[ 第89話 ]


熱が少し上がったらしい…ソファの上で、矢部はぼんやりと天井を見ながら思った。頬に流れた幾筋かの涙の跡に気付いて、毛布から出した手の甲でぬぐった。
「先輩…」
 昔の事を、よく思い出す。楓と出会ってから。一つ思い出すと、芋づる式に他の事も思い出す。思い出したくなかった事も、記憶の奥底に閉じ込めていた事も。
 尊敬して、信頼して、憧れたあの人が逝った日の事も。思い出すと、今でも涙が出る。
「結局オレぁ、あの頃と変わっていないんやな」
 ヒタリ…涙がこぼれた。あの日の事は、何年経っても思い出すのが辛い。少し開いたカーテンの隙間から、窓の外を眺めて小さく息をつく。
「…雨、止んだんやなぁ」
 かすんだような空を見ると、僅かだが心も軽くなる。ふと矢部は、もう一度静かに瞼を下ろした。思い出すのは辛いと言いながらも、忘れてはいけない事もあると、思い出して。

「刑事を辞めるという事か?」
 抜沢の葬儀が済んでから、矢部は移動願いを公安部第五課の課長に出した。
「オレは…」
「今は抜沢が抜けて、人が少ない状況だ。新しい案件もある」
「でもオレ…自分は何も」
「抜沢は殉職で二階級特進、警視だ」
 課長は矢部の渡した移動願いを机の上に放ると、懐から取り出した煙草を咥えて続けた。
「それから辞令はまだだが、君にも一階級特進の話が出ている。春からは警部補だな」
「え?」
 抜沢と矢部は、個人プレーではあったものの事件を解決へと導いた事が少なからず評価されていた。警視総監賞の話も出ていると、煙草に火をつけながら課長は言った。
「オレはそんなんいりませんっ!」
 刑事を辞めようと思ったのは、目指すものがなくなった事に関しての悲観と、自信の喪失だった。それともう一つ、危険な分野から退き、出来るだけ楓の傍にいられるような場所に行こうと。
「いらない?」
「そんな賞も、特進もいりません!だってオレは何も出来へんかったし、先輩も死んで…」
「君には義務がある」
 課長は机の上の、放った矢部の移動願いを手に取ると、大きなガラス製の灰皿に乗せてライターの火をかざした。
「かっ、課長?!」
「君には伝える義務がある」
 すぐに火は、それを覆いつくした。
「矢部くん君は、抜沢とは何年一緒に仕事を?」
「え?あ…1、いえ2年くらい、です」
「今まで抜沢と組んだ奴は、1年と持たなかったよ」
「それはどういう…」
 パチパチと音を立てて、移動願いはあっという間に灰に変わる。
「見込みがあると、抜沢も言っていた」
 トン…煙草の先の、灰をその上に落としながら課長は、矢部の目を見た。
「抜沢は仕事の出来る人間だったが、上を目指そうとはしなかった。なぜかわかるか?」
「…現場が、好きやから…ですか?」
「それもある」
 クッと、笑い声を立てて課長は再び煙草を咥える。
「抜沢は現場を好み、見込みのある人間に公安での捜査の鉄則を叩き込んできた」
 あ…と、思う。何時如何なる時も抜沢は、矢部にあるゆる手法を突きつけていた。
「矢部くん…君は抜沢と長く共に捜査を続けてきたんだ。多くの事を学んだだろう?」
「それは…」
「課長職の私が言う事ではないが、抜沢の考え方や強引な部分を含む捜査の手法は、公安刑事としては必ずしも、なくてはならないものだ」
 危険ではあるが、それも含めて優秀な刑事だったと。矢部はただ、黙って頷くよりなかった。
「それで…課長はオレに、いえ、自分にどうしろと…」
「君には伝える義務がある。抜沢から伝えられてきた全ての事を、次の若い世代に」
 だから君は春から警部補になり、公安刑事として続けていくんだと課長は言って矢部に、持っていたライターを握らせた。
「課長?」
「抜沢の遺品にあったものだ。形見として貰おうと思ったが、君が持っている方がいいだろう」
 鈍色の、抜沢の愛用していたライターだ。
 ここまで言われて、辞めれるはずもなかった。新しい案件に身を投じ、抜沢の意思を伝えようと決めるまで時間はかかったが結局公安に居続ける事になった。
 だが、別れは続くもので、唐突に矢部は支えをも失った。
「あさがおの園長から何度も電話があったぜ」
 蔵内の死後、事件の裏づけや新しい案件の聞き込みで、すれ違いになっていた署員と一週間ぶりに顔を合わせた際に、声をかけられた。
「え?」
「悪いな、こっちも案件あったもんで、伝えるのが遅れた」
 そういえば忙しくて、抜沢の死後、楓にすら1度しか会っていなかった。
「芹沢センセ、ご無沙汰です」
 何事だろうかと園を訪れて、矢部は愕然とした。
「矢部さん…」
「あ、そういやオレ、センセに相談があったんですわ。かえちゃんの事で…あの子を、オレ、引き取るとかって出来ますかね?」
 ずっと思っていた事だったが、何よりもそれは、遅すぎた。
「矢部さん、ずっと連絡とりたかったんですけど…」
 芹沢は少し辛そうに、楓の不在を告げた。
「え…?」
「楓ちゃん、昨日引き取られたんです」
 楓の母親、遥の母親…つまり、楓の祖母である。勘当後すっかり縁遠くなっていたのだが、今回の事件の事を聞きつけ、楓を引き取りに来たと言う。ここ数日で手続きが済んで、つい昨日楓は祖母と共に日本を発ったと、芹沢は告げた。
「急な事だったんだけど、楓ちゃんのおばあさまの方も滞在期限の関係で急を要するという事で…矢部さんにも相談したかったんだけど」
 とにかく連絡が取れなくて。向こうは弁護士を伴い必要な書類も全て揃えていたと言う事もあり、何の滞りもなく手続きが完了してしまったと言う。
「楓ちゃん…発つ前に、ケンおにーちゃんは?って」
 抜沢の死後、楓はポツリポツリとだが喋るようになっていたらしい。芹沢は矢部に一枚の画用紙を渡した。
「楓ちゃんね、皆に手紙を書いてくれたの。それ…矢部さんによ」
 祖母…両親を失った楓にとって唯一の、親類。引き取られるのは当然かと思いながら、画用紙の上に書かれたものを見て矢部は、涙を浮かべる。
「センセー…引き取ったっちゅうおばーさん、どんな人でした?」
 零れ落ちそうになる涙を、芹沢に気付かれぬように拭って矢部は聞いた。
「穏やかで、優しそうな人だったわ。ちょっときつそうだったけど」
 幸せになれるだろうか…ただ、そう願う。

 〜 ケンおにーちゃんへ。
 かえは、ケンおにーちゃんがだいすきです。
 かえは、ケンおにーちゃんがいつもゲンキだといいなとおもいます。
 だから、ケンおにーちゃん、いつもゲンキでいてください。
 おしごとがんばってね。
 かえより 〜

 画用紙の上に、クレヨンで。覚えたばかりのひらがなで、つたない言葉で。ただ優しさに満ちた、楓の言葉。
「えー人なら、えーですわ。多分きっと、オレといるよりそん方が…」
 ぎゅ…と、画用紙の端を握り締めて矢部は笑った。
 楓のためなら…頑張れるだろう。まだ少し矢部は、公安に居続ける事に抵抗を感じていたのだが、ふと思う。いつか楓がこの街に、自分の前に戻ってきた時に…楓が何も案ずる事のないように、守っていこうと。刑事としてやれる事をしようと。
 それが全てじゃないかと。

 額に手を当てると、熱さを感じた。何度くらいかなぁなどとぼんやり思いながら、瞼を上げる。
「あん時と、同じやな…」
 離れてしまった事を後悔しても遅い。だから今は、楓の住む街の平和を守ろうと、あの子の過ごすこれからの、平和な日々を守ろうと…
 深く息をついて、毛布を顎まで引っ張りあげて矢部は再度目を閉じる。少し眠ろうと思いながら。


 つづく


この展開は無理がある?
回想と現在と過去が入り乱れると言う怪奇現象(笑)
でも一通り済んだ…かな?と思いきや事件の真相を書いていなかった。
とりあえず現在に戻って少し話を進めたら、過去の事件の真相を書こうと思います。
そんな日もあるさ(汗)

2006年1月15日

■ 入口へ ★ 次項へ ■
(前のページに戻る時は、ブラウザの戻るをクリックしてください)

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送