って数分後、芹沢の座る木製の机の上で電話が鳴った。
「はい、あさがおです」
『由美?』
 受話器の向こうから聞こえた声に、ふっと口元が緩まる。予想していたのだろう…
「抜沢?矢部さん、来てるわ」
『そうか…今は?どこに?』
「正門であなたが来るのを待つって…どうかした?」
 電話越しの声だけだが、芹沢は気づいた。
『何が?』
「声…かすれてる?」
 どこか辛そうだと、思った。
『そうか?』
 平気そうに装っているが、わかってしまう。見えない姿を思いながら、芹沢は微かに唇を噛んだ。
「む…」
『それは置いといて本題だ』
 無理しないで…そう口にしようとしたが、それは抜沢の言葉によって遮られた。
『ん?今、何か言おうとしたか?』
 抜沢も気付いたらしいが、芹沢はそのまま首を横に振り答える。
「何も。本題って何かしら?」
『そうか?ならいいけどよ…あぁ、で、本題だ。矢部に伝えてくれ、俺もそっちに行くからと』
 微かにかすれる声、どこか辛そうな息遣い…
「わかったわ」
『ただ…少し遅れるかも、しれない』
「ええ、そう伝えればいいのね?」
『あぁ、けど心配すんな。他にも捜査員がそっちに向かってる、だから…』
「だから?」
 伝えてくれ…抜沢は繰り返しながら続けた。
『無理して動くなと』
 これから起こる事を予測しているように、急いた口調に思わず芹沢は目を伏せた。
「抜沢…」
『由美?』
 言おうかどうか、迷った。けれど、今言わずしていつ口にする事ができるだろうか…芹沢は一度唇を噛んでから、囁くように口を開いた。まるで祈るように。
「あなたも、無理しないで…」
 受話器の向こうで、抜沢が微笑んだような気がした。
『馬鹿野郎…俺を誰だと思ってる』
 刑事が無理しないで、何が出来るってんだよ…そう続けて、頼んだぞと抜沢が電話を切った。


 つづく


終盤の方が良いノリでした…
すなわち、85話は最初の方が妙な具合だと(汗)
え?いつもの事だって?
気にすんな、楽に行こう!(笑)

2005年11月5日

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