[ 第88話 ] ゆらり立ち上がる蔵内、飛び掛れば押さえつける事が出来るかもしれない…けれど、逆に押さえつけられている芹沢がいる。彼女に危険が及ぶ事は避けたい。もちろん、楓にも… 「どこに行く気や」 カチャリ…矢部が口を開いたその直後、金属音が微かに鳴り響いた。 「え?」 そこで始めて矢部は、芹沢を押さえつけている男の顔を見た。確か蔵内は、男の事を”海老名”と呼んだ。 「海老…名?」 海老名は懐から、芹沢を抑えたままで器用にも銀色の細いチェーンのようなものを取り出していた。矢部に名を呼ばれ、ふと顔を上げる… 「あぁ、アンタ見た事あるなぁ」 まだ若い男だ、矢部よりも下に見える。 「どっかで…会うたか?」 眉をひそめて問う矢部に向かい、海老名はにやりと笑むだけ。チャラリチャラリとチェーンをまわしながら。 「海老名、余計な事はしなくていい」 不意に、気だるげに頭を垂らしていた蔵内が顔を上げて口を開いた。 「蔵内さん…大丈夫すか?」 俺に構うな、とでも言うように掌を向けて蔵内は、静かに頷いて続けた。 「早くヤマを片付けよう」 ヤマ…か、警察用語でもヤマと呼ぶものがあるが、多分同じような意味合いなのだろうと矢部は見当違いの事を考えていた。 「そうすね、じゃあ手始めに」 蔵内の言葉に促されたかのように、海老名はそのチェーンを押さえ付けていた芹沢の手首にぐるぐると巻き付け始めた。 「何する気や…」 二人に何かあってはいけないと動けないでいた矢部だが、様子を伺いながら口を開く。 「何も…暴れられたら困るから」 海老名は飄々と、巻き付けたチェーンの両端を錠のようなもので繋ぎ止めながら答え、そのまま立ち上がると蔵内の横に並んで立った。 「蔵…」 ヂャラリ…何かを言おうと口を開きかけた矢部だったが、なぜか、芹沢が身じろいだ時に響いたチェーンの擦れる音に止められた。 「探してたんだ…」 そっと、蔵内の呟きに合わせるように海老名が横たわる楓に近づくと、その細い首筋に指を這わせた。 「くっ、蔵内!!」 蔵内にやめさせろという意味合いで、楓に触るなと、続けたかった… 「この時を、俺は待っていた」 止めようと怒鳴る矢部を無視して、海老名はそのまま両手で楓の首を握るように覆った。蔵内はただ、それを眺めながら呟く。 「やめっ…」 「止めたかったら止めればいいだろう?」 傍観する蔵内が、にやりと笑う。それが矢部のブレーキを外したようで、矢部はもう何も考えずに海老名に飛び掛っていた。 「やめぇやっ!!」 脇で芹沢の、息を呑む声が聞こえた。が、すでに矢部は海老名を捕らえ、その肩をしっかりと掴んだまま床の上に転がっていた。 不思議な事に、蔵内は表情すら変えずにその場に立っていた。 「アンタは何を求めてる?」 不意に、矢部の肩越しに何かを眺めながら、海老名が呟いた。 「何っ…」 「俺はいつだって、手に入る事のない安息を求めているのさ」 ぞくっとした。 矢部は、仰向けに転がった海老名を押さえ付けていた…カチャリと、耳に馴染んだ金属音と蔵内の、低い声が響いて。 「矢部さっ…」 芹沢の、短い叫び声が聞こえて、思わず息を呑んだ。 ヤバイ、オレ、死ぬかもしれへん… その直後、矢部の耳に響いたのは乾いた銃声。矢部の顔の丁度真横を、蔵内の生気の抜けた眼がすり抜けていった。 「え…?」 ドサリと、直前まで矢部に向かって突き付けられていたと思しき黒い拳銃を握り締めた蔵内が倒れ込んだ。 「なっ…」 ドサリ…と、続いてドアの方からも、倒れる音。 「抜沢っ?!」 芹沢の声に、矢部はそちらへと首をひねり青褪めた。 「え…抜沢先輩?」 途端に、力の抜けた矢部の腕を払いよけて海老名が立ち上がった。 「っつ?」 「求める安息なんて、そう易々と手に入るもんじゃないさ…」 そう呟くと、足元に倒れた蔵内の手から拳銃を抜き取り、銃口を自らの眉間につき立てて引き金を引いた。 乾いた音が響く。 矢部は唐突に、目の前が真っ暗になった。目の前で起きた幾つもの出来事に対して、上手く受け入れられずに電脳がショートしたかのように。ただ、楓の意識がない間の出来事で良かったと思いながら… 「…い、おい矢部!」 誰かに呼ばれる声で、はっと意識を取り戻した。矢部を呼んだのは、井村だった。 「井村…?」 真っ白いカーテンが窓際で揺れる、真っ白い部屋…病院?と思うより先に井村が心底ほっとしたように続ける。 「良かったよ気がついて。抜沢さんが…三つ隣の個室にいるから早く行った方がいい」 どこか少し、辛そうな表情。 「先輩、が?どないしてん…」 眩暈のようなものを感じながら起き上がり、矢部は眉間の辺りを押さえて眉を潜めた。 「あ、あぁ…あちこち、何かで殴られて、あと頭も殴られたようで…わき腹に刺し傷も」 「えっ?!」 とりあえず部屋に行けと促され、ふらつきながら矢部はその部屋を飛び出し、言われた三つ隣の個室の戸を、ノックもしないで開けた。 「あ、矢部さん…」 「芹、沢センセ…」 突然の来訪者に、一瞬びくりと肩を震わせた芹沢だったが、それが矢部だとわかるとほっと息をついて、何とも言えぬような表情を向けた。 「気が付いたのね、良かったわ…間に合って」 すぃっと、そう続けながら視線が窓際のベッドの方へと移った。矢部もまた、つられるようにベッドへと視線を移し、息を呑む。 頭以外は布団の中だが、恐らくは全身に巻かれているのであろう、仰々しいほどの包帯。頭部にもしっかりと、巻きつけられている。片方だけ出された腕には、細い管、点滴。 「先輩…」 抜沢がそこに、横たわっていた。小さく呟くと、やっと矢部に気付いたようで静かに顔を動かし、こちらを見て抜沢はにやりと笑んだ。 「よぉ…」 抜沢に近づこうとしたところを、芹沢に止められた。そして耳元で小さく、囁かれる。 「全身打撲で、出血多量で、感染症も起きてて…普通なら動ける状態じゃないって」 「え?」 続けて、明日まで持たないだろうと医者が告げた事を伝えて寄越した。 「私、何か飲み物を買ってくるわね」 「おー、頼むな…」 気を利かせたのかどうか、芹沢は苦々しく微笑んだままその部屋を後にした。そこに残されたのは、横たわる抜沢と矢部のみ。 「…せんぱ」 「矢部よぉ…」 「あ、はい」 何か言おうとしたが、抜沢に遮られてそれは返事に変わった。 「調子…どうだ」 「オレは、何とも…それより先輩こそ、それ…その傷で、普通なら動ける状態やないって…」 今しがた芹沢に聞いた事が、すぐさま頭に過ぎる。 「はっ…普通の奴と俺じゃぁ、鍛え方が違ーよ、根性も、な」 いつもの口調に変わりはないが、今まで見た事もないような穏やかな表情に、矢部は寒気を感じずにはいられなかった。 「先輩…」 「威嚇もしねーで蔵内を撃っちまった、処分は免れねーよな…」 「先輩」 「けどまぁ、お前に何もなくて良かったよ、楓も無事だったし」 「せんぱ…」 思わず、涙が溢れてきた。 「そこに丸椅子でもあるだろ、掛けろよ」 徐に、抜沢が促すと矢部は、一度目元をぬぐい黙ってベッド脇の小さな丸椅子に腰掛けた。 「さっき…由美と話をしたんだ」 天井を眺めたまま、抜沢は唐突に口を開いた。 「え?」 「もし…この事件が、何事もなく解決したら」 「解決、したら?」 少しの間をおいて、抜沢は続ける。 「籍入れて、楓を養女にするかって。まぁ、楓に限らず、園のガキ共皆まとめて、面倒見てやろうかって、思ってたって」 矢部は思わず、顔を上げて抜沢を見た。 「籍って…え?」 「昔…よぉ、俺ぁあいつと、所帯持つつもりでいたんだ」 その話は、芹沢本人から聞いて知っていた。涙が溢れて止まらなかった、話。 プロポーズして、婚約した事。 しばらくは静かに穏やかに、過ぎていった幸せな日々。 面倒な事件が起きて、しばらく音信不通になった事。 …そんな時、園に押し入ってきた強盗から子供達を守ろうとして、芹沢の両親が亡くなった事。 そのショックで、流産して二度と子供の出来ない体に芹沢がなってしまった事… 芹沢から別れを告げられたが、思いを断ち切れなかった抜沢の、感情までは矢部は知る事が出来なかった。 「少しでも、ほんの僅かでも繋がっていられればいいと、俺は思ってたさ…」 だから、それが必要だと感じればあさがおに子供を連れて行ったと抜沢は言う。電話ででも、様子が伺えればそれで良かったと。 「俺は、死ぬだろう?だから、それも無理になっちまったなぁって…そんな話をよ、さっき、したんだ。由美と」 ぬぐったはずの涙が、矢部の頬を伝って零れ落ちた。 「先輩…」 「蔵内も、一緒にいた若い男も死んじまった…事件は解決したのになぁ」 「せんぱ…すんません、オレ、が…」 ボロボロと、ぬぐってもぬぐっても涙は溢れて、零れ落ちた。 「謝んなよ、いーじゃねぇか…お前も無事、楓も無事、由美も…無事だ。事件も解決した」 「んな、事、でも…」 事件が解決して、皆が無事で、それでいーじゃねぇかと抜沢は天井を見ながら笑う。 つづく ものごっつ時間を空けての更新となりました。 そして半ば無理やり過去編を終わらせようかという展開…切なくてたまりません。 もっとしっかり書きたかったけど、表現力がおっつきません。 年明けちゃったしね…1年5ヶ月の連載はまだまだ続きそうです。 だってこれからの現在編も長いんだもの(汗) 2006年1月8日 |
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